caguirofie

哲学いろいろ

#13

もくじ→2005-12-23 - caguirofie051223

§17

使用価値は使用また消費されることによってのみ実現される。使用価値は 富の社会的形態の如何になかわらず 富の素材的内容をなしている。われわれがこれから考察しようとしている社会形態においては 使用価値は同時に――交換価値の素材的な担い手をなしている。
交換価値は まず第一に量的な関係として すなわち ある種類の使用価値が他の種類の使用価値と交換される比率として すなわち 時とところにしたがって 絶えず変化する関係として現われる。したがって 交換価値は 何か偶然的なるもの 純粋に相対的なるものであって 商品に内在的な 固有の交換価値( valeur intrinsèque )というようなものは 一つの背理( contradictio in adjecto )のように思われる。われわれはこのことをもっと詳細に考察しよう。
資本論 1 (岩波文庫 白 125-1) Ⅰ・1・1・1)

わたしたちが一通り考察したところによると まず《欲望とは何ぞや》の問いに対して 《欲望は存在するものではない》である。わたしたちが 意志をもって生きているとき 具体的な意図を形成しなければならない場合 この意図形成(判断行為)に用いなければならない手つづき上の要素としての心理・意識 これが 欲望であり これを意図が 自分の中に組み込めば 信号であるものとなる。
すなわち この意味で 欲望は 使用価値である。そのきっかけとなるものである。使用・消費したいという価値の内容そのもの その価値の対象(物体またはサーヴィス行為) そして どういう価値・どれだけの価値として捉えているかその継続過程的な判断行為 これらが 意図とその信号とに含まれる。
つまり 欲望は 存在していない。感性そのものは 活動している。この感性は 意図形成のきっかけであり これを 欲望というか言わないかの問題である。価値判断の内容そのものは 交換を前提しているならば 《ある種類の使用価値が他の種類の使用価値と交換される比率》で 表わされる。そういう主観相互間の 交通における同意成立の形式をもつ。信号で互いに同意しあった交換の比率は 記号であり とくに数量化されうる。その生産に要した労働についてみれば 時間が そして生産物そのものについてみれば 長さ・重さの量が 記号の便宜的な計測単位に使われ 便利なようである。
ここで 欲望はほとんど存在していないと言ってよく しかも 使用価値は行方不明となったわけではない。信号は 使用価値をつねに ともなっており 交換の記号となっても それは使用価値が 自己を実現するための 主体間の約束事であるにすぎない。
ここで 《交換価値は 何か偶然的なるもの 純粋に相対的なるもの》であるが 基本的に関係しあう主体どうしが 交通を必然的に持って――この分業の発展とともに―― 交換をつねに反復しておこなうようになると つまり なるから 交換価値は 社会的に定着した約束事となる。その意味で必然的な交通の規則となる。
使用価値は交換価値をともなうべきものとして 信号は記号を持ちまた記号(つまり特にその数量性)にもとづいて発せられるべきものとして 社会の常識となる。そのような一段階としての 商品の生産および消費にかんする社会的な形態。
欲望はほとんど存在していないが 信号を構成する要素としての心理・意識のかたちで しばしばやはり顔を出す。こんどは 記号を欲しがるわけである。そのために商品を生産したいと 申し出る。
ここで 会議がひらかれた。《欲望とは何ぞや》。交換価値たる記号そのものが 使用価値となりうるか。なりえないし 欲望は存在しないものである。ゆえに 意志と意図およびそれの互いの合意は 自由であると宣言された。商品記号を得るための はたらくことが そしてうまく交換することが 自由意志のもとに 基本的に 妨げられるものではないと 考えられた。ゆえに 走る人も現われた。
