caguirofie

哲学いろいろ

#19

もくじ→2005-12-23 - caguirofie051223

付録 近代市民の会議ということ

§28 (ルウソ)

節の区分を 本文と通し番号でつけるけれども これからあとは みな 付録である。
本文で 《会議》ということを いちおうの説明のもとにのみ 持ち出していたから これについて 歴史的な検証をおこないたい。ただし 一般に人間社会の歴史 とくに経済史については 専門の学者の方がたにゆづらなければならない。われわれの観点から簡単な例証をあげるにとどまるとお断わりしておかざるを得ない。


会議人の代表としてわれわれは パスカルとスミスとをあげた(§26)。それの論証もしなければならない。付録の議論の取っ掛かりとしては 《人は代表され得ない》(社会契約論 (岩波文庫)2・1)と言うジャン-ジャック・ルウソを登場させたい。
くりかえしことわるとすれば この議論は 任意の――恣意的と言わないまでも 主観的な――観点からのもので ここでも一般に思想史あるいは特殊に思想家としてだれかれについての研究というものはすべて しかるべき適任の方がたにゆづらなければならない。
ルウソ(1712−1778)について その《会議》論をみようとおもえば こうである。

自尊心虚栄心; amour-propre )と自己愛( amour de soi )とを混同してはならない。この二つの情念はその本性からいってもその効果からいっても 非常に違ったものである。
自己愛は自然の感情であって すべての動物をその自己保存に注意させ 人間においては理性によって導かれ あわれみの気持によって変えられて 人類愛と徳とを生み出すものである。自尊心は相対的で人工的で 社会のなかで生まれる感情にすぎず それは各個人に自分のことを他のだれよりも重んじるようにさせ 人々がお互いのあいだで行なうあらゆる悪を思いつかせ また名誉の真の源なのである。
人間不平等起原論 (中公文庫) 〈著者の註〔o〕)

会議は 会議しうる人間を主体ととらえ この存在つまり自己を 経験行為(その事実・その行為事実の関係)に対して 先行するものと知った。先行するものは 意志であり 先行性ということは 後行するものに対する自由のことである。
意志は 自由である。わたしという人間が 意志において自由であることは きみ・かれ・かのじょも 同じくそうである。自由な意志をもってわたしは 同じく自由な意志の主体であるきみと この先行するものの領域で 基本的にそのように関係している。そのようにというのは たとえば平等である。基本的に平等な関係のもとにある人間が 自由な意志をもって存在しているということ これが そのまま 会議である。会議の原点である。

  • 現実をみれば 懐疑でもあるが そうであってよい。有効な自由が 無力にされている無力にされているが 会議は有効である

会議の原点は とくに意志の関係として である。そう呼びうる。自治(自立)とも そしてもっと経験領域にひろげるならば 政治つまり共同自治とも呼びうる。自由な意志の 関係の側面 これは 愛というのが よりいっそうふさわしい。そして ちなみに この先行するものとそして後行領域との接点は 会議にもとづく生活態度であり 出発点である。そのように呼んでいた。出発点もしくは出発は 同じく関係の側面からいって 交通まじわりであるとした。まじわりとしての愛も 考えられる。信用ということばで呼んでいた。むろん 信頼といってもよい。

  • この愛という出発点ないしそこからの出発進行の過程にあって 信号が発信される。この愛の行為は 信号を発信させあって 交通し さらには広く共同自治の行為を行なっている。信号発信において わたしたちは 記号を・つまり経済行為としては価値記号=価格を用いている。
  • ちなみに 《ことば》は 一方で 単なる・中立的な記号としても扱われるであろうし また信号としての役割を担っているであろうし 他方では 出発点もしくはさらに深く原点における自由そのものの内容としても――つまり いわゆるこころとしても――とらえられると言うべきであろう。

