caguirofie

哲学いろいろ

#8

――ボエティウスの時代――
もくじ→2006-03-23 - caguirofie060323

第二日( h ) (精神の《形式》)

――つまり 今の第一例において Aの理想を阻んだところのBの形式は 悪ということだったが そのときもし阻まれたAの理想が 虚偽の理想だったとするなら Bの形式は 逆に 悪ではなくなる。第二例でも Bの行為によって実現されたところのAの理想が 同じく虚偽であったとするなら 同じようにBの行為の形式は 善ではなくなってしまう。そのような場合をすべて含めて それでは 《悪とは何なのか》と再び問うてみるなら はたして どういうことになるだろうか。
おそらく 先ほどきみが示した《悪とは 形式の無である》という命題は やはり原則として有効であると わたしにも思われるのです。それは おそらく しかもこの原則の上に立ちながらも 具体的な関係(ないし情況)においては 客観的には善悪の基準を設定することは 不可能であろうと まず思われます。ことの善悪を認識し この認識の客観性を たといそれが有効であったとしても ただちにそのまま実践していることは 不可能であろうと。
つまり ものごとを抽象すれば 先ほどの二つの例のそれぞれの二つの場合――さらにそれに準じて今ひとつの例すなわち 今度はAの悪がBによって阻まれるか 促されるかする例において 同じように それぞれそのAの悪が 虚偽であったときの二つの場合 これを含めて――が 必ず考えられることから 時の推移を超えた客観性を・・・イデアそのものとして 考えていることは出来ても・・・あやまりなく実行しつづけていることは 無理だろうと思われます。しかし それにもかかわらず またひるがえって このように行為ないし形式についての客観的な善悪の認識が容易でないだけに 少なくとも できる限り客観を容れた主観的な《形式》が ないことには その場合は必ず 善ではないということが あらかじめ決定されることになる。これは 確かに 重要な点で 原則として ただしい(または 有効の)ように思われる。したがって わたしも 《悪とは無形式》というこの原則を 支持したいと思うわけです。
さて これで わたし自身の考えも まとまってきたように思うのだが これまでの議論を 少しわたしたちの側に立ってその言葉で述べるならば こうなると思います。またこれまでの混乱は 次の点にあったのだと思います。
実は わたしたちの思考形式によっては 結論としてのこの同じ原則が おかしいことに おそらく《悪とは 形式〔の有〕〔にとらわれること〕である》ということになろうかと思うのです。試みてみます。
まず簡単に言って それは わたしたちが物事の認識について 基本的にゼロ(空 súnya)を説きますから 従って 認識は――認識を起こす対象も その作用じたいも そして認識によって得られたものも―― すべてゼロとみなされ 認識をもとにして形成される〔他者と自己との関係〕形式も やはりゼロとみなすべきであるとされることからの帰結としてです。
ただし これだけでは 不十分だと思います。
先ほども 《形式》は 人間関係を静態的にとらえた面を言うのではなく 目的に向けての行為の過程における〔他者と自己との〕相関関係をいうというわけでしたが その意味では わたしたちの間では 《形式》とは 《因果関係〔サンスカーラ*1〕》〔への関係〕であり 主体的には その因となり果となる行為(カルマン)じたいを作り上げる意志(サンスカーラ)・その形成力であるというふうに捉えます。この点では きみたちの説くところと それほど 変わらないはずです。
そこで しかしここからは このように捉えられた認識が この認識が ゼロ〔空*2〕であると見なされるのですから そこに働いていたみづからの意志の形成作用も その行為も 実体的なものではない あるいは 何か絶対的なものに 自己の外の行動で つながった形で存在するのではない とされる。すなわちその意味で 《形式》のゼロであることが 帰結されます。《形式》に執着することなかれと。
ただし ここでひとつ注意すべきことは わたしたちは 《〈形式〉をゼロとみなす》と同時に このゼロという意味は 《〔形式は〕ゼロとして あくまで 存在する》ということを 含んでいなくてはならないと考えていることです。ゼロとは 何もないことだと言えるのですが 何もないものとして 存在していると見ることも わたしたちの間での常識です。形式は それに執着すべきものでない(つまりゼロである)が 執着すべきものでないものとして(つまりゼロとして)あるというのは 皆が そう考えています。