走りたい人は 走ったわけである。使用価値の交換価値への あるいはむしろ 交換価値じたいが使用価値でありたいということへの 跳躍もありえた。記号が信号に取って代わるかのごとくとなりえた。商品記号がみづから信号を発するという跳躍が 可能であった。
悪貨が良貨を駆逐したのか あるいは 最終の(基本的な)使用価値が 社会的に普及することを 急いで促したいと意図したのか(――つまり 人口に応じたところの大量生産) あるいは この跳躍があまりにも甘美であって流行となったのか あるいは単純に 記号の蓄積が 最終的な使用価値の所有を 合理的に考えて(=長期的にみれば) 促進するという意図をもって 進んだのか。
会議は 自由な意志のもとにおける勤勉を確認しあった。あとは知らないわけである。ガリ勉への跳躍は 自由つまり それの前提としての自由を確認しあった上で それに関知しないとした。前提――すなわち 出発点の生活態度の相互の確認――に立つならば 使用価値は行方不明とならずに 交通関係が推移していくと考えた。
じっさい それにまちがいはない。秘密の跳躍をおこなう人びとも まちがいを犯したわけではない。その《歴史は 血と火の文字をもって 人類の記録に書きこまれているのである》(Ⅰ・7・24・1)が そして 会議の基本的な合意事項に違反した意志と意図とは 無効であって 長くあるいはただちに 糾弾されるものであるが 跳躍の秘密は そういう秘密が根っから好きである。ひそかに気が狂ったように楽しむというものであるから われわれは かれらに対して 会議の出発点への復帰を想起せしめることができるが それ以上のことをおこなうことは出来ない。
そして会議が出発点であったのならば その限りで 合法的なのである。跳躍者たちも まちがいを犯したわけではない。使用価値は 行方不明になったのではなく 秘密の倉庫に一たんしまいこまれただけである。《社会的資本は 労働力のものであり 労働報酬にのみ 一般に 支出される》という 抽象的なものであったとしても使用価値の行方の問題(記号3)。
わたしたちが 会議の再確認をして肝に銘じなければならないことは その合意事項たる勤勉からガリ勉へ跳躍することに対して あたかもこの会議の地点からいまただちに飛翔して なじったりまた軽蔑して無関心になったりすることではなく 使用価値の交通関係 信号の関係過程への商品記号の組み入れと配置 そういう会議の取り決めの再展開である。出発点の生活態度の再確立である。
跳躍した商品記号の秘密の倉庫は 交換価値の独立王国を 社会から離れて 築いたわけではないから わたしたちも 自分たちの社会(基本主体の生活関係)を その秘密の王国ではある倉庫に対して鎖国政策をとって 別個の出発点の王国として作り直そうというわけには行かない。そんなことは おもしろくない。というよりも むしろ このような自由な意志による譲歩は もともと会議での合意事項であった。
走りたい人は 出発点の前提を守った上で 好きなようにさせたのである。その秘密の倉庫での楽しみをうばうことが われわれの目的ではない。われわれに 欲望は存在しないのである。
と一気に 出発点の生活態度を確認することができる。これは 経済学の踏み出しの地点でもあると考える。もっとも この会議も 歴史相対的なものである――いわゆる近代市民の出発点である――と つけくわえなければならないかも知れない。
つまり あたらしい出発点をとりきめあう新しい会議をおこそうとすることも 自由である。ただ そのときにも いま現代の一つの起源であるこの近代市民たちの会議を吟味しあていくことから 再出発なら再出発が 始められるものであろうと考える。

§18

ここでわれわれは 場違いの議論をさしはさもう。場違いというのは 表現形態が古いかも知れないという意味である。そして それは われわれの言う先行するもの(知解と意志と記憶の三行為能力 その一つの精神=身体)がこの世で無力にされてありうること または この先行するものを想起させようとしても 無力でありうることを 物語っている。

