caguirofie

哲学いろいろ

#13

――今村仁司論ノート――
もくじ→2006-01-31 - caguirofie060131

Ⅷ 愛の出発点に立って 経験的な妥当性の領域へ向けて

§34

今村理論は ジラールの議論に触れてあまり多くを語らない。つまり 愛の応用原則について まだあまり進み入ってはいない。また ジラール理論がその一つだと言って《宗教の理論》という一項目を 独自に立てているところも見られるのであるが これは バタイユの宗教の理論を引き継ぎ 発展させているとも見ている。

呪われた部分 有用性の限界 (ちくま学芸文庫)

呪われた部分 有用性の限界 (ちくま学芸文庫)

そしてその結果としては 貨幣と資本の問題がみちびかれる。

ジラールになお難点と限界があるとすれば その唯一の原因は ジラールが〔バタイユの〕《呪われた部分 有用性の限界 (ちくま学芸文庫)》を十分に読めていないこと とりわけ近代経済システムの動的過程を供犠論ないし普遍経済論の観点で把握することが欠如していることである。
暴力のオントロギー p.206)

すなわち とりあえずいま行き着くところは あらためて貨幣と資本の第三項排除効果の問題にほかならない。だがこの点は わたしたちの議論にとって重要なことがらは すでに触れた(Ⅳ)ので 基本的に省略に従ってよいであろう。
ただ そのこと(ジラールに対する批評)をそのまま認めたうえで いくらか付随的な別の問題も生じているかと思われる。うえの引用文につづいて 次のように説かれるときである。

だからジラールは 近代経済を人類史上の例外にしたり 近代法体系の制度化にめくらまされて 近代社会における供犠の論理の消失を語ったりする。
(承前)

わたしたちがこの最後の章で論じようとすることは どちらかというと――前章でのジラール批判を加味した上で―― いくらかジラールの見方のほうに傾いている。ジラールの味方をしていると見られるかも知れない。しかも そのことは のちに見るように 今村理論も遠く離れているとは思えないことがらだと考えている。
このような文脈のうちに ここでは 現代社会が 供犠の犠牲論・その構制としての観念の宗教からは自由になったということを 見てみたい。理論上そのように言えることによって 必然的に次のことも言える すなわち 信仰領域は 社会経験における妥当性の原則へ道をゆづったのだと。このあたりの情況をとらえて 終わりとしたい。
わたしたちは 近代以降の時代がそのまま《非供犠的な》社会となったと言おうとはしていない。と同時に それ以前の社会とは 微妙にちがって来ている しかもその変化は 信仰の基本原則にかんして 基本的な変化ではないかとも考えている。
これは 妥当性の領域にかんすることになり 上の今村理論の見方に反対を唱えるためにではなく いま一つの別の見方をも提出し それと合わせて あらためて 愛の応用原則にかんして とらえなおそうとするためのものである。

§35

まず注目したいことは 近代以降 第三項化(つまり犠牲)は 人間や動物としてではなく 主要な構制としては まさに近代貨幣として またその結果 社会の全般にわたるかたちで 組み変えられたという事態である。
しかも ここには 断絶があり 大きく第三項化の構制としても 不連続であると考えた(§26)。その第三項排除効果という構制が スケープゴート効果から経済的なスケープゴート効果へと 変わっただけであり 依然としてそれは 社会の有力となっていると見るにしても スケープゴートの否認という事態が そこに断絶を画するものとして 存在すると 消極的ながら 言えると思われる。
宗教的と経済的との二つのスケープゴート効果の間にちがいがあるとすれば その断絶をとらえた妥当性の議論が いわゆる近代市民のあいだで確立されたとは思われる。貨幣経済社会の日常かつ全般化という結果の中で 依然として第三項排除効果が存続し それは創成的な暴力にもとづいていると言えるとしたばあい これを分析してとらえる視座も――つまり妥当性の議論も―― 変わって来ている。
いや やはり大きく第三項排除効果という構制が 歴史を通じて 支配しているという見方を第一とするか その内容構成は変わったということを大きく見るか どちらも 同じ重要性を持っているのではないかと 消極的には 考えられる。これは 経済的と宗教的と二つのスケープゴート効果を どちらも無効と見る視点が――信仰原則として――有効でありつづけるとすれば それらの内容構成としての変化も それとして 指摘しておくことができるというにすぎないのであるが。
ただし積極的には 仮りに貨幣が犠牲者でありその呪いが 供犠のそれのとは別のかたちで かかっているとするなら しかもそのような第三項排除効果が社会的に有力だという事態は かなり大きな変化をもっていると考えられる。
貨幣という商品・従ってモノ・ないしむしろその価値として 概念・観念そのものをめぐって その社会有力性が成り立つようになったと考えられるからである。その意味では スケープゴート効果の儀礼が 理論上は なくなり すべては この観念としての第三項をめぐって 《無効》が実効性をもつにいたったという新しい事態であるからである。その限りで 無効はすでに明らかになっており いうとすれば 敵は観念だけであるとさえ考えられる。
貨幣が犠牲者であっても 誰も不都合はないと一応言えるであろうし 仮りに言えないとしても それは 貨幣が犠牲者であるという経験思考の概念が そこに介在するのみだと極論してよいかとも考えられるからである。
もっとも 逆にいえば 人間や動物としての犠牲の現象に代わって 貨幣の価値概念がそこに立てられたとすれば 間接的にはむしろ 人間が物象化することが一般化したとも分析して説かれている事態が この新しい変化によって引き起こされたと言わなければならないかも知れない。
人間の犠牲化=第三項化に代えて 貨幣という物がそれにあてられるようになったとも 言われている。そこには 新しいかたちで 物神という観念の神もいるのだと。かなり あるいはむしろ余計 厄介となったではないかとさえ考える向きもあるのかも知れない。その場合には たとえば中世の社会――そこでの 宗教的な儀礼の有力による秩序維持――のほうが よかったのではないかとなどと。
この辺のことがらを考えておきたい。
なお あらかじめながら すでにここで 今村理論においても じつは 近代以降の社会において 新しい局面も出現してきているということが 肯定的に論じられている。前もって触れておきたい。

