caguirofie

哲学いろいろ

#2

――ボエティウスの時代――
もくじ→2006-03-23 - caguirofie060323

第一日(b) (《精神》‐《無》)

――なるほど。
――ええ ちょっと待ってください。もう少しありますから。
つまり もしそのようであるならば 次に このぼくたち人間の存在の中に見出された実体は しかしそれだけでは 善悪の基準をそなえるというわけには行かないからです。
なぜなら ぼくたち人間は 人間である限り 《多数の中の一者》として存在するからには もし そのままなら ぼくたちの直前の〔過去の〕《存在》であったものを 次つぎに否定して進みながら ぼくたちの《精神》は それぞれ ばらばらにまったくあてどもなく 放浪しつづけるにすぎなくなるのは 必然的なことであるからです。
従って当然のこととして ぼくたち一人ひとりのこの《多数》の実体にとって 全てに共通な上位の実体が ――ぼくたちが実体として生きるとする限り――考えられなければなりません。そしてそれはもはや どうしても 多数の者すべてを統一して含むものとしての《一なる者》 そして同じく 至高の存在としての《一なる者》でなくてはなりません。また それは ぼくたちの《精神》が本来 《善》――善くあれとみづからに命ずるという意味で《善》――である限り このようなぼくたち《多数》の者すべてを含むからには 究極的な《善なる者》でなければならないでしょう。
つまり もしそれを《神》とよぶならば この《神》は 従ってぼくたちすべての者の存在が その根源としているところの存在であり 究極的な・絶対的な《実体》であるはずです。従ってぼくたちの善悪の基準は そこに見出されなければならない。
――なるほど しかし ボエティウス君 いまの非常な熱弁でもあるきみの議論を聴いていて わたしには 次のようなことが 思われてきます。つまり その中の一点について 二通りの見方から反論といえば反論が出されるはずです。しかし このように言ったからといって 意地が悪いと 気を悪くしないようにしてください。いいですか。
その一点というのは きみが述べてくれた 実体としての三者の中の最初の《精神》ということに関してです。つまり《わたしたち人間が 言いかえれば 或る誰かが 或る理想をいだき 或る時点で その理想に関して或るあやまちを犯すということ そしてその犯した誤りに気づき それを否定し正すということ》についてです。二通りの見方というのは 次の二つです。
第一は わたしたち人間というものを 単にそのように《理想を抱き 誤りを犯し 従ってそこにみづからの存在を知り その自己を否定しながら なおも理想を求めて進むもの》というふうにだけ 規定していいものなのだろうかということです。そして第二には 逆にそのような規定の意味することが確かに わたしたちにとって一つの貴いことではあるとしても 果たしてそれでは そのことに それ自体 他からの何の制約を受けることのない実体が あると断言できるのだろうかという点です。
このような観点の意味するものは 必ずしも考えるのに 気持ちのいいものではありません。そして議論が少し飛躍するかも知れませんが わたしの言うのは たとえば次のような観点からの反論です。
はじめに第二の見方について述べれば 結論的に言って いまきみの述べた百年内外のこの世における人間にのみ あてはまるものでしかないと思われることです。つまり この世に生まれる前の あるいは 死んだ後の 人間・その実体は 果たしてどのようであるのかということです。
そして このことは 必ずしも呪術家の言うような空想の領域に属することであるとは 限りません。なぜなら この(今の)生について それがその前と後との世代(時代)に橋渡しをするのだというとき たとえばわたしたち自身が それぞれその存在を受け継いだところの死者たちのことを 心に思わないでは その橋渡しを十全な形では なしえないということは 一般によく言われていることなのですから。
あるいは この反論は こういうことです。つまり 《実体》というのであれば 当然 時間を超えて つねにそれ自身でありつづけるものでなければならないはずです。にもかかわらず そうでない。つまり 百年内外の人間の生に実体を見ることは 到底できないことであり 従って そこに《基準》をおくことは なお根拠のないことだということです。
さらに ここで第一の見方についても 述べておくならば こうです。
たしかに わたしたちの中に見出される《精神》ということから発して 《知性》や《意志》という 三つのことがらの存在については 実体かどうかを別としても 疑いをはさむ余地のないところです。たとえば わたしの知る限りで 或る哲学者の《あやまつならば わたしは生きている》とするところで