  • §15からのこの《補論》は 前節§17でいちおう終えたとみなして・・・。

神の愛については聖書の中に多くの証言が見出される。そこでは当然二つのことが理解される。なぜなら 誰も自分が想起しないもの また全く知らないものは愛さないからである。そこで 周知の第一戒《あなたの主なる神を愛せよ》(申命記6:5)がある。かくして 人間の精神は自己を決して想起しないことはなく また自己を知解しないことがなく さらに自己を愛さないことがないように造られたのである。
しかし 或る人を憎む(――《憎む》は 欲望の問題である。・・・引用者――)人は彼に損傷を加えようと努めるのであるから 人間の精神は自己に損傷を与えるとき 自己を憎むと言われるのは不適当ではない。精神は知らずして自らに悪をなすことを欲しており 自分が欲しているものが自分にとって有害であると思わない。しかも精神が自らに有害であることを欲しているとき 自らに悪をなすことを欲しているのである。そこで 《邪曲(よこしま)を愛する人は自分の魂を憎む》(詩篇10:6)と記されているのである。
だから 自己を愛していることを知っている人は神を愛するのである。その反対に 神を愛さない人は たとい自己を愛しても――それは本性的に彼に与えられているのであるが――自らに背離することをなし 自らを いわば自らの敵であるかのごとく迫害するのであるから 自らを憎んでいるのだということは不適当ではない。たしかに すべての人は自己に益することを欲するが 多くの人は自分たちに極めて有害であるものの他 何もなさないということは確かに畏るべき誤謬である。・・・

  • この限りで 秘密の跳躍をもつ人は 自分自身にたいして まちがいを犯しているのだということは 不適当ではない。

けれども 精神が神を愛し また 私が語ったように必然的に神を記憶し さらに神を知解するとき 隣人を自らのように愛しなければならないという戒めが正当にも課せられるのである。実に 精神は神を愛するとき もはや自らを邪曲に愛することなく愛するのである。神に関与することによって あの似像(人間)は存在するだけではなく その老化から更新され その醜さから浄福にされるのである。
もしも二者択一が提出されるなら 精神は自らよりも少なく愛するすべてのものを失う方を自らが滅びるよりも選ぶように自らを愛するのであるが しかも 精神はそのお方を自らの光として愛し得る その優れたお方を棄てることによって――《詩編 (現代聖書注解―インタープリテイション・シリーズ)》はそのお方に向って 《汝によってわが力を守らん》(58:10)と歌う―― 無力となり暗黒にされたのである。
精神は自らでないもの 自らより低いものの中へ克服し得ない情愛によって

  • 使用価値ではないものの記号への欲望・心理あるいはむしろその記号にまつわる理念とその念観という情愛によって

またそこから戻る道を見いださない誤謬によって不幸にも転落(――あるいは 跳躍――)したのである。それで 精神はあわれみたまう神によって悔悛しつつ《詩編 (現代聖書注解―インタープリテイション・シリーズ)》の中で叫ぶ。《わが力は我を捨て去り わが眼の光は我と共になし》(37:11)と。

それにもかかわらず これほどの弱さと誤謬という悪においても 精神は自らの本性的な(先行する)記憶と知解と愛を失い得なかったのである。

  • 使用価値は必ずしも行方不明になっておらず 会議の精神はつづいている。

それゆえ 私がさきに語って思い出させたことを《詩編 (現代聖書注解―インタープリテイション・シリーズ)》記者はふさわしく語り得た。《人間は似像(先行するものという似すがた)において歩むが しかも虚しく不安にされている。人間は蓄えるが 誰のために収め集めるのか知らない》(詩編38:6)。彼の力が彼を棄てた――彼はこの力によって神を持つとき 乏しいことはない(詩編23:1)――からでなければ なぜ彼は蓄えるのであろうか。また彼の眼の光が彼と共にないからでなければ なぜ 誰もために収め集めるのか知らないであろうか。それゆえ 真理なるお方が 《愚かな者よ 今宵にも汝の魂を汝から取り去るであろう。汝の備えしものは誰の有(もの)になろうか》(日本語対訳ギリシア語新約聖書〈3〉 ルカによる福音書12:20)と言われることを見ないのである。それにも拘らず このような人間も似像において歩み 人間の精神は自らの記憶と知解と愛を持つゆえに もし二つのものを同時に持つことが出来ず 二つのもののうちから一つを選び取ることは許されるが他方は失せること またそれが集めた財宝か精神かであることが明示されたなら 誰が精神よりも財宝を持つことを好むほどに愚かであろうか。・・・
しかし私は財宝について 或る人が選択を迫られたとき 精神が欠如することよりも財宝が欠如する方を選ぶということを どうして語らなければならないだろうか。誰も財宝を身体の光よりも好まないし 誰も財宝を身体の光に比較しない。身体の光によって僅かな人間が金を所有するようにではなく すべての人間が天を所有するのである。・・・
アウグスティヌスアウグスティヌス三位一体論 14・14〔18−19〕)

