caguirofie

哲学いろいろ

#6

――ボエティウスの時代――
もくじ→2006-05-04 - caguirofie060504

§1 豹変――または国家の問題―― (6)

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テオドリックが 不法を法としてしまって 変節を犯した事情と 現代人が 法のもとに 不法を犯す事情とは いかなる関係にあるか。

まず たとえば ともに 法に従えなかった(従わなかった)という点において 両者の情況はほとんど同じである。その従わなかった細かい事情には 大きな不法から日常生活の小さいもの(たとえば 交通法規のささいなと言いうる違反など)までについて さまざまな事情(ここに 性格分析・論理的な環境分析 類的本質・個体的実存 歴史の自然史的な流れを含めた歴史の発展段階論〔これには いくらかの類型がある〕などによる解釈が 入る)が挙げられるだろうが ここでは大きく見て 不法という点で ひとまず同じであるとすれば そしてこの一点に ことを絞ってみるなら ここでもう一度 先ほどのヘーゲルをまず引用することができる。すなわち

奴隷制〔という不法〕は 人間の自然性から 真実に倫理的な(法が法である)状態への移行に属する。

そして この認識を 観念的に・観念道徳的にではなく また そのままを われわれの言う問題解決の展開過程のことをきわめて素朴に言い表わしたものだととるとすれば その限りで われわれの出発点ではある。
つまり 注釈をくわえておかねばならないとすれば 先ほどもアウグスティヌスに触れて 見てみたように 一つの法が法である社会〔とその法〕は それを 絶対的な唯一の倫理規範とみるわけではないから 出発点の基本であるということ また そのまま 文字としてではなく 展開過程の経験現実を言っているのだとすることである。この限りで 類的な知識も個体的な実存も 性格分析も論理分析などなども それらの解釈は この基本的な出発点に立っているはずである。
出発点であるから これを一例としてヘーゲルに従って 《不法は 自然性から真実に倫理的な状態への移行である》とするならば ここで それは何を語っているのかと問うことに 問題は移行するするはずである。その限りで ヘーゲルを引き合いに出すことができるというのと 同じことであるはずである。
この場合 第一に その答えとして 

世界史の ある一つの視点による段階的発展を通じて および その発展後のある一つの社会のなかにおいて〔――そしてその限りで 大雑把に言いかえれば われわれの類として および 種ないし個として――〕 ともに 自然性から倫理性(文明世界)への移行がみられる。

ということにほかならないと考えられる。ほとんど ことばの言い換えにすぎないようであるが この出発の基本地点には ここに言い換えた一つの前提が よこたわっているということになるはずである。

さらに言いかえると このような巨視的および微視的な ともに軌を一にする発展ないし移行が見出されるということは――そのような 普遍的だが 抽象的な俯瞰図を作成するということは―― ここでの問題の中心には 必ずしも 来ない。
むしろ問題は ここで このような発展を説くその視点とは 何かということに転回すると思われるのである。これが テオドリックとわれわれとの歴史的な連続性の問題だと考えるわけである。
テオドリックの時代と世界にかんして言えば この視点というのは たとえばアウグスティヌスにみたように キリスト教という文明ないし倫理ないし法が その一つの代表としてきわめて有力であると思われるが 必ずしも同じくここで キリスト教思想じたいが そのものとして 吟味されるべきであるということにも ならないと言わねばならない。つまり ここで問題を整理すれば それは 《不法を法とする》あるいは《法が法であるとする》それぞれの根拠 となる視点を問おうとすることになると思われる。
この回りくどい議論は そのように言うことによって 人間 ひとりの人間の存在 と同じ高さにある視点 また この視点による人間の把握という われわれの問い求めるものの 場であると考えるのである。この問い求めの場は 少なくともこの場は すでにわれわれは問い求め得たとも言ったのであった。ここから 本論――本論があるなら――に入っていけるように思われる。

ここで われわれは テオドリックのサルマチア遠征に際しての そして同じようにして みづからの国を築くに到るまで その後も繰り広げられる戦闘行為に際しての ある変節にもとづく一連の行動(またはその行動そのものが 変節)にかかわる議論を 一つの結論としてのように 展開できると思われる。ここで結論的にというのは 最終的にということではなく むしろ初めに掲げた性格分析や類的本質の議論やと同じように これらの吟味をも含めて 自由に――経験的にいろんな見解を出し合い したがって 試行錯誤を排除しないで 自由に―― つねに 過程的=段階的な結論として という意味のはずである。
わたしが提出しようと思うのは すでに哲学などに馴染み深い読者なら じゅうぶん気づいたであろうように ひとことで言って それは 国家〔としての行為〕という一つの視点である。より正確にいうなら 国家という一つの〔経験的=可変的な〕視点をとりうる・また 用いうる人間の視点ということである。
単純に言って 〔すでに法を法とした〕ローマあるいはコンスタンティノポリスが テオドリックのゴート族らいわゆる蛮族と戦闘行為に出るとき ローマの側は それが不法とみられることはなかったのに対して 同じ戦闘の相手方であるゴート族らの側は 不法とみられることにあると思われる視点である。
図式的で極端ではあるが 経験的で可変的な視点の問題としては はじめの基本的な出発点という前提に立って こうなるはずである。また これとの現代のわれわれの視点との関係 ということになるはずなのである。
もちろん この時 反面では ローマの側も いわゆる帝国主義として不法とみられることがあること そして ゴートらの側は 不法を法としたのであるから かれら自身は ある意味で法(合法)と見ているということ これらも ただちに指摘しなければならない。また われわれは 現代において共同体ないし国家を超えて 法を見る視点をすでに持っていると言ってよいが しかしその現代の視点〔にもとづく倫理なら倫理〕が どれだけ有効であるか あるいは アウグスティヌスにならって われわれは 永遠に 神の国(法)と地上の国(自然法)とが見分けがつかないほど互いに重なり合った世界に住むというのであれば ヘーゲルの言うように そのような世界にあって 真実に倫理的な状態への移行過程(つまり不法の情況)を その自治を通じて 展開しつづけるものとも思われるので――だから 歴史の連続性を見なければならないと思われるので―― このような現代の視点を 未来へ向けて有効とならしめるためには その中の《国家》という視点を さらに的確に捉えていくことは――すでに死滅しているのなら 死滅したものとして とらえていくことは―― 重要であると考えなければいけないであろう。
つまり 場の問い求め 基本的な出発点の確認が いわば戦略じょうの理論であるとすると ここからの自由な――経験的・相対的で可変的なゆえに 自由な――議論は 戦術じょうの・従って試行錯誤していく問題展開だということができる。これが 本論といえば 本論であるとなる。
ここでは――むろん 一見解として―― この国家という視点で あるいは この視点にかんして いくらかを テオドリックの遠征に触れて論議しておこうと思う。
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(つづく→2006-05-12 - caguirofie060512)