従って これらの意味を踏まえた上で わたしたちの側からは 《悪とは 形式〔の有〕である》というふうに 命題が 言葉の上で逆転することになるというわけです。
――なるほど。つまり ぼくたちに言わせれば 《形式》というものが もはやそこでは 内実としての形式=イデアを持たずに まったくの外的形式というものになってしまっているものではないかと 思われます。つまり 《内容(また 素材)》というものから離れて――しかも その何らかの素材・質料などの内容を 欲求の目的としても いるのですが――そうして 実はイデア=形式と対立したものとしてあるという意味での 有形式じゃないかと。
形式が 自己の理念=イデアとしての形式でなくなり その情況においては 他者のほうも自己のほうも 固定された関係形式にはまってしまうという・・・。
――ええ。ただ この固定された形式も 一面では 必ずしも否定されるべきではないと思われる。それは 道徳的な慣習 たる形式にまで なっているものがある。また 無駄という形式として 必要ないし必然であるとさえも。
どうだろう ここで思いついたのだが もしそのような形式の慣習的固定が 一種の悪であるとすれば ここでその意味での《悪(または むしろ 無効)の必然》ということに移ってみては。
――結構だと思いますが。
ただし 悪が必然であるからと言って 原則としての《悪とは無形式 つまり善に欠けたもの》という命題に取って代わるものではないはずですが。
――もちろん そうです。この原則のゆえに 悪とは・・・無形式の あるいは わたしたちの言葉で 有形式の 関係における・・・無効の行為であるということにもなる。悪の必然と言ったからといって 主体的な意味あいを込めて 悪は なくてはならぬものだとか まして 善と並んでの悪の絶対性(その存在)を言おうとするわけではない。存在しないはずの――なぜなら善という存在の欠如したものである――悪が 無効としてながら 必然しているということがら。具体的な善悪の基準という場合 イデア論としてではなく――もしくは イデア論じたいが―― この無効の悪の必然性という点を その考察の一つの中心とするように思われるのです。
つまり わたしが言うのは わたしたちの存在あるいは行為〔とそれぞれ言う意味での形式〕は そこに《善》が裏付けられているとしても それら(形式も善も)は 現実性としては あくまでも 偶有性でしかない。形式・内容としての善(存在)は 偶有性としてある。偶有性というとき むしろこの善は 悪と混在している もしくは 悪を必然ともしている情況の中にある。
いや これだけでは 観念的であるかも知れない。わたしのほうから 先に議論をすすめさせてもらうなら・・・。
――ええ。
――先ほども 《無駄というものが 日常性の基本的な形式である》と述べたように 実は今のように 《善がそもそも偶有性としてあり 善と悪とは 混在している》と表現するよりは ふつうは 《善でも悪でもどちらでもない・どうでもよい形式 の中でわたしたちは 行為している》ということ(従って善の偶有性)を 指摘すべきではないか。悪の〔無効としての〕必然性は 必要悪を説くこととは無縁なのであるから 善の偶有性というふうに言ったほうが・・・。ああ そうすると たしかにボエティウス君 きみの言った《善悪の判断の基準・その有効性(現実的であり実在的であるという)》が 間接的に つねに はたらいているという議論を裏づけるようだね。と思います。どうも そういうもののようです。
そして 問題は ある現在時の具体的な個々の場面を 焦点とするということであった。今度は わたしのほうから 少し議論を展開させてくれないか。
まず 原則として――きみたちの概念で言うと――《悪とは 形式の無》であり わたしたちがこの原則にのっとって存在するとするならば つまりこの原則に言う《悪》に陥らずに進もうとするならば それは 悪の必然性を取り除こうとするいうよりも 《〔はじめの〕善(つまり存在)を それが偶有性であるゆえ しかるべく必然性として形成》していなければならない。論理的な帰結としてそういうことになる。しかも このような命題を つねに意識しているわたしたち人間の活動領域がある。すなわち 政治の領域です。

