caguirofie

哲学いろいろ

#5

――ボエティウスの時代――
もくじ→2006-03-23 - caguirofie060323

第二日( e ) (精神の《形式》)

――ナラシンハさん この前のつづきなんですが その前に ひとつ こういうことをふと考えていたのです。それは こうやってぼくたちは 哲学とよばれるものをとおして論議していますが はたして いったいそれを事の善悪といった道徳の面において議論することの意味は 何なのだろうかと 疑問に思ったのです。
たとえば 倫理もしくは倫理学といえば まだ一般にその知識ないし知性が 迎え入れられるのに対して 善悪の基準というふうに論議すれば 現実のことがらとして お互いにそのことを意思疎通させることは 一般に非常に難しいようです。
――なるほど。が ボエティウス君 実はわたしも そのことはよく考えていた事柄です。もっともわたしの場合は すでに述べたように きみのように絶対的な善悪の基準を認めているわけではないのだけれど。
つまり 何故わたしたちは倫理を問題とするのか。もしその必要がないとすれば このように会って話しあうことも 無意味になってしまう・・・。
――それで ナラシンハさんは どのようにお考えですか。ぼくは 道徳を あるいは 道徳として 議論しているつもりは 一向にないのですが それでも 善悪の基準などといった関係で このような(道徳論ではないという)心づもりも きわめて言いづらい・・・。
――わたしは・・・わたしは それが あまり―― 一般的にいえば――積極的な要請をじつは感じないのだが・・・。〔つまり〕結局 ものごとの筋道を知って そのことによって楽しく進んでいけるようになるために・あるいは 無意味な無駄を省くために・ですから言いかえれば 自分からとしても他人からとしても 無意味なそして時に悪意のある無駄に陥ったり それらをこうむったりしないようにすること・・・そんなような事柄しか思い浮かばないのだが。ただ わたし自身としては それが 積極的な目的でもあるのだけれど・・・。
――そうですか。
――ひとつそれに関連してわたし自身の非常に個人的なことがらだけれど 例をあげることができます。それは 若い頃の〔恋愛〕経験からのことなのだが こうです。
ちょっと奇異に思われるかも知れないが わたしはその頃 わたしにとって愛というものは つねに嫌悪の情に始まり その感情を軸として その対象となる相手とのあいだに 有形無形のかたちで繰り広げられる一種の闘いであったのです。そしてその闘争の終わりが 一般道徳による制約に こちらが従うということだった。慣習――おきてとなったような――に従って わたしが敗北するということだった。これ以外にわたしにとって 愛は考えられなかった*1
逆にいえばわたしの愛は わたしが好むところの対象へは決して向かっていかなかった。これは どういうことか と今でも時どき思うのです。

  • ヴァサンタセーナの場合は はっきり言って・・好みだったのだから・・・例外と言えば例外なのだけれど この場合も ほんとうに――つまりわたしの原則に逆らってでも――向かっていったのは 一たんかのじょと離れて十年経ったあとでの時が やっと初めてのことだったのです。

もちろん このことを 先ほど述べた《無意味な無駄を省くため》の一つの倫理的な行動などというつもりは ありません。あてはまりも しません。ただ ここで前に言った《嫌悪の情》というのは その相手の女性が まさに 一般慣習という意味での道徳そのものだったからです。道徳の問題は むしろ つねに わたしたちの外側に あるように思うのです。おかしなことに わたしたちの心の外側にあるように捉えられるのです。

  • もともとは 心の内の問題だったが 社会共同の観念となって そのような観念の共同性という意味では外側から やってくるように感じるようになってしまった というほどの意味です。

結局は 最後にその戦いでも 相手つまり一般道徳に負けてしまうのですが わたしにとっての固有の〔意味での〕愛によって 一般の慣習となったところの善悪の観念を 突き破ろうとした〔のだと 今は一つには 思われますが その〕点においては わたしとしては わたし自身の中に 倫理とかいうものを問題にするそんな意味での積極的な要請が 存在しているようにも思われます。これは きわめて個別的なことがらに属するのでしょう。あるいは奇異に思われるかも知れません。が事実であることにも まちがいはありません。
ところでボエティウス君 きみのばあいは どんな要請があるのだろうか 聞かせてくれますか。
――ええ ナラシンハさん。・・・それにしても きわめて特異な体験をお聞きしました。そういえば どこかそれならナラシンハさんはむしろ このローマの世界のほうにこそ向いているとも 考えられるようですが。
いづれにしましても ぼく個人のばあいは ほとんど生まれつき積極的な内なる要請があったようです。もっとも 要請を感じない人に対しては まったく干渉しないという考えではあるのですが。
――なるほど。それで思い出したのだが 先日は ローマ人のばあい 哲学〔者〕が 政治と互いに相い反するようでいて しかもきわめて巧みに連動するかたちで 伴に相い携えて行っているということに触れたのでした。その意味でも きみの例からわたしたちインド人にとって考えられることは ローマではそのような倫理(慣習とそれを超えるもの)を問題にする・しないの如何に関わりなく きわめて〔超然としたかたちで〕うまく社会(つまり倫理)が営まれていくものだということです。わたしたちインドの社会が 必ずしもうまく行っていないということではない。しかし ローマでは その中の成員どうしが 互いに〔反対として〕対立・もしくは矛盾〔というかたちで対立〕していながら しかも まるで魔法でのように互いに溶け合って いづれにしろ手をつないで行く場合がありえている。これは わたしたちにとって ひとつの驚異です。
――そうですか。今日のテーマは ナラシンハさん おそらくぼくは 聞き役にまわるのではないかと思ってきたのですが それではそろそろ 今日の本題に入って まず最初にナラシンハさんのほうから 今日は その日常における行為の具体的な善悪の基準ということについて話の口火を切ってもらえますか。
――うぅん。わたしにとっては いわゆる命題を提出するというかたちは なじまないことで おそらくいつも断片的に 印象を述べるというかたちに終始すると思うのですが・・・。それでは。
(つづく→2006-03-28 - caguirofie060328)

*1:嫌悪→闘争→慣習への屈服と敗北:Aldous HUXLEY, Eyeless in Gazaを見よ。