caguirofie

哲学いろいろ

#35

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§44(内なる人の秘蹟

したがって 私たちは落胆しない。私たちの外の人(ό 'εξω)は衰えても 内の人(ό 'εσω)は日々に新たになっている。実に私たちの受ける一時的な軽い患難は それとつり合わないほどの大きな永遠の光栄を準備する。私たちは見えるものではなく見えないものに目を向ける。見えるものは限られた時間のものであるが 見えないものは永遠のものである。
パウロコリント人への第二の手紙 (聖書の使信 私訳・注釈・説教) 4:16−18)

かくて 会議以降の人は しばしば理念の永遠 理念価値(その記号)の無限運動が好きである。

あなたたちは古い人間(τον παλαιον άνθρωπον)とその行ないを脱ぎ 新しい人間(τον νεον τον άνακαινουμενον)をまとた。この新しい人間は 自分を造ったお方の姿に従い ますます新しくなって深い知識に進む。そこにはギリシャ人とユダヤ人 割礼を無割礼 未開人 スキタイ人 奴隷 自由民の区別がもうなく キリストがすべてであり すべてのうちにまします。
パウロコロサイ人への手紙 (コンパクト聖書注解)3:10−11)

というごとく そしてそのことは 単一の基本会議と二重会議とが あたかも一つのものとなったというがごとく わたしたちの世界は 進んできている。
この章(§44)では スミス〔そしてルウソ〕への参考資料をあげるようなかたちとなる。

神の罰の必然性によって 当然に到来する罪人の死は 憐れみの御意志によって来られる正しいお方の死をとおして廃棄されたのである。蓋し キリストの一度びの死は私たちの二重の死に相応しいからである。
この相応( congruentia ) 一致( convenientia ) 比例( concinentia ) 調和( consonantia ) あるいは一と二との関係をより適しく言われようとも これらは被造物のすべての」組合せにおいて あるいはよりよく言われるなら被造物の精確な結合〔――交通関係――〕において 極めて重要である。・・・しかし今は単一性と二重性のあの調和がいかに重要であるかを示す場所ではない。この調和の最大なものは私たちのうちに見出され そして無学の人も 自分たちが歌うにせよ他人が歌うのを聞くにせよ それを感知し得ないことがないようにして私たちに本性的に植えつけられている(それは私たちを創造すたまうお方によってでないなら 誰によって植えつけられたのであろうか)。実にこれによって より高い声とより低い声とが調和し したがって この調和を乱す人は 多くの人が与り知らない音楽の知識にではなく私たちの聴覚そのものに 極度に不快の念を与える。しかし このことを論証するためには長い論議が必要である。ところがそれを知ってしる人は正確な一絃器を用いて自分の手で明らかにし得るのである。
(4・2)

