caguirofie

哲学いろいろ

#36

もくじ→2005-12-23 - caguirofie051223

§45(会議は躍る)

可愛想に レオナルドよ なぜおまえはこんなに苦心するのか。

      *

真理――太陽。
嘘――仮面。

火はあらゆる詭弁家を焼き尽くして 真理をあらわし明証するものと見なさるべきだ。けだし火はあらゆる本質をかくす闇の駆逐者たる光であるから。

火はあらゆる詭弁家すなわち虚偽を破壊し もっぱら真理すなわち金のみをたもつ。
真理は結局隠されない 佯りは役に立たず。
佯りは鞭打たれる かくも偉大な裁判官の前で。
嘘は仮面をかぶる。
太陽の下に隠るるものなし。
火は真理にたぐえられる けだしあらゆる詭弁家と嘘とを破壊するから。仮面は真実をおおうもの 虚偽と嘘とにたとえられる。

レオナルド・ダ・ヴィンチの手記 上 (岩波文庫 青 550-1)

レオナルド・ダ・ヴィンチの手記 上 (岩波文庫 青 550-1)

嘘はそれじたいで成り立たない。仮面はみづからで存立するにあたわず。佯りはつねに二重である。
だが 真実のものを仮面としてかぶることが起こった。価値の単位的な等一性に立った自由で合理的な増殖をとおして 平等な人間の自由な社会生活という交通関係 この 理念として真実なものへ 身も心も寄せて跳躍する仮面の二重会議。われわれは 真実――これは 主観ごとの真実である――の単一性に立つが 真理の唯一そのものではないから 二重性と この世では 入り組みあい 混同する。
リスボ地震の報に接して ヴォルテールは 《リスボン大震災に関する詩編 または〈すべては善である〉という公理の検討》を書いた。これに異を唱えるため ルウソは《ヴォルテール氏への手紙》(1756)を 公開を前提にして 書き送った。
《ルソーとヴォルテールの相違点を図式的に言えば ルソーは〈理念〉の思想家であるのに対して ヴォルテールは〈事実〉の思想家である》(次の引用文と同じ典拠)かどうかわからないが――つまり 次から察するところでは その逆であってもよいようなのだが あるいは全体的に考えて ふたりとも《事実》の思想家であると言ったほうがよいかと思われるが――

リスボンの大震災についての両者の受けとめ方の違い。ヴォルテールは大震災の事実に笑劇を受け 被害者に深い同情を寄せ この世の不幸=悪の存在を嘆いている。これに対して ルソーは大震災そのものには無感動のようである。被害の原因のほとんどは 都市の構造 住まい方 市民の貪欲さにあると言って むしろ人間社会の悪=不幸の作者は人間自身なのだと《不平等論》以来の主張を繰り返している。
ルソー全集 第5巻解説=浜名優美)

ということは 単純に結論して 単一性の会議に立つ人びとのあいだにも 意見の対立があるということである。

にもかかわらず パリ中が フランス全土が ヨーロッパ全体が 私には思いもつかぬまったく新手の行動規準に全幅の信頼をおいて私に対して振舞っているのを見ると これだけ全員一致にいかなる合理的な根拠も せめてうわべだけの根拠なりともないは思えないし まるまる一つの時代が一致してわけもなくすべての自然の光を消そうとしたり あてもなく得にもならず実もないのにただただ私には目的もきっかけもわからぬ気まぐれ心を満足させるためだけに すべての正義の法 すべての良識の規範を冒そうとしているのだとも思えなかった。
(《ルソー・ジャン・ジャックを 上 (古典文庫)――対話》〈この著作の主題と形式について〉)

ところの世論との対立を ルウソは味わっていた。もちろんこれを書くルウソは 《とはいえ 幻影と格闘するようなことをしないためにも この時代全体の人々を侮辱しないためにも みんなが是認し従っている立場にはそれなりの理由を想定する必要があった》(同上)というすでに《主題と形式》のもとにあって じっさい 二重会議の問題を つねにあくまで基本単一の会議の歴史的な進展のそれとして 考えていく。少なくとも つねにあくまで 単一性と二重性との比例相応の問題として。
この主題について スミスはどちらかといえば 一般論の形式で論じた。(そして プラス経済学だし 自分の仕事としては この経済学のほうだけでも じゅうぶん大きな比重を占めている)。この主題を 一個人の生活態度の問題として しかもほかの誰でもなく自己のそれとして 論じる形式は よりいっそうルウソのものである。
ところが 二重会議問題は 一個人の生活態度そしてさらに固有名をもった個々人のそれとして 扱われるのが もっともふさわしいと考えられるにもかかわらず そのときには

説明はいたします。ただ なんとも余計な無駄骨のようですがね。つまり私のお話しすることは 以心伝心 言わずもがなの相手にしかわかってもらえないことなんですよ。
ルソー・ジャン・ジャックを 上 (古典文庫) 〈第一対話〉の初めのほう)

