caguirofie

哲学いろいろ

#14

――ボエティウスの時代――
もくじ→2006-05-04 - caguirofie060504

§2 バルカン放浪 * ――または 孤独―― (14)

このようなたくらみ(青春の)を持つテオドリックは 毎日の行軍が ゆううつであるのでも 爽快であるのでも ない。言わば ひそかに あの運命の顔を見ようとし しかもその顔からの眼差しを避け それらすべてに抗しようとするそのような同じく運命に 突き動かされている一青年であった。

  • ちなみに ネクラの人は この運命に抗しようとしない。ネアカの人は これを見ようとしない。テオドリックは どちらでもなく 物事の引け際において 悪かったのである。言うところは これで 分かっていただけると思う。また 引け際の悪い点で共通でも アウレリウスのように そこに 哲学的な規矩を見て 事足れりとするのではなかった。

この孤独の海に 遊弋して かれが見たものは何だったか。たとえば それは 何であったか。
たぶんそれは 愛欲であろう。愛欲という孤独であり 愛欲としての関係性であり かつ これの自治としてのあの局面展開である。
愛欲とは 欲望・欲求またそのさらに意志と言ったほどの意であり 愛をつけるのは 愛が 人と人との関係性をよくあらわすと思うからである。基軸は 意志という動態である。しばしば 欲あるいは意欲となり さらにこれが 志向性かつ指向性をもつなら それは 関係の問題だという意味で やはり愛の語をつけて表わしたほうがよいと考えた。
テオドリックは ここに必ずしも 哲学的な規矩を見出さなかった。見出そうとは 思わなかった。もちろん放心のとりこになるのではなかったから――そうであれば かれの歴史をとりあげて論じる意義はないのであるから―― この愛欲による関係を また 人間の本質あるいはその規矩としたのでもなかった。
主題は 孤独であり 孤独における遊弋であり 愛欲は その遊弋が一つの対象とするものである。問題は これが 自己の動態であるということであり 問題解決の展開過程だということである。
自己が生きているというコトは この戦いであるように 考えられる。ただ テオドリックの制約条件は かれが この過程で 国家(または 自分が皇帝になること)を 大きな問題とし〔なければならなかっ〕たことであり われわれは ここで この言わば過去の歴史を いまいちど確認し これを取り押さえておこうと思う。
孤独――つまりそのような意味での 同じく 《場》――は 連続しており 素朴な意味での愛欲の関係は これも やはり共通といえば共通であるように考えられるからである。つまりあの第二の局面への問題解決形式の転回は この愛欲からの解放のことであると言っても よいと思われ さらに言うとすれば 第一の局面で 律法(規矩)が不法(つまり 規矩の違反)を ある意味で許容していたとするなら この第二の局面というのは・規矩(法)の場の中の素朴な関係性としての愛欲〔から 解放されるというの〕は むしろこの愛欲の中にこそ 規矩が生きて 生きた規矩が 動態となって この愛欲(第一の)と戦う愛欲(だから第二の)が よみがえってくることだと解されるからである。
われわれは この第一の愛欲から 無縁でありえず それに無関心( indifference )ではありえず また それに対して 無差別( indifference =遅延の皆無)という意味でのやはり哲学的な規矩によっても これから解放されるとは 思えない。動態としての問題解決の展開過程 つまりあの局面転換が 愛欲を 自律した愛となし そのとき われわれが哲学的な規矩をもよく用いうると思う。
これは 確かに闘争(その過程)または旅である。だから ちなみに この愛欲関係が 社会的に(経済的に)一つの集合を形成し 一つのクラスとなっているとみるなら その限りで あの階級闘争の理論も この人間認識をうたっている。だから われわれは この階級闘争の理論も 必要なかぎり 用いることができるであろう。(それは 労使関係のかたちで 現におこなわれている。)われわれは 遅延の 規矩による無化( indifference )によってではなく 遅延・差別( difference )の過程的な解決をとおして この第二の局面を生きていると思われる。解決過程というのは 孤独であり 同時に 第二の局面(むさぼらないが むさぼらないであること。われわれが その自由意志によって むさぼることができないコト という共同自治の形式)では この孤独も 非孤独となって 第二のそれ(孤独)を享受していることであろう。
たとえばマルクス・アウレリウスは その孤独の中で 自身の父との関係においては 《つつましさと雄々しさ》を見たという。祖父との関係においては 《清廉と温和》である。テオドリックなら それに沿って言うならば たとえば父テウデミルとの関係では 《誠実・愚直・勇敢》であろう。母エレリエヴァとのそれからは 《敬虔》である。しかしおそらくかれは そんな自然=社会の関係を――もし 実際そうであったなら しかし そのように言わば濾過されて浮かび上がったところのものを――通り越えて ――むしろその下に沈殿する水なら水にあたるところの――地下水(だから愛欲)を 孤独と規定するのかも知れない。まず これを規定( determinatio / contradiction )する。マルクスのほうを棄てるわけではない。なぜなら 単純に言ってかれは 愛欲の濾過されたところに 上記のそれらを見たのであろうと考えられるから。これは その意味での〔第二の〕孤独(その過程)である。
第一の愛欲とは ふつうの欲求であると言ったが それは わたしたちが動物( animal )と共有するところの魂( animus )であると言ったほうがよい。魂は 身体を基体( subject )としている。質料のいわゆる有機的統一体を基体としている。つまり 精神( esprit )の原初的形態である。あるいは すでに触れたヘーゲルにならって言うなら 人間の自然性である。精神つまり精神の霊は これを 規定する。自然性なる魂を規定する。規定したところの哲学的な形態は 規矩であるとなる。テオドリックは この規矩をむしろ はずしていた。
なぜなら この精神による魂の規矩をも 悪しき精神は 利用することがある。規矩が 人間そのもの われわれ自身〔の自己の同一性〕ではあるまいから。肉・魂・霊の全体(その統一性)が 価値自由的に認識したところの《人間》である。肉が 悪(規矩たる善の欠如)ではない。肉の存続をはかる魂(すなわち 素朴な愛欲)も その限りで 悪ではなく 魂の規矩は 善だが この善を悪用する精神(霊)がある。
すなわち 《むさぼる(不法)》を 《むさぼらない(法)》とするのではなく つまりこの第一の自治形式の局面から解放されているにもかかわらず なお 第二の局面として 《むさぼらないを むさぼらないとする》のではなく 肉と魂を悪用する霊がある。これは 《むさぼるな》を 自分にはおしえないで 人にはおしえる精神である。この悪しき精神は 愛欲とかかわっている。人はだれでも この精神と 《場》を共通としているから――もしくは 精神じたいとしては 皆に共通であるから―― 一般にさまざまなかたちの愛欲に関係して 孤独である。これが いまわれわれの そして テオドリックの課題である。
(つづく→2006-05-20 - caguirofie060520)