ルウソのいう《自己の愛 amour de soi / 自己自身の愛 amour de soi-même 》は とうぜん 基本関係の愛をいうとしなければならない。任意の観点からのそういう読みであるが 恣意的なものではないといってよいであろう。
《自尊心 amouru-propre =愛そのもの・固有なものとしての愛・〔あるいはすすんで〕所有としての愛( property )》とは なにか。これは 理念のことを まず第一に 言っている。《愛》とは 《アイ》という概念(ことば)であり 発音・文字として記号でもあるが ここでは 基本関係・基本存在(基本主体)つまりその意志なら意志という先行するもののことを言っているのであるから とうぜん 意志は 知解記憶とともに 精神とよばれるもののことで これはまた理性といっても同じであるゆえに この理性をさして言った概念である愛なら愛ということばは 一つの理念である。
愛情・欲求・情欲などのことばは 概念ではあるが 理念とは言わない。先行するものに特定されないから。
ただし 先行するものに特定されない愛ということばも ありうる。そうして わたしたちが議論してきたように(本文のいたるところでそうしてきたように) この理念は 先行存在(愛)と後行経験(欲望・心理)との同時一体なる主観動態(わたしが生きること)のなかに 見られるものであるのが やはり基本なのだが そうなのだが どうしたわけか 理念そのものとして・ことばそのものとして 見つめられ唱えられうる。理念がそのものとして念観され 呪文のような一つの観念として唱えられる。理念主義といってもよい。会議にもとづいて われわれは その自己学のうちに 理念をとらえたから この会議の以降は その出発・生活展開において その限りで 理念志向をもつと言ってもよいが この先行するものの認識概念たる理念を 後行するものに対して ただ先行するというだけではなく 優越するもの・支配をおよぼしうるものと錯覚するという理由によってか 強固に念観しそれじたいを強固な信念となしうる。これが 《自尊心》である。
後行するところの心理・感覚・ふんいき・ムード・あるいはまたモノ・さらには他人を 《所有》したいのである。自己そのもの( propre )としたいのである。《理念志向》の志向 理念志向主義 理念主義志向のことである。また すでに 二重会議であり 意志の具体たる意図において 跳躍・飛翔・すなわち狂気・転落が起こっている。
《自尊心は 相対的で人工的で 〔後行する領域としての〕社会のなかで生まれる感情にすぎず》とルウソは論じた。つまりまた情念をともなった信念にすぎずと考えられる。《相対的》というのは 後行する経験領域の相対的なそして社会的な心理が 先行する意志によって知解され しかも その先行意志(または信仰動態)そのものとして 見なされることを 意味しえており 錯覚・倒錯・跳躍にもとづく絶対的な信念とことだとも 理解しうる。
単なる心理・欲望が 基本関係の愛(《自己の愛》)で味付けされるのである。

  • 味付けする本体がではなく 味付けする付随物たる心理が 重要視される。
  • 転倒でもあるし しかもそのとき 本体たる自己ないしその愛は 必ずしも低く見られてしまうのではなく 空を翔ける天使のような理念としても 想い描かれ じっさい人は そこへ しなくともよい跳躍を敢行する

自尊心たる 愛の理念主義志向が 《また名誉の真の源なのである》というのは そのとおりであろう。ただ 理念主義志向とことわるのは 単に名声欲のなせるしわざなのではなく すでに理性がそうするのだということ――会議以降だということ――を見るためである。

  • 欲望の一人歩きなのではない。もしくは 空を翔ける理念への 自分の身体もろともの跳躍を ほかならぬ理性・精神がおこなったそのあと つまり精神の介入のあとの 欲望志向なのである
  • 精神の介入というのは 会議のことである。もしくは 一度は会議に触れたことである。 

ルウソの叙述の中の概念について もう少し吟味するならば。――自己愛と自尊心との《二つの情念》とかれは言っている。ルウソは 《自然》を大事にするから 基本関係の愛も ただ理性的に・だから観念論として 見なされることを嫌って それは 感性から遠ざけることを避けたのかも知れない。愛情とか欲求とか そしてましてや欲望とか情欲といえば その感性は 後行する経験心理をおもな内容として とらえられている。情念というのも 一般にそうである。ただし 感性とか感覚とか心とかいえば 後行する心理経験を いちおう中立の概念として とらえたものである。先行する基本関係の愛は 後行する心の動き(あるいはそれだけではなく 一般に社会的な行為)と 同時並行的にして 全体で 一個のわたしの社会的な主観動態をかたちづくっているものであるゆえ 《自己愛》も《一つの情念》という言い方をルウソは したのであろう。《自己愛は 自然の感情であって・・・》と言いかえている。
そしてまた この《自然》は とくに人間にあてはめて 自然本性としての存在のこと および ただ生まれたままの本性の状態であってはいけないとも考えられるとき やはり先行するものとして 会議しうる基本の主体存在のことだと 理解しておくことができる。
《人類愛と徳と》は あまり意味がない。わるいわけではなく それなら すでに 基本関係の自己愛に含まれている。基本の会議で 関係なのだから。とりわけ《徳》は 出発点の展開たる後行領域に注目して 言ったことばである。すなわち 先行する能力の だが 後行付随する信用である。また《人類愛》とか博愛心とかいうと 理念主義におちいりやすい。
スミスが 博愛心とか社会公共の利益のための心理とかをしりぞけ 自尊心とちがわないところの利己心を みとめたことは こんどは いくらか錯綜したかたちだがやはり同じく ルウソが自己愛を感情というごとく 利己心を 自己愛にもとづき出発するところの自尊心として 基本的に とらえたゆえである。理念はすでに見ているし 心理も排除されたわけではないのだから 理念や心理や感性を とらえ認めていることが ただちに 理念主義におちいるというわけではないという恰好である。
内田義彦が 《社会認識の歩み (岩波新書)》の〈第三章 歴史の登場――《スミスとルソー》――〉で そういった内容のことを 論じている。《スミスはルソーが批判した利己心を自己への関心( self-interest )という意味に拡げつつ 再び人間の普遍の本性として確認する》うんぬん。