ゆえに 《わたしは自由である》は 先行するし 先行する領域でつねにわれわれは言っているし聞いている しかもこれは 無力になることができた。というのも つづいてアウグスティヌスがここで 《以上のことを私が語ったのは この書物が眼に触れ耳に聞える理解力の鈍い人々にさえ 簡潔にではあるが 精神は自分よりも低位のものを悪しき仕方で愛し追求するとき無力になり誤りつつも どれほど自分を愛しているか ということに気づかせるためである》(同上)と語るゆえである。
また これによって その議論の場違いと古さとは 消えるであろう。また わたしは 決して 《より高級な動機》を 自分の筆の及ばなさから それを導入するという結果にはなったであろうが それに訴えようと意図したのではない。そして 会議は その出発点から 跳躍する人びとと持ちつつも 有効である。という歴史経験的なことに 触れたかっただけである。つまり 引用文の内容は ほとんど あたりまえのふつうの生活態度を語っているものであるだろう。しかも《しかし今 精神なる似像(つまり人間)が自己自身を見るときは或る不変的なものを見るのではない》(同上)という会議の有効性のあり方と度合い(つまり限界)とを知るためである。
だから 生活態度の出発点において また経済学の踏み出しの地点として

それゆえ この《詩編 (現代聖書注解―インタープリテイション・シリーズ)》の文章は意味を違えないで 置き換えて真実に表現され得る。つまり 《人間は似像において歩こうとも しかも虚しく不安にされる》と言う代わりに 《人間は虚しく不安にされるが しかも似像(先行する力 自由な労働者)において歩く》とも言い得る。
アウグスティヌス三位一体論 14・4〔6〕)

まだ われわれは一歩も踏み出してはいないけれど これがわれわれの出発点の経済学である。

魂は本性の最高の本性ではないから 偉大な本性ではあるが 損傷を受けたのである。それは最高の本性ではないから 損傷を受けたが しかも最高の本性を受けいれ それに関与し得るゆえに 偉大な本性である。
(同上)

最高の本性は 意図の王国(何か 治外法権をもったような自由の領域)のことではないと 考えられた。これは 出発点じたいの出発点である。
分野としていえば 人間学であるが 経済学という実践の出発点でもある。損傷を受けた精神がその損傷をいやされること われわれが関知しないところの精神の跳躍という密会・これによって欺かれ しかも欺かれたならわたしは存在するという自立の会議 このことは とうぜん 先行するものの領域でおこる マルクスとて同じことを言おうとしている そして経済学としても その経済学という実践のうち やはり先行するものの領域(しいて言えば 人間学の実践)で 出発点に立ち 踏み出していくものと 考えざるをえない。
この井戸端会議をわれわれは無限に――自己を自乗しつつ――語りついでいく。ここでなら われわれの力の団結を語ってもよいであろう。けれども 井戸端会議が その先行性において すでに連帯を予表していなかったなら 他のどんな恰好でも 語りはしないであろう。
わたしがこれを語ったので人びとのこころには憂いがみちているというかのごとくであるか。けれども 憂いなどの心理そして欲望の方面のことどもをこえていないのなら 人びとは これに同意せず 憂いなど持たなかったであろう。《何故なら 誰も自分が想起しないもの また全く知らないものは愛さない(意志しない)からである》。
つづく→2006-01-05 - caguirofie060105