caguirofie

哲学いろいろ

#2

――ボエティウスの時代――
もくじ→2006-05-04 - caguirofie060504

豹変――または国家の問題―― (2)

これ(テオドリックの変節)について すぐに思い浮ばれることは 次のような命題である。言われている現実の問題として 戦争を無くすための戦争という論理 ないし 核兵器を廃棄するための核というものである。
もちろん この命題は 今では論理としても 古いもので また戦争ということに限って言えば その意味する内容として 一方では 単にどんな情況にせよ 相手を現実に殺害することによる闘いという事態があり 他方では 現実の情況の中で 誰もが必ず いづれかの位置を占めているというそのこと自体から 不可避的に起こる一般の闘いという意味での戦争は 不可避であり これを無くすための戦争などというのは 論外であるという向きからすれば この命題は 結局 通用しないものであると とうぜん考えられる。つまりそれによれば むやみやたらの殺害を無くすことに努め 互いに共存を前提として たとえば実質的な(経済的な)論理の連鎖の中に 競争をたとえば生産をひとつの軸として おこなうべきであるという考え方が 提示されうる。
いまこの命題は それが 建て前としてでも 一般に 古い論理であるとしたなら それについての議論は これまでとし 観点を変えて テオドリックの性格についての一つの分析が ここにあるので 見てみようと考える。

  • 史実を離れてでも 幅をもたせて現代の視点に立っても 議論をおこなっていきたいと考える。

まず その引用から始めれば

・・・みずからの野望が 果たせず そして なお自己の内に折り返して くすぶってくると そして しかも空想(放心)に奔ろうというときには テオドリックは 哀れにも 魅惑の中でももっとも魅惑的な悪徳へと自身が つらなりがちであった。たしかに 文明の何であるかを探ろうとして 別の何ものか〔の魅力 たとえば 一条の光〕にとらえられ おのれを鼓吹してはいったが 同時にそのおなじ情熱も ある意味で みずからに逆らって みずからを魅了しつづける野生の強烈さに 根ざしていたのだと言うことができる。
言いかえれば 衝動の激しさや非情さ あるいはひとつのエゴイスムと交錯していたのである。
それを一言でいうならば かれひとりの存在の中には これら両方向の動きは 住みがたかった。――すなわち たしかに テオドリックという人間の中には ある高きにある何ものかを啓示してあまりある《ローマ人》と そして何ものも喪滅させずにはおかない《蛮人》とが 共存していた。
そのとき 一方で あのアッティラを引き合いに出せば そのアッティラは ただ  そのはらわたの嵐において 《蛮人としてのテオドリック》に比して なおそれ以上であったし また 他方で 《ローマ人としてのテオドリック》は 〔たとえば その善政において〕当時の一般のローマ人をはるかに超えてもいた。
(Am. Thierry)

つまり ここでは 視点を 性格というものにおいて 互いに対立する二つの方向への・ともに強烈な動きの存在を 指摘して その分析がおこなわれているのを われわれは 見る。ただ 結論を先に言えば 性格の分析は われわれにかなり説得力をもって そのイメージを浮かびあがらせてくれる反面で どうしても かれを その存在を 平面的なものして見せてしまう制約の一面をも持っている。
それは――たしかに いわゆる歴史上の人物は すでにその生涯が完結しているのであるから そういった分析による像も 納得できることではあるが―― しかし その生涯の個々の出来事に際して すべてをひっくるめて 言わば無時間化して ながめていいということを意味するわけではない。
つまり かれの存在に対して ひとつの金太郎飴をかたちづくって どの時期をとっても 総合的には同じ顔をしており 個別的には それは目の部分だ これは鼻の部分だなどと言って そういうことによって 納得できるものではない。納得してしまってすませるべきものではない。
ここでわれわれが見たいとねがうのは その鼻は いかにして成ったか その目は鼻と いかにして つながっているか 互いにどんな距離を保っているかなどなどを むしろその時その時に しかも総合的に 測って ある貌をそこから 思い浮かべることである。《しかも総合的に》という点が 重要だと思う。《その時その時》の つまり個別的な出来事の連鎖を 生涯にわたって 集めて描いてみせることでもないと考える。《蛮人として》と《ローマ人(文明人)として》との両方面が ひとりのテオドリックの中で 住みがたかったとするならば そうではあるけれど 両方を持っていたとするならば この点は 個別的にと同時に総合的に 推し測ってみることは 必要である。
ということは ここでいま見ようとしているテオドリックの サルマチア遠征に際して見せた変節ぶり この点にかんして 過去の一人の人間の変節だとして 現代とは非連続に 葬ることをではなく 人間の変節という点にかんして 現代との連続性について見て ここから 位置づけておくことが必要であると考える。
つまり ここで 性格分析による人物の把握は 先の《戦争をなくすための戦争》という論理――それは 建て前として古いものだが 現実にないわけではない だから 人物や情況をそのようにまず把握しなければならないという論理――と 同じような欠陥をもっていると考えるのである。
そうであるならば ここでこのテオドリックの変節に対して むしろたとえば その顔としては極端に言えば その鼻が引っ込んでいて 目が飛び出しているではないかとまず素朴に 訊き返すべきであると思われる。その問いに対して それは生まれつきであると答えるのは あきらめという一つの美徳ではあるが ここでわれわれは それを取らない。
問題――第一の問題――は このように展開していくように思われる。


われわれの考察は ここであらかじめ言うとすれば このような問題の展開を過程させていくこと ここにこそ その結論があると考える。それ以上でも以下でもないと思う。戦争をいどむ人に対して かれの性格分析によってその行為を納得することでもなければ また 戦争をなくすためにそうしたのだと言って かれをあるいは情況を把握することでもない。それらは 以下であり 以上である。
以下であるというのは かれの人間を――つまり われわれも人間であるということと同じそれを―― どちらによってもまだ 認識していないからである。以上であるというのは その以下であるところの認識をもって――そこで人は 一応の納得を得るのであるが それによって この以下である認識を―― いわば人間の至上命題とするゆえである。
問題の解決は 問題の(つまり問題解決の)展開過程にある。上にまず点検したところの 性格分析と論理分析とは この問題解決の展開過程を 固定・停滞させてしまった。そしてむしろ まったく解決させてしまったのである。つまりそのように 一般的に人間の通念によって 取り決めてしまい この取り決めを 人間の至上命題としたことになる。われわれは この意味では いよいよ 進まなければならない。

    ***

それでは ここで 一方で殺戮をいさぎよしとはせず しかもその反面で戦争にのめりこんで行こうとするこのテオドリックの動きに われわれは どんな像をかたちづくろうとするか。
(つづく→2006-05-06 - caguirofie060506)