caguirofie

哲学いろいろ

#3

――ボエティウスの時代――
もくじ→2006-03-23 - caguirofie060323

第一日( c )(《精神》‐《無》)

――わかりました。ただ・・・
ただ いまの議論に対して ぼくたちの立ち場についてだけは 反論させてください。それは こうです。
まずここで ふたたび この議論の焦点とするものが どこにあったかに触れる必要があると思います。すなわち それは 《神に近づくため知性を愛するのは それじたいが目的であるのではなく この世で人生というものを ぼくたちが祖先から受け継いで さらに 子孫へと引き継ぐためのものである》という素朴な一事でした。つまり 従って 実体論じたいが 焦点ではないという点です。
あるいは ローマの人びとの中にも 次のように考えている人たちがいるかも知れません。つまり 《いづれかの未来において それがおこなわれると言われている神の裁きを受けるとき 創造された者として自身が 全き存在として臨みたい。そのために その限りで信仰を強め 知性をさらに愛し 神に限りなく近くあろうとするのだ》といった考え方です。いくつか違った見方があるかも知れませんが ぼくとしては この考え方とても この現在の人生(――つまり 過去と未来との両世代への橋渡しをするものとしての現在です――)を 確固としたものにしたいということに 焦点はあるのだと思うのです。従って イデア自体に 焦点がおかれているのではない・・・。
――もし そうだとするならば ボエティウス君 たとえば ふつうの意味での善という概念も あるいは悪というものも ますますそのような領域のイデアの中にはないということになりませんか。
たとえば わたし自身が学んだことによれば まず すべてを創造し 知るという神は 父なる神とその子なる神と相互の愛から発する聖霊なる神との三者から成り さらにその子なる神は そのような神格とともに この地上に生まれるということによって 人格をも持った者であったということ。この歴史上の人物でもある・その子なる神の受難と復活とをとおして わたしたちは神に近くありうるということ。そしてさらに この神格の三位一体に似せて 人格にも 先ほどから話題にのぼった《精神》と それから生じる《知性》と それら両者から発現する《意志》という三者が そなわっているということ。
以上のこの領域のイデアのすべてに関しては わたしたちの立場からは 実際に それが善であるとか悪とかの認識は なされがたく なしえないものとしなければならないと思うのです。
つまり なるほど 神や人格のイデアは それじたい いわゆる善の系列にあると言えるかも知れない。しかし それは 高だかわたしたち人間の尊厳であることを知る上での基礎的な認識というものであり わたしたちが問題としたいのは そしてまさにきみも問題にしていると思われることは 現実の問題として 善悪の判断の基準をどこにおくかということだと思うのです。ここで確かに言えることは 神のイデアは 現実の行為において その基準になるとも ならないとも 断定的に決めようとしても 決まらないということだと考えます。
いいですか ボエティウス君――あるいは わたしも わたしたちの立場に必要以上に固執しているのかも知れませんが―― そのような神を論じ立てることは わたしたちの間では 《石女の子》を想像して その姿(イデア)を描くことであると だから実体を深く追求すべきではないと 言われているのです。
あるいは 実際問題として もしそのようなイデアが 基準にされるとするならば わたしたちの感性界の現実はそのまま 実体を欠くという理由から 蔑視され無視されることは そこから導かれる一つの少なくとも論理的な帰結です。つまり 歴史上の人物でもあるイエス・キリストを接点とする・神格とわたしたちとのつながりは 結局は 精神・知性・意志の三者までであり それらと《身体》とのつながりにおいて起こる感性界の現実は じっさいには 神と隔絶されているとも言われかねないからです。つまり さらに言えば 現実が蔑視されることが一般的な基調となるのならば 一つひとつの行為に対する《基準》などといったことは むしろ 意味のないものとなってしまうだろう・・・。
あるいは さらに こうです。神格のイデアをわたしたちの行為の基準とするとき 言いかえればわたしたちが そこにおいて神格と交渉しようというとき そのときにこそ わたしたちは いわゆるエクスタシー(忘我=自己外存立)の状態に入るというのかも知れません。しかしこれは どう考えても 不自然です。人が エクスタシーのまま・つまりその限りで 善である状態のまま 行為をなし 人生をおくるということは 考えられるものではありません。一面的です。つまり わたしたちがいま問題にしようとしているような善悪の基準は いわゆる実体論・神・イデアの領域に 直接にあるとは考えられない。これが わたしたちの立場です。
――それに対しては ナラシンハさん イエスとノーとの両方の応答をしなければならないと思います。実際問題として ぼくたちが 互いに同じく哲学の焦点としているところの現在という時点にかんして言えば まさにあなたがおっしゃるとおり イエス(そのとおりだ)ということにならざるを得ないと思います。
もし この現在という視点からも つまり現実的な行為の視点からも 神のイデアを信じることを目的として 自己に強いるなら つまりあるいは他者に説くということであるなら それはまさに それぞれ 呪術の領域に入ることであり あるいは僭主的な政治家としての操作以外のものではなくなるという方向へ すすみかねないからです。
