caguirofie

哲学いろいろ

#1

――ボエティウスの時代――

もくじ

第一日( a ) (《精神》‐《無》)

当時 アテナイには見守るべき新しいものは もはや生まれようとはしていなかった。しかし いまだ《現代のもの》としての大きな過去の遺産があった。それは 単にピラミッドの内奥に眠るというのではなく いちだんと高い処に掲げられた・謂わば一つの聖火として 燃えつづけるものがあり 志を持つ人びとを魅了し 実際にも いくばくかの流れ入る人たちを迎え入れていた。
アニキウス・マンリウス・セヴェリヌス・ボエティウス かれも その中のひとりであった。かれは アテナイの哲学者たちの遺産をまなぶ中で そのかたわら 或る機会からひとりの奇妙な異国人と交友をむすび しばしば ともに時を過ごすことになった。異国人は かれなりに《聖火》のもとに集まった者たちの一人であったが 東洋人であるためか 必ずしもそのギリシャの伝統のなかに育ったローマの人・ボエティウスとは 意見が合わなかった。しかし かと言って 二人のあいだに通じ合うものは 何もなかったかといえば そうではなく 互いにその友好をとおして 何がしかさらに新しいものをつかもうという熱意の生まれているのを 知っていた。――
ボエティウスは この日 ナラシンハの滞在している宿を訪れ ナラシンハとかれに連れ添うヴァサンタセーナの歓待を受けた。が しばらくして いつものようにナラシンハの独特の調子で 話が滑り出していった。