わたしたちは いま生きている。そしてこの生きているということについて わたしたち自身 思いを寄せる。そしてさらにこの生きている事実と その事実に思いを寄せるということとを 双方とも同じく わたしたちは とうとぶ。すなわち このように 少なくともこれらの三者――生きている事実(精神)とその事実を思うこと(知性)とその事実およびその思いをそれぞれとうとぶこと(意志)――については わたしたちに疑いのないことである。なぜなら 外的な時間と場所とを何ら問わず それはわたしたちに確実にあてはまることがらだからである。
アウグスティヌス神の国 3 (岩波文庫 青 805-5) 第十一巻第二十六章)

ということは その限りで そのとおりだと思われる。ただ それでは たとえば この《生きている》という事実は 単にわたしたち《人間》にのみ言われるべき事柄なのだろうか。あるいは動物や植物 あるいはこの地球ないし宇宙のさまざまな天体に関しては この《生きている》ということは どういう意義があるのか ないのか。従って そのような意味では わたしたち人間がこの世に生きていることにのみ つまり この精神・知性・意志の三者にのみ 実体を限ってもいいのだろうかという疑問が起こると思うのです。
――ああ わかります。ナラシンハさん ぼくはまだ若輩ですが ぼくがこれまで学んできた限りにおいて ぼくたちの先人の数々の哲学者たちが言っていることに耳を傾けるならば ナラシンハさん あなたは まさに この二つの観点において かれらが《一なる者》と呼んでいる至高の実体・すなわちぼくたちが《神》と呼ぶところのものの必然性とその内実を説き明かすところまで 述べてくださったと思うのです。ぼくは議論のすすみ具合から これまで ぼくたち《多数》としての人間の側から 最高の《一なる者》へ進むかたちで述べてきたのですが ほんとうは 従ってここで どうしても この《神》の側から何もかもを説き起こさなければならないということです。
ナラシンハさん あなたの二つの観点というのは まとめて こう考えられます。まず第一の観点については 空間的に ぼくたち人間というもののほかにも さまざまな存在そして現象があるのであり それならそのとき それらは どのように《生きている》のか・存在しているのかということ。そして第二の観点については 時間的に 僕たち人間とそして他のもろもろの存在とは 果たしてその誕生の以前と死後は いったい どのように存在しているのか ということになると思います。
――そういうふうには 考えていなかったのですが・・・。
――ええ。そこで まず断わっておかなければならないのですが それは 第一の観点にかんすることなのですが ぼくたちの考えでは 精神などの三者が実体(ペルソナ つまり《実体(=神)》の分有)であるという立ち場をとりますから 感性界の基体である・身体を構成する物質および その他もろもろの存在・現象については すべて《一なる者》から生成するものではあるけれども 精神(そのはたらき)が欠けているからには――といっても この精神は 物質また身体をその基体としているのだけれど――それらは 実体とは 見なされないということです。もう一度 但し書きをつければ 身体は基体ですから 精神(三者を含めてこう言う場合もあります)は この身体を離れて住むべきだということには また決して ならないはずですが。
そこで 第二の観点についてですが それは ぼくたち人間が それぞれに固有の存在の核が 実体というものであるからには 時間的にも空間的にも 何らかのかたちで 限りなく確かなものであるということでなければなりません。そしてまさに ここで ぼくたち人間という存在は みづからが自らにおいて そう(つまり確かなもの)であるというのではなく――なぜなら その存在は 《多数の中の一人》としてあって その誰ひとりをとっても 空間的にも時間的にも 究極的に確実な存在はいないはずですから―― そこでそのような一人ひとりを実体として確実な存在とさせているものが いなくてはならず その始原の存在として《神》を そのような《神》を ぼくたちは思っているのです。
意味は もうおわかりだと思いますが ぼくたち人間や生物そしてさまざまな天体の運動のすべてを創造したものとしての《神》です。その《ちから》です。ただし 個々の素材じたいは 与件であって それらは 神の手にも負えないものとしてありつづけるものであると思います。また 手に負えない(だから われわれ人間の手にも負えない)ものでありながら 歴史的に用いられていくという逆接的な観点を 排除していないのですけれども。
