caguirofie

哲学いろいろ

#11

――ボエティウスの時代――
もくじ→2006-03-23 - caguirofie060323

第二日( k ) (精神の《形式》)

――つまり こうです。
《情況》は 決して或る者として目に見えるかたちでは 存在しておらず――《国家》や《家族》というときも 目に見えて存在しているものは それらの情況の一定の代理であり また個々の成員などでしかない―― 従って 意志をもった存在であろうとは考えられず しかも その内実は 初めから終わりまで 具体的な意志者による行為の寄せ集まったものであり 統合的な一定の形式をも持つものであり その結果 あたかも それじたい 一個の《意志者》であるかのごとく存在するということでした。
しかし この段階では 厳密に言って まだ《情況》は その顔かたちをしっかりと整えていない。つまり実質的な《形式》として作用していない。なぜなら いま言おうとしていることは ふたたび 偶有性としての善という前提を問題にしようとしているのであり それは 個人が 偶有的な善として《誠実》であるとかの一形式をとるというように 国家なら《平和友好》であるとかのそれなりの一形式をとるとしても この具体的な形式が作用することと その基盤としての偶有的な善という形式(ないし形式の場)が 現実的に 作用することとは ちがうと考えられるから。
情況が その具体的な形式をかたちづくるというとき それは 基本的な 情況の場の形態を俟ってのことである。支配・従属というようなニ方向の例にもとづいて この情況の場を取り出すなら それは 意志が究極的なかたちで自由である形態と 同じく意志を究極的に制約する形態とを挙げることができるであろう。つまり そうすることによって 形成されべき《形式》の範囲が確立され 同時に その範疇として 作用しうるものであろうと思われるからです。
そこで 家族と国家とが 経験的な例の二領域として挙げられるわけですが もしそのようであるならば――社会的な情況の 社会的な・本来の情況形成が もしこのようであるのならば―― その情況がとる個々の形式と このわたしたちが取る個々の形式とは 必ずしも互いに絶対的に隔絶したものであるとは 思われない。
これは ただ 出発点としての一認識――ほかの別様の認識もありうるとした上でのことですが――として 議論しているのですが そこで 《意志》と側の《自由》と《制約》とに対応するものとして 《情況》の基本的な形態が それぞれ経験的に 《家族》と《国家》とであったとするなら 情況は 第二の自然であったのですから 《自然》に対して たとえば 山の峰を裾野からながめるときもあれば 山頂にまで登って切り崩すこともあるかも知れません。しかし《自然》という全体に対しては つねに耕すという行為で臨んでいるであろう。そのような情況の中の形態として 家族と国家とは ともに同時に存在するであろうとは思われます。
つまり繰り返すならば 情況の中で具体的にわたしたちの意志に・従って形式に 対して 方向性を有する形態(小情況)は 家族と国家との双方であると。耕すというときには 情況全体に対して 生産の行為を考えているわけであるから いま問題とすべき小情況は これら二つであるという・・・。
わたしたちの存在の形式が 情況の形式と通底しているという一認識は したがって この生産という観点からのもので 当然 あるわけなのですが むしろ これを 日常性とか生活と言おうと思うことには 生産行為の領域の 初めの善という 大前提をやはり いちど確認しようという意図からのものであるということになります。この善(存在)を イデア論として説くことになじまないわたしたちは 家族とか国家とかという経験的な小情況の形態を 提出していこうと思うのです。
《国家》とは わたしたち個々の意志を制約する一個の独立した情況として 意志すなわち善の昇華(また上昇)したかたちでの存在・ないし必然化された善であり つまり そのような上位の善として 個々の善を統合し調整するという意味で《政治》であるだろう。そして 《家族》とは その小情況の中で 基本的には そのような上位の善による制約は むしろ絶無であって つねに偶有性としての善である状態――なぜなら これの実現のために 上位の善たる国家という小情況を われわれは 社会的に要請した―― つまり《日常性》であるであろうと考えられる。わたしたちの意志は そして形式は 具体的な情況においては つねにこれら二つの方向性を持っており そうでなければならないと 経験的には 捉えられる。
そして 今夜の前半の議論に関連して述べるならば――きみたちのイデア論の批判として ふたたびではなく わたしたちの側の基本的な認識の出発点として あらためて述べるならば―― もし《日常性》において その日常生活が政治化する〔という小情況がある〕ならば・言いかえれば やはり偶有性として在る善ないし自由が 必然化され つねにそのように つらぬかれて 進展するならば まずそのことは そのまま 《形式》の両極への方向性の喪失を 意味するはずである。
すなわち 具体的には 一方で 偶有性としてある。つまり つねにいつでも発現しうるという意味で自由な 善という日常の方向性が 意識的に必然化され 高められたかたちで解消されており また 他方では 日常の個々の小情況において その情況が あたかも《政治》という情況であるかのように作用している・つまりそれは 上位の統一的な善という《政治》の方向性が じつはそこでは 解消されている・ないし喪失してしまっている。
もう一度繰り返すならば 《日常生活の政治化》というのは――それが 生産の場を形成する前提としての形式であるならば―― 擬似的な《国家》たる政治化された小情況の現出であるのだから そこでは 《自由な日常性》も そして《ほんらいの政治》〔へのかかわり〕も いづれも 消失してしまっていることになる。
このように 二つの方向性を見失ったかたちでの形式というのは 同時に 二つの方向性がそこで 混合しているものだと考えられもするのですが わたしの考えでは このように自由と制約との混合した形式による政治化された日常性というものが きみたちの言うような 情況の一人歩きする情況であるのではないか。
つまり わたしとしては きみたちの言う《情況の政治化》《政治化された情況》というものを まだ基本的には 《善の必然化》《日常生活の政治化》という観点から 説き起こしていきたいという考えを持つのです。
(つづく→2006-04-03 - caguirofie060403)