というべき性格が 結局つねに つきまとう。とすると どういうことになるか。一つに それでもルウソは この《対話》を《胸が痛くなったり苦々しい思いをしたり》して 同じことがらを繰り返しながらも 相手側の自由な発言に時間をじゅうぶんかけて 書いている。一つに これを もはや道徳哲学としては議論せず 経済生活を基礎および主要な舞台として 経済学の実践にまかせるという考え方も出てくる。
この第二のほうは 会議の進展が 経験現実的にそのように人間学を経済学が代理しうるほど 発達したときには それでよいと考えられもするし 同時に そのときにも その経済学実践の踏み出しは――最初の一突きは―― 人間学のものであると考えられもする。ここでは 第一のほうの ルウソ自身の丹念な議論を必ずしも取り上げず 第二のほうの あとの考え・すなわち 経済学の踏み出し点の問題として さらに 二重会議問題を 追究するというかっこうである。なお ルウソが《以心伝心》というのは なにも神秘的なことなのではなく――あるいは 腹芸のことなのではなく―― 《同感》行為の問題だと解しておきたい。いや そうしなければいけないだろう。
そして まさに 問題は この経済行為の踏み出し点にあって 二重会議はこの地点で 跳躍したゆえにかどうかをたとえ別としても 少なくとも表向きは 同感を要求するかたちをとるのであるそのことにある。すべては――法律に触れる問題を除いてすべては―― 平等な人間の自由な行為の合法的な交通展開として この踏み出しがおこなわれる。このとき われわれは どう対決するかにある。よく考えてみると 無効の跳躍者・人格交換の仕掛け人は 対決して欲しいわけである。要するに いや もしすべてが合法的なのなら なんで 二重会議があるのか あるわけないではないかという反批判がおこるほどであるのだから 対決すべき二重会議の妖怪をわれわれが どう認識しているか これが さしあたっての問題である。
われわれは あくまで 二重会議の発生しうることに 固執しようという魂胆だが 二重会議派は すまし顔なのである。いやいや ほんとうは わたしたちが すでに済ましており かれらが済ましていないで 踏み出し地点で しかしすました顔で 肝胆相い照らすの密会を催しているというのが 経済的にして非経済学的な仮面舞踏会だと言わなければならない。そうでなければ レオナルドはそんなに苦心しなかったろう。仮面舞踏会というのなら 隠れて跳躍もおこなわれるであろう。最近では 仮面もさることながら 演技・演劇だとかパフォマンスだとか言われるようになった。理念的でそれゆえ真実であっても 仮面舞踏会は それじたいで 会議を二重性のものとしているであろう。
パスカルの《パンセ (中公文庫)》の評注を ヴォルテールが次のようにおこなっている。

我々の心の動きを辿ってみよう われとわが身を観察してみよう そしてそこにこの二つの本性の活ける特徴が見出せるものかどうかを見てみよう。
こんなに多くの矛盾が単一の主体( sujet simple )のうちに存在し得るものであろうか。(パスカルパンセ (中公文庫) 断章430)
人間のこの二重性( duplicité )はまことに顕著であるため 我々には二つの魂があると考えた人々が あるほどである。彼らには 単一の主体が際限のないうぬぼれ( présomption démesurée )から恐るべき失望へこんなに突然変化するようなことはあり得ぬことだと思われたのである。(断章417)

我々の様々な意欲も自然にあっては矛盾ではないし また人間は単一の主体ではない。人間は数え切れぬ数の器官から成っている。その器官のたった一つでも少し調子が狂うと 必ずこれが脳髄のあらゆる印象を変え この動物は新しい思想と新しい意欲をもつに至る。なるほど 我々はある時は悲しみにうちひしがれ ある時はうぬぼれでふくれあがる そしてこれは我々が相反する状況におかれる以上は至極もっともである。・・・
我々には二つの魂があるといった馬鹿者たちは 同じ理屈でそれを三十なり四十なる我々にくれてもよかったわけだ。というのは 人間は大きな煩悩に駆られた場合には 往々にして同一物について三十なり四十なりの相異なる観念をもつものであり その対象が種々なる相で現われるに応じて 否応なしにそれらをもたらされるからである。
かの人間のいわゆる二重性なるものは 形而上学的であると同じくらい虚妄の観念である。それくらいなら私はいっそのこと言いたい。犬は噛みついたりじゃれたりするから二重の存在 牝鶏はあんなに雛を構うかと思うと後ではてんでうっちゃらかして顔も忘れるという始末だから二重の存在・・・てな工合に。私は人間が不可解であること(断章430など)は認める。しかし人間に限らず自然にある他の森羅万象もまたそうで 目に立つ矛盾が他のすべてよりも人間は特に多いというわけではない。
ヴォルテール哲学書簡 (岩波文庫 赤 518-2)(イギリス便り) 25・4)

せっかく長文を引用したのだから パスカルヴォルテールの両人に語るにまかせよう。《人間は 単一の主体であって 二重性が見られないわけではない しかも いわゆる二重性なるものは 虚妄の観念である》というふうに言っても こんどはヴォルテール氏も これを《不可解であるとは認め》ないことであろう。会議人のあいだにも 意見の対立はあることである。仮面から無縁だからである。会議は躍るのだ。(楽しく進むというほどのことだが。)

lionardo mio
o lionardo che tanto penate...
(私のリオナルド
ああ こんなに苦しんだリオナルド)
(ポール・ヴァレリ:覚え書きと余談 1919 《レオナルド・ダ・ヴィンチ論》所収) 

  • この日(一九八六年一月一日) テレビで 《レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯》という映画を見た。むろん つねに幸福であったから みづからに対して《可愛想にうんぬん》と手記に書いたのである。また パスカルだけでなく 自然科学の方面に通じることがらに 少しでも触れることができたならと思ったゆえ このような一章。