アウグスティヌス三位一体論

アウグスティヌス三位一体論

単純に言うなら 《内なる人の声》という《正確な一絃器》に聞けばよい。会議の単一性と二重性とは そこから出たものであるから。

しかし当面の問題として 私たちは神が許したまう限り われらの主にして救い主イエス・キリストの単一性が私たちの二重性にいかに相応し またいかなる点で私たちの救い〔――とりあえず 自己実現である――〕にそれが対応するのか 解明しなければならない。キリスト者〔――基本単一の会議人――〕は誰も疑わないのであるが 私たちはたしかに 魂と身体において死んでいるのだ。つまり 魂においてとは罪のためであり 身体においてとは罪の罰のため したがって身体において というのも結局は罪のためである。
さて 私たちのこの両者 すなわち 魂と身体にとって より悪しきものへ変えられたものが より善きものへ新しくされるためには 医薬と回復が必要であった。ところが 魂の死とは不敬虔のことであり 身体の死とは 魂を身体から分離させる壊敗性のことである。魂は神を棄てることによって死ぬように 身体も魂を捨てることによって死ぬ。そこで 魂は愚かなものとなり 身体は生命を失う。しかし 魂は悔悛によって蘇生し そしてまだ可死的な身体において 生命の更新が 不敬虔な者を義としたまうお方を信ずる信仰(ローマ人への手紙 (新聖書講解シリーズ (6)) 4:5)によって始められる。それは内なる人( homo interior )が いよいよ新しくされるとき(コリント人への第二の手紙 (聖書の使信 私訳・注釈・説教) 4:16) 日毎に善き行為によって増し加わり 強められるのである。だが 身体は外なる人( homo exterior )として この生が長く続けばつづくほど いよいよ年齢や病気やまた種々の苦悩によって誰もが死と称する終局に至るまでは壊敗されるのである。しかしその復活は終末 つまり 私たちの義認が言い表わし難い仕方で完成されるときまで延期される。かの時には 私たちは御子に似るものとなるであろう。私たちは彼の真のお姿を見まつるであろうからである(ヨハネの第一の手紙3:2(ヨハネの手紙1、2、3 (インタープリテイション・シリーズ)))。しかし今は 壊敗する身体が魂を重くしている(知恵の書9:15(伝道者のことば―コヘレットの書・知恵の書・シラの書 (聖書シリーズ (6))))限り 人間の地上の生命は試練そのものに他ならず(ヨブ記 (ケンブリッジ旧約聖書注解) 7:1) 私たちを天使に等しくするであろう義と私たちの裡に啓示されるであろう栄光に比較しては 生けるものはすべて彼の御前に義とされないであろう(詩編 (現代聖書注解―インタープリテイション・シリーズ)142:2)。
さて 魂の死を身体の死から区別すべきことについて 主が 福音書の一節で すべての人が容易に両者の死を見分け得るように 《死にたる者にその死にたる者を葬らしめよ》(マタイによる福音書 (EKK新約聖書註解)8:22)と言われるとき どうしてこれ以上テキストを叙べる必要があろうか。たしかに 死にたる身体は葬られなければならなかったのである。だが 埋葬者ということで 主は不信仰の不敬虔によって魂において死にたる者 《眠れる者よ 起きよ。死人の中から立ち上がれ。そうすれば キリストがあなたを照らしたまうであろう》(エペソ人への手紙 (EKK新約聖書註解)5:14)といわれるとき目覚めさせられるような者を意味しようとされたのである。また 使徒パウロ)が寡婦(やもめ)について 《淫らな生活を送る寡婦は生ける屍である》(テモテへの第一の手紙5:6(テモテへの手紙1、2・テトスへの手紙 (現代聖書注解)))と言って非難しているような或る種の死もある。したがって かつては不敬虔であったが 今は敬虔である魂は信仰の義のために 死からよみがえって生きていると言われるのである。
さて 将来する魂の消滅のためにだけではなく 肉と血の甚だしき弱さのためにも死に定められている身体は聖書のある箇所で 死にたるものと言われる。つまり 使徒は 《身体は罪のために死んでいても 霊は義のために生きる》(ローマ人への手紙 (新聖書講解シリーズ (6))8:10)と言うのである。この生は信仰によってつくられたのである。義人は信仰に基づいて生きる(同上1:17)から。しかし そこに つづいて何と言われているのであろうか。《もし イエスを死人の中からよみがえらせたお方の御霊が あなたがたの中に宿っているなら キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたお方は あなたがたの中に御霊をとおして あなたがたの死ぬべき身体をm生かして下さるであろう》(同上8:11)。

    ***

だから この私たちの二重の死(魂の死および身体の死)に 私たちの救い主はご自身の単一なる死を与えたまうのである。すなわち 私たちの二重の復活(魂の死からおよび身体の死からの)を実現するために 救い主は秘蹟と模範においてご自分の一つの復活を予め定め 提供されたのである。救い主はいわば霊において死にたる者のように内なる人において新たにされ いわば悔い改めて義の生命へと呼び戻される必要があるような罪人でも不敬虔な者でもなかったが 可死的な肉を纏っているものとして 肉においてのみ死に 肉においてのみよみがえり 肉においてのみ 死と復活のために私たちに照応された。つまり肉において主は内なる人の秘蹟 外なる人の模範となられたのである。《わが神 わが神 なにゆえ われを捨てたまいしや》(詩編 (現代聖書注解―インタープリテイション・シリーズ)21:1)と《詩編》においてのみならず 十字架において(マタイ福音書 下巻27:46)も発せられたあの御声は 私たちの魂の死を意味表示するために 私たちの内なる人の秘蹟に与えられたのである。この御声に相応して 使徒は 《私たちは知っている。われらの古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは この罪の身体が滅びるため 私たちがもはや罪に仕えないためであることを》(ローマ人への手紙 (新聖書講解シリーズ (6))6:6)と言う。内なる人が十字架につけられたことによって 悔悛の苦しみと貞潔の或る健全な鞭が理解され この死によって不敬虔の死は破壊され この死において神は私たちを見棄てたまわなかったのである。それゆえ このような十字架をとおして罪の身体は消滅せしめられるのである。それはもはや私たちが私たちの肢体を不義の武器として罪に委ねないためである(ローマ人への手紙 (新聖書講解シリーズ (6))6:13)。内なる人が日から日へ新たにされる(コリント人への手紙第2 (ティンデル聖書注解)4:16)なら 新たにされる前には古くあったことは明らかである。同じ使徒が《古き人を脱ぎ新しき人を着よ》(エペソ人への手紙 (EKK新約聖書註解)4:22)と解き明かす。自分の心において真理を語る人は神の聖なル山に住む(詩編 (現代聖書注解―インタープリテイション・シリーズ)14:1−3)ために 内的にでないなら どこに虚偽を捨てようか。
アウグスティヌス三位一体論4・3)