  • 自治・共同自治と表現したほうがよいかも知れない。

政治家としての活動は いわゆる善が単に偶有的であるだけではいけない。つねにその偶有性を或る必然的なものとして《形式》の中に行為をなす必要がある。・・・つまり行為の結果(目的)も当然 重要なことであるが 基本的な行為の形式として つまり〔現在で一般に〕国家において・従って 国民一人ひとりとして/国民に対して 基本的なその関係形式は 経験的にも 偶有な善を必然化したものとしての面で おこなわれる。われわれ市民も 日常生活において――日常生活の中でも この政治にかかわる面では―― 必然化した善の形式 またそのような意識が ふつうのものでありえている。
そこで いいですか ボエティウス君 この点を踏まえて 実はきみたちのイデア論に対して少し批判をくわえておかなければならないと考えるのです。・・・ことは単純です。つまり きみたちの基本的な形式としては 絶対的な《善なる者》のイデア(姿)に照らして この偶有性としてのわれわれの善(存在・生存)を必然化するのだということであると思うのだけれど その場合 この《善の必然化》が 日常性の次元で 実践されるなら そのことを目的として説かれてくるなら はたしてそれは 適当なことなのかどうか この一点に 事は しぼられてくるのではないか。
それは こうです。
わたしはすでに こう述べている。たとえば政治の領域においては 《偶有的な善を必然化して発現させる》という形式が その基調であるはずなのだが また それに対して 実際上の日常生活においては 無駄ないしどうでもよい関係が その基本的な形式であると。そして ここで結論としては・・・政治と日常性との重なる領域においてではなく・・つまり日常性の領域において 《善の必然化》を 不断に行為することは――つまりこの意味で 道徳主義的であることは―― 基本的に言って不適当なのではないか ということです。
この点についてですが まず 《善の必然化を行為する》――たとえば愛ゆえに他人に ものを施す――ことは 言いかえれば 《自己の意識する形式を つねに貫いて行為をなす》ことは 日常生活において 不適当なのではないか。
先ほどは 《形式》についての無意識を批判しておきながら 今度は その意識的な形式の実現化に対して 不適当だなどと言っておるというわけですが 今しばらく もう少し議論をつがせてください。
つまり ここでもう一度 定義するならば 《形式》とは 一般に ある他者を想定しながら 自己による自己〔の存在〕の規定でありました。《誠実》であるとか 《冷酷》であるとかというふうに。あるいは 《君子の交わりは 淡きこと 水の如し》という一形式 《悪法も国法なり》という一形式 あるいは《造反有理》などという一形式。
そこで このような規定を意識しない(つまり むしろ何ら規定をなすことのない)とすれば そのばあいの行為は きみたちの言うように 《無形式》となり 従って現実の関係の中に 何らむしろ 存在していないということになる。そしてこれが 原則上の《悪》であったのであり ただ しかしこれは 実際問題としては 考察の対象にのぼりがたいことです。
そこで次に 《善の必然化》の第一段階というべきことについてですが そこにおいては まず 自己の規定した《形式》を意識し そしてさらに〔今度は 形式だけではなく その〕意識にかかわりつづけ その意味でその観念(ないし理念)を 現実に実在化させようとする行為があります。これは 従って 自己の内面において 理念ないし善〔のイデア〕を意識するというだけにとどまらず 現にその《形式》に触れている相手に対しても 何らかの形で その形式ないし意識への反応を呼び出さずにはいない。なぜなら わたしたち人間が すべて人間という同一性において生きている限り その形式に対する何らかの形式を 相手の中にも 呼び出すということは 善としてみれば偶有性として そして 形式としてみれば可能性(潜在性)として あるということにほかならないから。
もっとも この場合 相手は その形式ないし善に対して かれ自身の反応を見せるにすぎないわけで その限りでは まだ 二人は《無駄》という形式ないし《どうでもよい》関係の中にある。
つまり 問題はここからであり 従って・・・
(つづく→2006-03-31 - caguirofie060331)