資本の変身の無窮動は 社会的生産過程の拡大と深化した分業体系の展開とを通して また生産力の上昇と労働時間の相対的短縮とを媒介にして 人間の生活世界の内包的奥ゆきを深くし 外延的展望を拡大する。資本形式の下にある市民生活そのものは 資本の変身運動に従属するものでしかないが 資本の運動の成果は 一定の条件の下で 人間が自由に多様な実践を試みる可能性を与える。
排除の構造―力の一般経済序説 (ちくま学芸文庫)p.239)

わたしたちは 供犠のスケープゴート効果からの解放と断絶をとらえ 貨幣という価値形式のもとでは もはやいうとすれば敵は観念のみとなった したがって理論上は あたかも愛の持続過程が 信教・良心の自由はもとより 経験思考一般の表現の自由をも獲得するようになったという一面を 直接に論じようとした。上の引用文では 近代以前からの連続性のもとにだが 貨幣という新しい第三項は 社会的に日常全般化し 資本形式をとるようになり しかもやがて それの第三項排除効果は まさにそれ自らの中から 人びとに《自由に多様な実践を試みる可能性を与える》ようになるというかたちで 結論としては 同じ内容が主張されていると思われる。
ただ いま見たようにこの一結論をみちびく過程が必ずしも同じではないこととあいまって この・表現ないし社会交通の新しい自由な実践の中味にかんしては ちがった内容がとらえられているかとも考えられる。というよりは わたしには その内容がいま一つよく理解することができない部分がある。上の引用文につづけて 次のように展開されている。それは一つのまとまりを持った文章としては 二頁ぶんの長さがあり 三つの段落から成り立っているのであるが わたしの理解によって 次のように端折って かかげておきたい。

資本の変身は 旧来の《自然発生的》変身と同類であるから 暴力を内在させた聖性 怪物性を属性としつづける。・・・第三項排除効果の《自然発生的》発動は つねにこうしたものでしかない。資本の変身運動が散種する第三項排除効果を中断し この効果自体を資本のシステムにふりむける批判的運動がおこるとき 別種の変身の可能性が生まれる。マルクスは その批判運動を《革命》とよんだ。この批判運動も 第三項排除効果の産物である。中心化した資本の変身運動は つねに第三項排除効果を発動せしめる。資本のシステムのなかから新しい排除された第三項が産出される。この新しい第三項をマルクスプロレタリアートとよんだ。プロレタリア化は 排除される第三項の生成過程である。資本が必然的に産出する新たなる被排除項によって批判され 危機に直面するとき 資本の変身とは異質の 自由な変身運動の可能性が生誕するのである。・・・真に自由な変身の実現可能性は 決して保証されてはいない。それは つねにユートピア性を帯びたままである。しかし・・・
・・・共同幻想の一様性の拒絶こそ 自由な変身の根本条件である。・・・
排除の構造―力の一般経済序説 (ちくま学芸文庫) pp.239−240)

ここで《変身》とは 経験妥当性における表現行為としてのそれである。妥当性の原則に 愛の持続過程がもし痕跡として残っているとしたなら それは 《自由な変身》である。――なるほど 《真に自由な変身の実現可能性》は 愛=非対象化労働たる出発点として どこまでも《ユートピア性を帯びたままである》。それは たしかに《決して保証されてはいない》のであるが 同じことが 無力の有効のうちに 保証されているとも わたしたちは とらえ返す。すなわち 《自由な変身の根本条件》は それ(非対象化労働=愛)でしかないと あくまで捉えているからである。
上の引用文では 人びとが《新しい第三項》とされつつ そうなってのように 古い第三項排除効果への《批判運動》を展開し それとしての《自由な変身の ユートピア性を帯びたかたちでの実現可能性》を 持続的に発現させていくということ このような内容が捉えられる。
実際 妥当性の領域では もはやそれが一つの主張をなすと考えざるをえないが けっきょく《いま・ここで わたしがなすこと》としては 時間が妙に間延びしているようにも 感じられる。現代社会論として そのような一つの長期的な展望が捉えられるということになっていると思う。従って これに対しては もし大前提に ユートピア的契機としての非対象化労働が いま・そして歴史をつうじてつねに 捉えられるとしたなら この想定を いま・ここで 仮説として・また妥当性の議論として 提示してもよいと思われるのである。
それが 信仰領域の想定でありつつ 経験妥当性の議論でもあるというのは この基本原則に立ってこそ 経験具体的に《共同幻想の一様性の拒絶》を わたしたちは 意志決定し 自由に選択しようと試みることができるようになると思われるからである。その逆ではないであろう。
つまり もし経験有力としての《共同幻想の一様性》(そのような一つの第三項排除効果の現象)に対して その《拒絶》をこそ《自由な変身の根本条件》とするのであれば これは 経験思考によるいま一つ別の有力を志向し これによって対抗するという《批判運動》になることを免れがたいと思われるのである。
従って 現代社会論として同じような主張内容を共有していると思われるけれども いまこの一結論については 留保しておきつつ その結論をみちびく具体的な過程について いくらか――わたしたちの想定内容のさいごの検証としても――見ておきたいと考える。
(つづく→2006-02-13 - caguirofie060213