土地や生活手段をうばわれ自由になった労働者 近代のひとりの市民 かれは かれも 《わが神 わが神 なにゆえ われを見捨てたまいしや》と言ったということである。それ以前から 内なる人の秘蹟 外なる人の模範は信じられていたが 基本人間学が 後行交通の信用関係たる道徳哲学としてまなばれ これもやがて 経済学に代理されるほどになっていく この時代に 社会一般的に(世界史的に) ひじょうに顕著になってきた これをもって 会議の歴史的な成立という。
《わが神 わが神 なにゆえ われを捨てたまうたか》というわたしたちの魂の死および身体の死のきわみであるような二重の死 そして 同じそのことばをはじめに発した人の単一の死(なぜなら かれには いかなる罪もなく魂の死はなかった)との関係相応。おのぞみなら この一人のひとの単一の復活(つまり身体の復活)と わたしたちの二重の復活との相応関係。これらは 人間的な論法でいえば 同感人の会議の基本単一と二重性との比例である。密約して二重会議する人たちも 異感(偽感・背感)を持っても すでに会議に立って 同感をわきまえていないわけではない。近代人は さいわいにして 孤独から出発するし 孤独になる機会がおおい。近代人の会議からの出発の以降――自由な資本志向の生活態度の社会的な普及の以降―― それ以前よりもはっきりと この二重会議と単一会議との区別または比例が とらえられるようになった。わざわざ哲学せずとも ふつうの経済活動をとおして それをちょっと人間の問題として捉えてみるなら あるいは 捉えようとつとめなくとも 経済活動を基礎とする生活一般をとおして 感じられるようになった。わざわざ神を持ち出さなくとも あるいは 《神は死んだ》と言っていても・もしくはそう言ったことのゆえに 容易に 神を感じるようになったと表現してみることも 可能である。

  • 経済基礎が 主観動態のほんとうの・つまりふつうの基礎となってくると 最先行する神のことは いちいち触れなくとも ふつうに感じられるようになるとも言える。

経済生活という基礎の経験行為をとおすゆえに そのようになった。一つの運度法則をもってのように営まれる経済生活が 同感あるいは異感の問題を 依然として内的な意図の問題であることに変わりはないのだけれども その外的な経験行為をとおして・だから その行為に意図が自由にそして一応つねに連動するかたちで 指し示すようになったからである。

ところが 主の身体の復活は私たちの内なる復活の秘蹟に属しているということが 主が復活された後 或る婦人に対して 《私に触れるな。私はまだわが父の御許に上っていないから》(ヨハネによる福音書 (アレテイア--釈義と黙想)20:17)と言われる箇所で示される。この秘義に 《あなたがたはキリストと共によみがえらされたのであるなら 上にあるものを問い求めよ。キリストはそこで神の右に坐しておられるのである。上にあるものを思念え》(コロサイ人への手紙3:1−2(ピリピ書・コロサイ書・テサロニケ書 (聖書の使信―私訳・注釈・説教)))という使徒の言葉が相応する。父の御許に上る前にはキリストに触れてはならない ということは 言い換えると キリストについて肉的に思念ってはならないということである。

  • 会議人=同感人として立ったが その先行するものの有効であることの自由 これは 経験的な認識の目標では ほんとうには ない。自由は ことば=概念として持たれたなら 理念であるが これを ただちに全面的に肉のこととして 後行経験のなかに 見出し捉えるということではない。《私に触れるな》。