――ボエティウス君 きみたちのローマの人びとは 人生をじつに愉しく過ごす人びとなのだね。おどろいたのです。つまり ゼロ(涅槃)という言葉を きみたちは持たないことを発見したからです。・・・それというのも わたしたちの国では 人生の楽しみというほどの面を あまり強調しません。どちらかと言えば 火はすべて消えている状態のほうが 好ましく ゼロでいようというのが わたしたち一般の願い(認識)なのですから。
――ナラシンハさん いつもの調子であなたは 最初から強い一打で 鐘を叩くのですね。それではぼくもお返しさせていただきます。
なるほど たとえばゼロ主義者(ニヒリスト)は ぼくたちの間では 貶められています。しかし 逆に あなたがたの間では そのゼロに近づくことが 愉しくあるということなのではありませんか。
――なるほど。しかし・・・こんな言い方をすれば 皮肉に聞こえるかも知れないが・・・こちらでは 哲学者たちが たましいだとか善だとかを やかましく言うことによって いわば享楽の生活の中から わたしたち人間の尊厳であることを 引き出し引き上げようとしているように見えます。それは とりもなおさず ローマの人びとにとっては人生が 愉しいものでしかないということを裏付けているように 思われることの原因でもあるのですが。
――いや ナラシンハさん ぼくたちが ぼくたち人間について やかましく議論することに しすぎるということはないと思います。あるいは あなたの国でも 楽しいであろうと思われるそのゼロ(涅槃)の状態が やはり《善》だと考えられているのではないでしょうか。
――いや ボエティウス君 そうではない。わたしたちは ゼロ〔涅槃*1〕や沈黙〔牟尼*2〕を 理想とするのだが そこには絶対的な善もなければ たましいも ないのです。善だとか不善だとかを言うばあいは ただその理想の状態に至るために 有益かそうでないかについてのみ 言われます。そして《たましい》だとか言うもの あるいは《アートマン》は それにかかりきりであっては ならないのであるとされています。
――ナラシンハさん それは面白そうに思われるのですが・・・。ただしかし もしそれなら 実際にその善か不善かを見分けるべき基準が 何もないということにはなりませんか。
――必ずしもないというのではないが ローマの人のように 絶対的な善だとかの論を立てて それに照らし合わせ判断するというふうには ならないだろうねぇ。
――いえ 判断の基準というのは こういうことです。たとえば一般に 世の中には 善とみなしてそう呼ぶべき事柄があると考えられ また逆に そのような善にまったく欠ける・従って悪という事柄も 考えられる。ただしそのとき この人間の為す事柄じたいはと言えば それらは 善でも 善に欠けたもの・つまり悪でもなく つまりそれらは 善悪のどちらとも ほんとうには ぼくたちに知りえないことであり たとえば苦や楽 快や不快などであったりするのですが なおそれでも これらについて何のために為すかと問えば そのときには 意識的にせよ無意識のうちにせよ やはり《善》のためであったり あるいは時に止むを得ず《悪》のためであったりするのだと思います。
そのときそこで 充分に考察され 真理であると一般に信じられた善悪についての認識がないとすれば 判断の基準はおろか その理想までも なくなるのではないかということです。
――ボエティウス君 きみの言っていることは わからなくないのですが わたしたちはやはり 必ずしも そのような善悪についての形(イデア)あるものしての考察はおこなわないようです。むしろ そのような一定の考察を避けようとします。言いかえれば そのような真理としての善を目的として 行動をなすという考えは とりません。目的はあくまで ゼロの状態です。そしてむしろ わたしたちインドの人びとは皆 多かれ少なかれ このゼロの状態をねがう心を 生まれつき持ち合わせているようでも あるのです。またそれが 最初に言った《こちらの人びとは 人生を楽しく過ごしているように思われる》というわたしの実感にも つながるわけなのです。
――・・・。
――だから さらに言えば 同じくそのことから きみたちローマの人びとは わたしたち人間の尊貴な面をとりわけ抽出し さらに尊び ひたすら大切にし 謂わばそれによって上昇していこうとされているように 思われるのです。わたしたちについては 繰り返すようだけれど 上昇も下降もしない。ただそのままゼロになろうというのです。
――わかりました。ナラシンハさん ぼくのほうからも あなたのおっしゃることは わかるような気がします。それは ひとつには たとえばあのソクラテスは ある意味で その《上昇》を語りながら かれ自身 あなたのおっしゃる《ゼロの状態》にみづからを置くことを つねに心がけていたとも 考えられるからです。ただ ぼくの考えですが 一般的に見て そこには ひとつの危険な落とし穴がないとも思われません。それは こうです。
つまり ソクラテスに始まって哲学者たちが ぼくたちの言う意味で――つまり 謂わば神のもとへ上昇しようとすることを 大切にするという意味で――知性を愛したのは それは必ずしも この世における人生を 忌み嫌うからではありません。そこから ぼくたちローマ人が あなたがたインドの人から見て 人生をたのしく過ごしているということになるのかも知れません。・・・
――いや わたしたちも 人生を忌み嫌うから ゼロの状態をねがうというものでは 勿論ない。
――そうですか。それは措くとしても しかし ぼくたちが知性を愛するというときは・・・これは ぼく個人の考えですが・・・あくまでもこの人生を祖先から受け継いで また子孫へと引き継ぐためになすという・ただそのことであり そこで誤解を恐れずに言ってしまえば ぼくたちの言う《神に近くあること》が それだけで ぼくたちの目的であるというのでは ないのです。さらにはっきりと言うならば ぼくたちは この生きているうちに 神に十全なかたちで近づくことができるとは 当然のことながら考えてはいないのです。ですから そこで つねに《善》という神のことを考え そのすがた(イデア)を思い 事に処していかなければならないと考えられるのです。
ぼくは 唯物論も イデアであり そのイデアを思っているとおもいます。つまり 善悪の基準の必要ということ・・・。
――ボエティウス君 わたしたちにとってあらためて 一つの焦点が 共通であることが 明確になったと思います。つまりきみの考えにも現われていたもの・もっとも素朴なかたちでのわたしたちの 生の目的という焦点です。
