caguirofie

哲学いろいろ

Kristeva!?

つぎのような文章に出会うと いつも とまどった。けっきょく 感覚の世界をうまく言い当てているような表現なのだが ほんとうにそうなのかと問い続けなければならなかった。

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詩的言語の革命 第一部 理論的前提》は 女性としての立場からの考察の所産なのです。

クリステヴァ自身語っているように 彼女の詩的言語論の中核には女性=母が場を占めている。形式化と意味作用と伝達を可能にする《記号象徴態le symbolique 》に先行し またそれにとってあくまで異質なもの つまりけっして形式化されることのない無限(無限定)の運動性である《原記号態le sémiotique 》は 比喩的にと同時に実質的に母の身体である。
自己と他者 主体と客体がいまだ未分化なまま母と融合している幼児の状態といいかえてもよいだろう。母=子融合状態はやがて鏡像段階にいたって自と他に分離し さらにエディプス期を経て母は禁忌となり 母語の背後へと姿を消してしまう。このようにして主体は言語活動を獲得し 父の領域《ル・サンボリック》へと移行することになる。
ところで 生殖と快楽をテクストにあらわにさせるということは 詩人が口唇段階への退行というかたちで母の身体を再発見すること そして禁忌を犯し(一義的意味作用を侵犯し)てまでも 母の身体――形式化されることのない欲動の運動性――との融合をはかろうとすることである。
しかしもちろん母の身体そのものとの合一は不可能である。母の身体は 一義的伝達的言語活動のなかに汲みあげられなかった《母音的身体――のど 声 乳房――として 音楽 リズム 韻律法 パラグラム・・・として》見出されるのである。母との近親相姦は音を介して隔たっておこなわれる。
ちょうど幼児が 恣意性で分離された記号(シニフィアン / シニフィエ)をわがものとする以前に 意味のない しかし口唇的快楽に満ちたリズミカルな母音発生を繰りかえしおこなうように あるいは 主辞=述辞の表現を身につける以前にまずイントネーションが 言わんとすることを指示的にあらわしたように 記号=言語=意味となる以前の そして記号=言語=意味になることのけっしてない音楽(音 リズム イントネーション)が詩的テクストに導入され 母語と戯れて ことばをうたとする。ことばがなによりも音であり 声であり 息であったという事実がよろこびとともに肯定されるのである。
このとき 超越的な始原の言語への到達の不可能性の神話にかわって 生成状態にある言語の 意味でありうたである両義的様態からたちのぼる快楽が 詩的テクストの存在証明となる。《幼児は人間の臍である》とクリステヴァは述べているが 母=子が融合している空間がたしかに詩的言語の特権的な空間であるかのように 詩人たちはつねに 母との再融合を夢みて幼児期という黄金時代をうたってきたのである。
(西川直子〔1942〜*1〕:詩人と母あるいは言葉と歌 in 《〈白〉の回帰 Le blanc revient――愛/テクスト/女性――》 1987 pp.280−281)

  • 詩を読んで そのような感覚を受け取り ある種 浄化・昇華されればよいということだろうか。
  • 《実質的に母の身体である》というまでの感覚ということなのだろうか。
  • それは 《生成状態にある言語の 意味でありうたである両義的様態からたちのぼる快楽》という感覚!!??――わかるような ちょっぴりわかるような・・・。