しかし――そうではなくて しかも――それによって必ずしも神を見る領域としてのイデアが まったく無用のものとして排斥されることになるとも思いません。むしろ 現実の行為が ある意味で直接には 神の領域とは触れ得ない(または そのことが わからない)ものであるからこそ その感性界を含めた現実という相対的な世界に対して 絶対的な次元の確固としたイデアの存在が ぼくたちには 必要であると思われます。つまり そのような善の系列として説かれるイデアが ぼくたち人間の存在の尊厳であることを語るという限りにおいて――語る必要もないほど すでに人間の存在の尊厳が思われているならば そこに潜在するであろうその意味でのイデアとして―― 実は現実の善悪についても 必ずしも直接的にではなくとも 決して無視されることのない基礎としての基準をあたえてくれていると考えます。さらに付け添えれば 《基準》というもののはたらきという点から見れば むしろそのような(行為の判断に 基礎をあたえるという意味での)間接的なはたらきこそ もっともふさわしいその固有のあり方のように思います。・・・しかし イデアじたいが 焦点ではない・・・。
――〔ヴァサンタセーナが 盆にぶどう酒の盃を三つ載せて 入ってきて〕まあまあ ボエティウスさん この辺で休憩にしませんか。あなた(ナラシンハ)も 一度 休憩にしてください。
――・・・ばかだなぁ ここでわたしが反論しなければ ボエティウス君にふたたび逆転されてしまった恰好になるではないか。
――ナラシンハさん ぼくもまだ いまの発言を終えていないのですよ。しかし 区切りにして 悪くもありません。いちど休みにしましょうか。ナラシンハさんが そのまま黙っている人とは到底思えないことは わかっているのですから。
――それじゃひとまず休憩にして ここで人生の楽しさの基盤を作りうるというほどの意味の善悪の基準というものについて ようやく具体的にどうあるのかを考えるという点まで来たところで ひとまず議論はおくことにしよう。
――そうです。ふたりとも論争のための論争をしているのでないならば ここらでゆっくりと一息入れてください。熱中しすぎるのも 困りものです。・・・
でも ボエティウスさん よくナラシンハの頑固な趣味を満たしてやってくださいます。わたしからも お礼をもうしあげますわ。
――いいえ おばさん どうぞそういうふうには見ないでください。ぼくもナラシンハさんとの議論は 嫌いではありませんから。
――そうですか。とにかくナラシンハは このギリシャの中でも あなたと議論をするのが いちばん好きらしいんですから。・・・何しろ わたしは一度 その議論のために捨てられたことも あるくらいなのですから。
――〔ナラシンハは笑いかけて すぐさまやや顔を引き締め〕 おい! 変な過去の話はよせ。
――〔ヴァサンタセーナは いくらか神妙になって〕 でも ボエティウスさんにしたところで ローマに素晴らしい許婚者のひとを残して このアテナイにやってきていらっしゃるのでしょう? もしこのまま ボエティウスさんが 哲学とやらと結婚でもしてしまったら その人がかわいそうです。・・・ねぇ ボエティウスさん その許婚者のかたは どういう人ですの?
――〔ボエティウスがそれに応えて〕 ルスティキアーナですか。かのじょは特にどうということも・・・。いえ それは ぼくの養父(ちち)の娘ですから 兄妹も同然なのです。
――そおう。
――それよりヴァサンタセーナさん ナラシンハさんの若い頃のことを少し 聞かせてくださいませんか。海の男だったということですが・・・。
――ナラシンハですか。いいですよ。〔ヴァサンタセーナは 話に乗り出して〕この人は 船に乗ってインドから わたしのいたペルシャのホルムズまで 毎年 冬になるとやってきてくれたのです。それが突然 ある時 海を捨て そして・・・先ほど言ったように わたしも捨てて その議論とやらのほうへ走り去って行ってしまったのですよ。
――議論じゃない。ブッダのおしえだ。
――ブッダだかブタだか知りませんが わたしの気持ちを知りながら だったんですよ。
――その後の再会は どうだったんですか。
――どうって?
――いえ その後 いつ 会え・・・?
――ええ 十年です。丸十年経ってからです。
――わたしは 再会の約束などしていないよ。
――まあ。でもわたしは ホルムズの港で ほんとうはインドの船が立ち寄るのを いつもながめて待っていました。・・・あら ごめんなさい。わたしどうかしています。でも いいですか?・・・再会したあと それからしばらくしてまた 今度は ギリシャアテナイまで行くと言い出したのです。今度は わたしも一緒だというわけだったんですけれど。・・・アテナイは ペルシャなどと比べたら ずいぶんといい気候のところですね。何より空気がきれいです。でも こちらへ来てこれでよかったんだかどうか。相変わらず こう(議論ばかりしている人)なんですから。
――そうですか。それじゃ 若いときから ある意味でアテナイにやってくることになっていた人だったのかも知れないですね。
ナラシンハさん そしておばさんも アテナイもいいですが いちどローマへ来られては どうですか。いまは もうラヴェンナに宮廷を持つゴートの王が 半島を統治していて 昔の都のおもかげは 薄れていますが ぼくの故郷もいちど見てください。
――わたしはもうホルムズから このアテナイに付いて来るだけでやっとです。この人は 西ではこのアテナイがはじめてですから 行きたがるかもしれませんけれど。
――・・・。
――実は 養父(ちち)のシュムマクスに ナラシンハさんとおばさん夫婦のことを話したところ ルスティキアーナも同じく共に今度の手紙で 言ってきたのです。今度帰るときには 是非お二人を連れてくるようにと。失敗すれば ぼくの責任ということになるのです。ナラシンハさんには 実はよかったら 街にローマの人びとのためにはたらいてもらわなければならないような仕事も多くあるように思うのですが。
――〔ナラシンハは 考えている様子。〕
――あなた どうなんです。ボエティウスさんが あんなふうにおっしゃってくれてますのに。
――・・・。
――あなた!
――おばさん いいんです。ぼくはまだ ここに当分いるつもりです。ナラシンハさんにまた考えておいていただければ。・・・
――そうですか すみません。
――〔いいえ〕。
――ところで ボエティウスさん いまローマやイタリアは どんな情況なんでしょう。ゴートの王とかが支配しているとか。
――ええ テオドリックというゴート人です。
(つづく→2006-03-26 - caguirofie060326)