ただ それとは別に やたら反駁するためのものではないのだけれど なかには別の一点について わたしには違った考えが起きるのです。それは 善悪の基準が その議論の限りで必要だということになったとしても その善悪の基準は わたしたち一人ひとりにとって とても共通なものであるとは 思われないということです。たとえば わたしの学んだ限りでは いわゆる《たましい》に比べて 《感性界》のできごとは劣っており その・ひとつの優れたものとしての《たましい》は 《知性》によってさらに貴いものとなり 《知性》はさらに究極的な〔従って だれにでも共通な〕《善 あるいは 善なる者》によって 実質的に確かなものとなるという一つの議論には その議論には その限りで異論はありません。ただ その議論じたいが 善悪の基準の基礎として 誰にでも共通なものであるとは 結局には思われないのです。
それは その議論について その考察じたいが ただ観念的なものであり 現実は必ずしもその観念どおりに事が運ばれるとは限らないという意味から言っているのでは ありません。そうではなくて その観点からすれば 必ずしも それじたい 他からの制約を何ら受けないという意味で 唯一で不滅の実体であるとは 思われないということからです。
もっとも それならば その観念のなかの・たとえば すべてのものの究極としての《神》が まったく誰にでも共通なものでないかと言えば 先ほども言ったように おそらく揺るぎなく共通のもののようにも思われます。だから その基準の基礎を 一概に否定することも 難しい。しかし結局のところ かと言って それをそのまま受け容れるという考えにも なりません。
つまりなぜかと言えば わたしたちは 先ほども言ったように そのような《善》あるいは《神》といった概念に 実体はないと考えるからです。
――ちょっと待ってください。ナラシンハさん それは おかしいのではないですか。
もし ぼくたち人間に その人間という存在に 仮りに実体があるとするなら それこそは その存在じたいを つねに どこにおいても 《有れ よく有れ》と言ってみちびく《善》というものであり 《善なる者》としての《神》であるはずなのですから。もしその《神》にも《善》にも実体がないのだとするならぼくたちは すでに誰もほんとうには(実体的には)生きていないということになります。
ぼくたちローマ人も ぼくたち人間の存在のすべての事柄について実体があるとは 考えていません。しかしぼくの学び信じていることによれば たとえばまずぼくたちが ぼくたちの理想に到るべき道の上で その善悪の判断に一度ある誤りを犯したとするなら まさにその誤りを犯したということ(それを知ること)じたいの中に ぼくたちの存在の揺るぎない一地点が あるのだと考えられます。つまり たとえば初めに立てた理想に向かって進む上で その理想に反したと知り その違反した自己を否定し しかもなお最初の《理想》を求め続けていくとするならば そのような存在として(そのような存在とする限りで)の実体が まずぼくたち人間の存在には あると考えられます。
従って さらにこの考えに沿って議論を進めるならば その理想とみづからの違反とのあいだに認められたぼくたちの実体(――その第一 ――)は・・・つまり それは所謂るぼくたちの《精神》というものだと思うのですが その《精神》は・・・みづから《精神する》というかたちで 実体(ペルソナ)としての自らの存在を思うはずです。そしてこの《思い》も その限りで実体(――その第二――)であり それを《知性》と呼んでいいかと思うのですが さらにそこから そのように最初の《精神》と その精神から自らを思うというその《思い》(つまり《知性》)との相互の関係のなかに その《精神》や その《思い》を宿している全存在〔つまり ぼくたち人間という個々の存在〕を ないがしろには しないという《ちから》が生じているはずです。言いかえれば 一人ひとりにそれぞれ個々の存在を大切にし 発展させようとする意志が生まれている。そしてこの《意志》も これまでの議論における限りでは 実体(――その第三――)であります。
さらには これら三者の実体・すなわち《精神と知性と意志》とが一体となった《ぼくたち一人ひとり》には 必ずしも時間的にその後というのではなく さまざまな《感性》や《欲求》などが そしてまたそれらもろもろの《意識》が そこにまとわるようにして生じているはずということです。
つまり 逆のほうから言えば ぼくたちの存在は その感性・その感性的な意識にしても 単なる心・その知覚的な意識にしても まったく移ろいやすいものですが しかし かと言って その存在に ぼくたち人間にとって固有で実質的なものがないかと言えば そうではなく そこには三者の実体があると考えなければならないであろう。
つまり繰り返せば それはまず  ぼくたちが初め単にこれこれが それぞれ 自身の《存在》であると思っていたものに ある時 欺かれ しかも その初めの存在(あるいは その意味で《自己》)を否定しながらも なお《存在》を存続させようとして進むものであるというとき そこに見出される《精神》 これが 第一のものとしてある。次に この精神がみづから《精神する》ことによって生まれるかのような《知性》 これは 第二のものとしてある。さらにそして これら精神と知性とが互いに互いをとうとぶということによって生じる《意志》があり 第三のものとなっている。少なくともこれら三者の一体となったもの これだけは 実体とよぶべきだろうということだと思うのです。
――なるほど。
――ええ ちょっと待ってください。もう少しありますから。つまり
(つづく→2006-03-24 - caguirofie060324)

*1:涅槃・Nirvaana:The Udaanavarga, which is the northern Buddhist expansion of the Dhammapada, has an important muni verse in Nirvaana chapter (XXVI,27): "According as the Muni, with the state of being a muni derived from himself, understands in this place (i.e., in Nirvaana), then is he freed from form and formless, from all suffering."

*2:THE MUNI TRADITION:For "silence" the word used was mauna (Paali, mona), related to the word muni (one who has the vow of silence), used in the .Rg-veda hymn X, 136: "The munis, girdled with the wind, wear garments soiled of yellow hue. http://ccbs.ntu.edu.tw/FULLTEXT/JR-PHIL/alex10.htm