caguirofie

哲学いろいろ

#10

もくじ→2005-12-23 - caguirofie051223

§13

マルクスは言う。

アダム・スミスは 根本的に間違った分析によって 各個別資本は 不変的構成部分(生産手段)と可変的構成部分(労働力)とに分割されるが 社会的資本(――社会的資本――)は可変資本のみに解消される すなわち 労働賃銀の支払いにのみ支出される という不条理な結論に到達する。
資本論 1 (岩波文庫 白 125-1) Ⅰ・7・22・2)

これに もし異論をとなえようとおもえば スミスの分析がどうであろうとも 社会的資本は労働力によってなるものであって その人間に属するという 跳躍点でのはじめの意図の自由領域の側面 これが 先行するものとして つねに 存在すると見ようとしたものである。
長期的に見てなどという視点が付け加わると見なければならないかも知れないが 必ずしも そうではない。《もし異論をとなえようとおもえば》という意味が この《先行する自由意志の領域》を 自己運動となるかのような研究の持続という意図の世界で・意図の世界として 叙述されることをきらうということにあるからである。資本とかその運動法則とかいうものは やはり 鉄の必然たる主体であるかに見えても 客体だ・つまり人間の行為事実のほうに属すると言うわれわれの弱い意図を示している。また 《完全に商品それ自体になったすべての人間を 生産の全時間において 自分の物にした 財産所有者である資本家》に むしろこのような弱い意図の 自由裁量の余地がないのだとしたら われわれは すべからく だまって 経済運動の法則の行き着くところまで行き着くにまかせていればよいのである。
この弱い意図の内容は そして じっさい マルクスのものなのである。跳躍点からの歴史的な発展過程は 未来社会に 商品生産として労働をおこなうことのなくてもよいようになるといった形で 言うのではなく ただいまの一時点ごとに その意図を先行するものとして つねに持っている。無力の意図を持っている。これでは なんにもならないのではあるが 意図をしめくくることができる。そうして 《かの必然の領域を基礎(基本主体に対する生活基礎)としてのみ 開花しうる》という表明の意図が 時間過程の中で過程ごとに――労働時間の短縮ならそれとして問題点ごとに―― 完結する。わたしたちは こういうふうに 生きている。
ちなみに 《新編輯版 ドイツ・イデオロギー (ワイド版岩波文庫)》では 次のように述べてあった。

共産主義はわれわれにとっては つくりださるべき一つの状態 現実が基準としなければならない一つの理想ではない。われわれが共産主義とよぶのは いまの状態を廃棄するところの現実的な運動である。この運動の諸条件はいま現存する前提から生まれてくる。
ところでただの労働者たちの大衆――大量的に資本からきりはなされ またはどんなつましい満足からもきりはなされている労働者勢力――は したがってまた一つの保証された生活源泉としてのこの労働そのもののもはや一時的ではない喪失は 競争をつうじて 世界市場を前提する。だからプロレタリアートはただ世界史的にのみ存在することができ おなじくかれらの行動である共産主義も一般にただ《世界史的》存在としてのみ現存することができる。諸個人の世界史的存在とは 直接に世界史とむすびついているところの諸個人の存在である。
新編輯版 ドイツ・イデオロギー (ワイド版岩波文庫) p.71・75;古在訳書p.48)