さて 私たちの外なる人の死の範型として主の肉の死がある。それは 身体を殺しても魂を殺し得ない者どもを恐れない(マタイ福音書 下巻10:28)ように主がご自分の僕(しもべ)たちにとりわけ このような苦難をとおして勧められたからである。それゆえ 使徒は 《キリストの苦しみの欠けたるを私の肉で補うため》(コロサイ書1:24)と言う。また主が弟子たちに 《触って 見よ。霊は肉や骨を持たないが あなたがたが見るように 私は持っているのだ》(日本語対訳ギリシア語新約聖書〈3〉 ルカによる福音書24:39)と言われるゆえに 主の身体の復活は私たちの外なる人の復活の範型としてあるのである。また 弟子の一人は主の傷痕に触れて 《わが主よ わが神よ》(ヨハネによる福音書 (アレテイア--釈義と黙想)20:28)と叫んだ。さらに 主の肉の全き完全性があらわれたとき そこで ご自分の弟子たちを鼓舞されて 《あなたがたの髪の毛一本でも失われることはないであろう》(日本語対訳ギリシア語新約聖書〈3〉 ルカによる福音書21:18)と言われたことの真実が証明されたのである。先ず 内なる人の秘蹟が示唆され 次に外なる人の範型が与えられたからでないなら どうして先ず《私に触れるな。私はまだ父の御許に上っていないから》と言われ 次に父の御許に上る前に 弟子たちから触れられるのであろうか。それとも 或る人が 御子が御父の御許に上る前に人々によって触れられ 父の御許に上られたときに婦人によって触れられたのだえると敢えて言うほど愚かにも真理から背反しようか。このゆえに 私たちの身体における将来の復活の範型は主にあって前以って与えられていたことを 使徒は 《初めにキリスト 次にキリストに属する者たち》(コリント人への手紙第1 (ティンデル聖書注解)15:23)と言う。この箇所では身体の復活について論じられている。そのため 使徒は 《彼は私たちの卑しい身体をご自分の栄光と同じかたちに変えたまうであろう》(ピリピ書3:21(ピリピ書・コロサイ書・テサロニケ書 (聖書の使信―私訳・注釈・説教)))と言う。だから われらの救い主の一つの死は私たちの二つの死に救いをもたらしたのである。また 主の一つの復活は私たちに二つの復活を与えた。主の身体は二つのもの すなわち 死と復活において そして内なる人の秘蹟と外なる人の範型とによって 私たちに或るふさわしい医薬として備えられたのである。
アウグスティヌス三位一体論 つづき)

したがって だから これゆえに

こういうわけですから 人はわたしたちをキリストに仕える者 神の神秘を管理する者と考えるべきです。この場合 管理する者に要求されるのは忠実であるということです。わたしにとっては あなたたちから裁かれようと 人間の法廷で裁かれようと 少しも問題ではありません。わたしは 自分で自分を裁くことすらしません。自分には何もやましいところはありませんが それでわたしが正しいことになるわけではなく わたしを裁くのは主なのです。ですから 主が来られるまでは 先走って何も裁いてはいけません。主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し 人の心の企てをも明らかにされます。そのとき おのおのは神からおほめにあずかるでしょう。
兄弟たち あなたたちのためを思い わたし自身とアポロとにあてはめて このように述べてきました。それは あなたたちがわたしたち二人の例から 《書かれているもの以上に出ない》ことを学ぶためであり だれも 一人を持ち上げてほかの一人をないがしろにし 高ぶることがないようにするためです。
パウロコリント人への第一の手紙 (聖書の使信 私訳・注釈・説教)4:1−6)

とわたしたちも このパウロとアポロとにならい さらには スミスとルウソとを見習って このパウロが言うようにさえ 言えるようになりいくでしょう。《神の神秘を管理する者 / その人に あるいはその人をとおして 闇の中に隠されている秘密が明るみに出され 人の心の企ても明らかにされるというその人》に わたしたち一人ひとりがなるということ。会議人=同感人としての経済人は 社会一般経験的につねに 内なる人と――ことば=概念上の認識・表現としては 理念の問題として―― 同時一体となるという歴史の一段階に来ているから。

  • 主よ早く来てください。