caguirofie

哲学いろいろ

#17

――ボエティウスの時代――
もくじ→2006-03-23 - caguirofie060323

第三日( q ) (〔精神の形式と〕《情況》)

――《時間》に対する観念あるいはその理念についてです。
たとえば 時間論としての大きな議論ではなく 先ほどの《理論》と《論理》との差異に対応して 時間観が二つに分かれる――あるいは むしろ 二つの時間観が初めに分かれていて そこからそれぞれ一方は 理論的であったり 他方は 論理的であったりするのかも知れない――と思われることについてですが。
そこでまず 第一の時間の観念は 《理論》に対応するもので 《理論》においては すでに物事が現実化してしまっていると考えられるならば 過去・現在・未来の三つの時間については 次のように概念づけられます。まず《過去》は 単純に言って《理論》における現実性がすでに実在している〔と判断される〕状態――後でもし それが誤った判断であるとされたなら ふたたび新しい未実現と見なされ そのように理論上 未来時となったものを 同じく理論作業によって あらためて解釈じょう別の過去時とする――であり 次に《現在》は まさに その《理論》における現実性が実在化へ向けて適用(判断・行為)されつつある状態であり そして同じく《未来》は 《理論》においてその現実性が奉じられている事柄が 実際にはまだその存在のきざしも現われていない状態であるというふうである。
そしてそこでは その《理論[体系]》に一貫性がある限りにおいて 《時間》も直線的に連続しているというものだと考えられます。そのばあい しばしば指摘されることは 《〈過去〉は すでに実在した》ということが 《〈過去〉が 具体的に現在も存在している》というふうに解されるということであり そして実はそのとき その限りで この具体的に現在している《過去》に対しては つねに 人は対決しているということ・つまり つねに たとえば《過去》における《適用》が誤っていなかったかどうかという判断をなお くだしつづけている ということだと思われます。
従ってここでは 過去はなかなか忘却されがたく なまの現実でもあり その意味で 現在時とまさに連続している。そして同じく対照的に 未来時も 理論において先取られているならば それと現在との連続性も 指摘されることになる。
それに対して他方 第二の時間の観念というのは 第一のそれと比べれば まず 不連続である ということが特徴的だと思われます。つまり これには わたしたちの国の考え方も入るのですが たとえば わたしたちの間では こう説かれています。

・・・三つの時間・・・。結果と原因とがともに経験(享受)されおわったという意味によって《過去》時があり 果と因がともに経験されていないという意味によって《未来》時があり 因は経験されたが果は経験されていないという意味によって《現在》時がある・・・。
(Vasubandu:《中正と両極端との弁別》
大乗仏典〈15〉世親論集 (中公文庫)
大乗仏典 15 世親論集

単純に こうです。《原因》とか《結果》とかについては それぞれいかなるものか それらの関係はどうかなど 大きな議論があるでしょうが 今はそれは措きます。

  • むしろ単純・通俗にとれば 先の第一の時間観と 過去・現在・未来の分け方としては 同じようであると言ってよいかと思うのですが。

しかし ここでは 過去も未来も ともに明確に 現在とは 断絶されている――そのことに 重点がおかれていると見ることができる――ということに 注目すべきです。すなわち 《過去》は 因と果とがともに経験され終わっていること・つまり 何らかの意志されたことの結果が もはや明らかなかたちで そのすべてが 現われ出ているということから そして《未来》は 因と果とがともに経験されていないこと・つまり たとえ結果となるべき或る事柄が 意識において偶然に表象されたとしても その表象された事柄(目的)の実現へ向けてまだ何ら意志されていないということから 両者は それぞれ明確に 《現在》時とは 区別されるべきことになる。
言いかえれば まさに《現在》において現われているところの意志のはたらき・あるいは 行為の形成作用(つまりそれは 因果関係〔への関係〕ですが)は 《過去》においてはすべて完結されており 《未来》においてはまったく現われていないとそれぞれ峻別されている点が 大きな特徴だと思われます。ちなみに 過去がそれでも 蒸し返されることがあるとするなら ここではそのとき もう一度 現在時が始められると考えられると言っていいのではないか。
そこで これら二つの時間観がそれぞれ影響力の大きい何らかの背景(または人の趣味)となっているならば その出発点がそれぞれ同じ《精神》という一点からのことであったとしても 一方では 精神の現象は 時間的に言って 連続的に 必然性をもつものとして 捉えられ 他方では 同じく精神は 時間的に あくまで《因が経験されたが 果はまだである》ところの時間意識すなわち現在時にかんしてのみ――つまり言いかえれば その事象ごとに現象を展開するものとしてのみ――とらえられることになるだろう。
従って後者のばあいは この《現在》というものが そこに関与する当事者一人ひとりについて 真に現実的な《情況》となるだろう。つまり もっと言うならば。
もっと言うならば 或る個人にとっては 《かれの〈形式〉において行為した事柄すなわち原因が すでに経験されているが しかしその形式において発現が欲せられた善すなわち結果は いまだ経験されていない》ところの現在という時間の流域こそが 現実であり 情況であり そこにおいてかれが 自己となる領域のすべてである。そしてこの《現在》が その結果を実際に得る(あるいは完全に断念する)ことによって 《過去》へと退き あるいはまた新しい原因を形成することによって 《未来》が《現在》へと闖入してくるというふうに思われます。
これらも わたしは 基本的には 認識の大きな枠組みとしての出発点として 言っていることであり あるいは――論理家と理論家とのいづれの場合においても―― 偶有性である自己の善が生きるということ・すなわち自己の善は なおそのような情況の中で 偶有的に 生きるということを 捉えようとしているにすぎません。
《連続する時間》の中においては 少し誇張して述べれば それに対するものとしての《現実》とか《情況》とかは その全域にわたって つまり 理論的に考えられる限りでの領域全体にわたってのそれであり そこでは《個人》は この《情況》の領域に対立していて その情況と いわば子々孫々へと受け継がれるかたちで 関係(闘い)を形成していくものと思われます。
以上のような思考形式とか時間観とかの違いが わたしたちの《無駄という形式》の観点からは 個人的な信念とか趣味とかといったものに関係しており それは 《形式》じたいの差異ではなく むしろその背景の違いであって ボエティウス君が批判している点は これにかかわって――少なくとも 微妙にかかわって――おこなったものなのではないかと思うのです。この点については どうだろうか。
――ええ そうですね。
こう思います。
(つづく→2006-04-09 - caguirofie060409)