  • スミスは もう少しあとまわしにする。

ただしわたしたちは 内田とややちがった観点から ルウソもスミスと それほどかけ離れていないと考えておく。なぜなら 自己愛を感情と言っているから。そうなると 自己愛は 自尊心を排斥するのではなく 用いるという考え方の線が出てくると思われる。
同じくスミスと関連する論点であるが 上の引用文でルウソは 《あわれみ pitié 》のことを言っている。ほかの書物では 《あわれみは快い。なぜなら 苦しんでいる人の立場に自分を置いてみながらも やっぱり実際にはその人のように苦しんでいないという喜びをわれわれは感じるからだ》(《エミール〈上〉 (岩波文庫) または教育について》4)などとも言い ルウソは確かに 少なからず自分で矛盾したことをのべている。
かれの《あわれみ》は もはや あわれむべきものではないだろうか。あるいは ただあわれんでおくべきものだろうか。ルウソに味方して いささか苦しい言い訳をおめにかけようとおもえば 先ほどの《情念》の問題――その位置づけ・表現としての用い方――とからませて つぎの文章を引用することができる。

それゆえ 情念の用い方における人間の知恵のすべてを要約すると次のようになる。第一 人類全体におけるまた個人における 人間の真の(基本の)関係を感じること。第二 この関係に従って 魂のすべての感情を秩序づけること。
エミール〈上〉 (岩波文庫) 4)

ここでなら 先ほどの自尊心的なあわれみ とはちがって つまり言いかえると 先ほどの引用文では 後行する経験心理の領域において われわれのしがらみたる自尊心は そういう利己的な心理経験としてはたらくことがありうるという事実をのべたまでだと もし おおめに見ることができるなら ここでなら あわれみは 結局 基本関係の愛またはそれとつながる感性と意識との動きであると いささか強引に ルウソに肩入れすることができる。つまり そうだとすると 会議は 単一であり その合意事項の確認がなされているのだと。
付録の取っかかりの議論として まず こういった一つの例証。なぜなら 政治・経済の論議は 基本の会議にもとづく生活態度において 人間学と 二つにして一つの実践だが どちらかといえば 人間学は 先行する主体存在に重きをおくし 経済学は 後行する社会経験の領域に深く入っていくから 後者の論議を 会議の問題としてあつかうときには そうとう複雑になることを覚悟しなければならないから。もちろん それを ここでの目的としなければ 会議の展開も始まらないほどであるが 先行領域での論議を 先行させることにも 一理ある。
このあと――つまり 時間的にではなく 原理的にこのあと―― 《第二 この〔基本の愛・自由意志の〕関係に従って 魂のすべての感情を秩序づけるこ》あるいは《経済活動を基礎にして 社会生活・共同自治をおこなっていくこと》という出発点の生活態度は われわれのものになる。
そして この《ものになる》というのが 自尊心では立ちゆかないと言っていたことと絡み合うから 《第一 人間の真の関係》は 歴史的な会議として 有効だが どこまでも有効だが それは 無力になりうる だから あわれみという概念と表現も おこりうるといったことを かさねて つけくわえておけばよいかと思う。
《ものになる・ものにする》ではいけないと言うかのようにルウソは この《第一 人間の真の関係》について かれなりの流儀で それを《感じること》と語った。ルウソは 人間をさらに超えた・そしてしかも人間が分有しうる神のことを 言っているのであるらしい(エミール〈上〉 (岩波文庫) 〈サヴワの助任司祭の信仰告白〉)。そして かれの叙述は きわめて自由奔放であって しばしば矛盾にみちていると言わなければならない。
ルウソはむしろ この序論を要約しようとおもえば 自己愛と自尊心とが混同されうるし されていると言っているのだということ すなわち 自己愛は 自己が自己であることを言うが その自己も 社会的に自分の中に自尊心の起こり来ることを知っている ただし この自尊心のほうは 自己が用いるべき経験心理であると言ったのだとすすんで解した。
気を持たせるような言い方になったかも知れずおそれるが 次の節では 会議にかんする一般的な説明 言いかえると 一般的な内容としてかんたんに会議の宣言を われわれはおこなう。
つづく→2006-01-12 - caguirofie060112