そして このときには この前提にもとづけば 生まれる以前もしくは死後に 存在はどうあるかということについても やはり 素材(物質ないし質料)の一定の生命的な統一体としては むしろ無から創造され(――すなわち 人間が 動物の一種として 現われる以前には そのように類としても 無であった) その後 人間としては 《創造されたもの》として存在しているであろうと思われます。
つまり この点について 一般には 生まれる以前は(――すなわち それは創造される以前ですから 時間もそれとともに生まれたという意味で――) 《無》である*1と説く。しかし これだけでは ナラシンハさんとのこれまでの議論から言って その議論が成り立たなくなってしまいますから いまは ぼくが考えていることで 次のことだけを付け加えさせてもらいたいと思います。それは こうです。
いつか後に触れることになるかも知れませんが このいま述べている《一なる者》《善なる者》が 《創造者》として じつは《〔かれによって〕創造された者〔としてのぼくたちのなすこと〕》について すべてを知っているということになれば そのときには ぼくたちの《精神》が むしろこの《創造者》の《知(全知)》に近づけば近づくほど ――その近づくことによって ぼくたちの《知性》はより広くそのはたらきを増して 《善》にもさらに近づき得て―― やはり 自由であるといわれるぼくたちの《意志》は より自由になるのだということです。少し途中の議論を省略したかと思うのですが 言いかえれば こういうことになると思います。
つまり先ほどからのように ぼくたちの焦点を 必ずしも生以前とか死後とかにではなく やはり現在にあてることによって いま述べたような(精神の昇華・知性の広がり・意志の自由さという)点において むしろ この現在という時間が 無時間化されるというかたち つまりその意味で神のなかに包まれてあるということです。
なぜなら 神は 一つには 与件としての素材(自然)に形態(イデア)を与える者としてあり また一つには そのような《形態を与える》といったイデアの領域を ぼくたち・ヒトには ぼくたちなりに与えられていることのその源としてあると思われるからです。
従って そのようにして(つねに現在を焦点とするようにして) 実体としての・その根底にかかわった存在・存続を ぼくたちは願うのだということを いまは思っているのです。仮りにそうだとすれば やはり善悪の基準は 必然となる・・・。
――ボエティウス君 わたしが提出した二つの観点からの疑問は 必ずしもそのような世界観を考えてのことでは なかった。きみたちローマ人のあいだでは イデアつまり形像を説きます。つまり《そこに見られたもの・知られたもの》といったものです。
その考え方に沿って そして創造者としての一なる者・神うんぬんを そこに《見て》《知る》( idea )ということになるのだと思います。そしてそれは そのイデアに沿った限りでは きわめて精緻なもののように思われます。
わたしたちはこう考えます。別の言いかたをすれば わたしの立ち場は決まっています。実体というものは 何ごとにも ないのだということです。そしてこの点でも ゼロ(空)と名づけています。つまり 少なくともそれは 実体があるとも ないとも決めかねるもの わたしたちの議論を超えたところの事柄であり 従ってそれは わたしたちが理想へと進み到るうえで わたしたちにとっては 善であるとも悪であるとも どちらとも言えない事柄なのだということです。そしてその意味では 深入りしすぎるようなかたちで このイデアというものを 取り上げたくないのです。
――わかりました。ただ・・・
(つづく→2006-03-25 - caguirofie060325)

*1:生まれる以前は 《無》である:厳密にいえば 時間が生まれたあとの経験世界で 有ると無いという規定が持たれるのであって 時間が生まれる以前のところでは その経験的な概念としての《無い》という規定は ふさわしくない。有無を超えた概念としての《無》と言わなければならない。従って 仮りに《無》と言っているわけであり 仮りに《有》と言っても 同じことになる。