caguirofie

哲学いろいろ

#4

――ボエティウスの時代・第二部――
もくじ→2006-05-04 - caguirofie060504

§1 豹変――または国家の問題―― (4)

そこでそれでは あらためて言いかえれば テオドリックら およびかれらと時代を共にするたとえば相手のサルマチア族のその内面において 不法をおこなうことをいさぎよしとはしない普遍的な考えが どう変わっていくのかを 現代のわれわれに照らして問うことになるだろう。
つまりもっと言うなら 不法は不法であるという理念は じっさいには かれらの間にも 知られ 持たれていたのであるから。

  • こう言うと 不法をおこなえと言ったというふうに 取られかねないが 法の問題は だからそれの不法への人間の内における変節の問題は この現実の過程をほかにして語れない。

たとえばヘーゲルは 《法の哲学〈1〉 (中公クラシックス)》――したがって 不法を論じる――において 《奴隷制》という不法(奴隷になる側にとっても 奴隷を支配する主人の側にとっても 不法)に触れて述べているが それは こうである。そうして まずいまの理念の中味について いくらか確認しておきたい。

人間は 即自かつ対自的に(=絶対的に)自由であるという面に固執することは それによって奴隷制を弾劾するわけである。
・・・
奴隷制は 人間の自然性から真実に倫理的な状態への移行に属する。それは 不法がまだ法であるような世界に属する。その世界では不法が通用し また必然的にその所を得ている。
法の哲学〈1〉 (中公クラシックス) §57)

この認識じたいは 言われているように おそらく何も語っていないと思われる。問題は そう認識するわれわれの観点が われわれ自身にとって何を語るか あるいは 何も語らないかにある。言いかえれば テオドリックが 明らかに変節へと回転し 不法を法とした〔ようである〕事実が 現代のわれわれにどう照応するのかということになる。かれの生まれつきの性格であったうんぬんといった議論では すまされないとわれわれは したのである。これは 現代の問題でもあるから。
さらに言いかえるなら 不法のもとに圧しつぶされた相手方 サルマチア族の知る法のほうは あるいはその不法は いかにあって いかにわれわれに反映しているのか。つまり 《不法がまだ法であるような世界》にも 当然 たとえばもっとも素朴なものとして・従って力あるものとして 《殺すなかれ》であるとか 《隣人の家をむさぼるなかれ》であるとか このような律法(法律)ないし愛が 一般に知られていたことは 言うまでもないからである。
ちなみに律法については パウロが 《もし律法がむさぼるなと言わなかったら わたしは むさぼりなるものを知らなかったであろう》と述べたように 当然 法と不法とは もはやたとえば 不法を受けた側のサルマチア族のあいだでも 知られていたことなのであり そのような事情については 先ほどヘーゲルからの引用で 途中 省略した部分で触れられる次のような関係が 物語っているものと思われる。すなわち

〔・・・奴隷制を弾劾するわけである。〕
だが だれかが奴隷であるということは かれ自身の意志のせいである――ちょうど ある民族が抑圧されるのは その民族の意志のせいであるように。したがってそれはたんに奴隷をつくる連中 あるいは抑圧する連中の不法ばかりではなくて 奴隷と被抑圧者たち自身の不法なのである。
(同上)

という箇所である。――世界あるいは情況としてひとまず そうであると思われよう。
ここで もう少し道草を食おう。それは 先ほどの《隣人の家をむさぼるなかれ》という命題を取ってみて その中の《隣人の家》とは とうぜん《隣人の家 妻 奴隷 家畜またすべての隣人の所有》ということであるが 同じく先ほどのパウロの文章にもあるように このような法〔としての命題〕が知られていないなら その不法も――不法としては――知られていなかったという点について 考えてみなければならない。法の概念のないところに 不法のそれも ないというのは たしかに あたりまえのことである。もう少し この点を広げてみよう。
たとえば テオドリックらにとって文明世界が 

  • たとえばここで キリスト教という文明――すなわち その教えにのっとっての法・不法を分別した人びとのあいだの つきあいの様式 といった意味での文明――をその代表とすれば そのキリスト教

仮りにまだ その律法という福音〔とひとまず表わせば〕を ゲルマーニアの各種族に もたらさなかったとしたなら かれらの間で その限りでの不法が そのとき 法として通用していたのだと見るよりは その法・不法の分別とは離れて テオドリックらに独自の倫理ないしつきあいの様式において かれら種族どうしは 互いに 友好あるいは敵対の関係の中にあった〔のみ〕であろうという そういった視点である。
もちろん テオドリックらゲルマーニアの世界にも 法したがって不法はあったであろうが ここでは ローマ世界との関係を焦点とする限りで また 大きく全世界が 単純にヨーロッパを仲立ちとするかたちで このローマ世界の延長線上にあると見る限りでである。これは 唯一絶対の視点ではないが――そうだと言い張ることは できないが―― ひとつの普遍的な見方であり 問題である。
一般に ここで一般的な概念として文明というからには そのおとなしい平和裡の――法が法であるかたちでの――つきあい方〔という文明のほう〕が 普遍的〔に有効〕なものであると見るべきであることは 言うまでもないであろうから この意味では いま《律法という福音》といったことは それが 単なる分別をおしえるというよりは むしろ 法・不法を分別した上でのいわゆる愛の福音であるというように 言い直さなければならないもののようには思われる。
つまりこの福音には それだけの普遍的な力があるものと思われ また それだけ有力であるからこそ このテオドリックの時代の時点において そのように有力な法が 必ずしもそのまま行ないがたかったという事情によって むしろ 不法を法として通用させざるを得なかったとも考えられる。ただし そう考えると ふたたび あのいちばん始めに提出した論理――すなわち 法を法とするために 不法に対しては不法をもってそれにあたるという命題――が 浮かび上がってくるようであるのだが。
従って 以上のことより ここでの問いは 一言でいって 次のようになると考えられる。それは まず第一に 

そのような不法が法であるような世界は 歴史的に言って いつ終わったのか。

と。ただ もっとも これに対する答えは 必然的に 

法(律法)が 何らかの権力のもとに 法となったとき

というのが 返ってくるであろう。もしそうであれば 次に

法が法であるような世界は 不法が法であるような世界(――つまりそれは ここでテオドリックの時代――)と いかに違うのか

と問うことになる。言いかえれば 

現実としてわれわれが 現代において 法を侵す時があればその時の事情と テオドリックのこの変節という回転の事情とは いかに異なっているのか

ということになる。
(つづく→2006-05-08 - caguirofie060508)