《実際 アダム・スミスは ちょうど研究の困難が始まるところで 研究を打ち切っている》(Ⅰ・7・22・2)とするなら マルクスは 生活の困難が始まるところで そこに しかしながら 保持している(留保して保持している)意図を 研究の自己運動という意図の王国の中に持続させて あてどなく言葉を走り廻らせる。《ドイツ・イデオロギー》の上の引用文では 意図の締めくくりがうかがえると考えるのだが。資本論では 読者が眠くなったところで はじめの意図を確認する。それが 意図の王国のためなら あてどなくである。強力な意図。
わたしたちは 意図の王国――意志の先行する自由領域 愛の王国――の存在を否定するものではないが わたしが愛の王なのではない。意志の巨人であって――それはつまり 人間なのだから――よいかも知れないが この巨人であることは 生活の困難が始まるところで この必然の領域を基礎としてのみ 開花して現われうる。そして なおかつ 《意図の》巨人である必要はない。いや これまた そうでありうるものかも知れないのだが 意図(意志の具体 =意思)というときには たといその持続があって 連続性として把握また実践されるものであっても 一時点ごと・一件ごとに完結するものである。一条件の期間の長さは問題ではないから 意図が それ自身で 連続(連綿・連列)するのは よくない。ためにする価値増殖ではないとしても 意図は一回きりである。

  • つまり 文学の問題。

もし 意志の領域で ということは 知解能力および記憶能力を含めて 精神の領域で また そういうよりも 《自己・わたくし》という存在にかんして いえば それは 時間的な存在だから 持続する。意志の自由は あたかも自己運動する。しかし これとても このばあいは 意志ないし《わたし》の自乗過程なのであって 存在が数的に《一》なら どこまでも《一》の動態過程であるしかない。
わたしの《自己還帰》というのは この自己の自乗をどこまでもおこなって その連乗積(冪=べき=power。積は product という)となる主観の動態なのである。マルクスは これを叙述をとおして 見させているようであるが ほんとうには 何も見せたことにはならない。まだ 見本である。
人間が 自己の労働の生産物を すなわち品物の使用価値を 互いに交換しあって便宜を図ろうというとき 人間労働の等一性なる理念(理念は 先行する精神のものである。むろん 後行の客体条件と 区別はされるが 切り離されたわけではない)のもとに 交換価値・だからたとえば 労働時間という単位基準を見いだし設定しあった この商品の流通は この商品のために労働をおこなうという理念の観念化 つまり交換価値(単純に貨幣という大いなるもの)の念観による合理主義の呪文によってこそ労働をおこなうという自己目的を見いださせた かくて商品生産のもとに 価値が資本とせしめられて自己増殖をおこなうという生産形態が出来上がることが 可能であった あの跳躍点でのこの密約が 社会的に展開されていくと 労働力すなわち人間じしんが そこで 一個の商品となる事態をも将来したと考えられる。
このような跳躍点の発展形態――資本主義的な生産様式の社会――に対して 科学的な研究をおこなって批判するのは じっさい 具体個別的な改善を要請するという意図を措くとするなら 結局マルクスは 自己の先行する意志の自由領域 そして後行する必然領域との関係をとらえた自己の主観動態 これらへの還帰を さけんでいることにほかならない。

労働力の買いと売りと〔いう事態が生じたのである〕が その柵の内で行なわれている流通または商品交換の部面は 実際において天賦人権の真の花園(エデン)であった。

  • 跳躍点が そういう人間の同意から成るという性格をもっていた。

ここにもっぱら行なわれることは 自由 平等 財産 およびベンサムである。自由! なんとなれば 一商品 たとえば労働力の買い手と売り手は その自由なる意志によってのみ規定されるから。彼らは自由なる 法的に対等の人として契約する。契約は 彼らの意志が共通の法表現となることを示す 終局の結果である。平等! なんとなれば 彼らは ただ商品所有者としてのみ相互に相関係し合い 等価と等価とを交換するからである。ベンサム! なんとなれば 両当事者のいずれも ただ自分のことにかかわるのみであるからである。彼らを一緒にし 一つの関係に結びつける唯一の力は 彼らの利己 彼らの特殊利益 彼らの私的利益の力だけである。そしてまさにこのように各人が自分のことにかかわらないというのであるから すべての人々は 事物の予定調和の力で あるいは万事を心得た神の摂理のおかげで はじめて彼らのお互いの利益 共通利益 総利益のために働くことになるのである。
(Ⅰ・2・4・3)

この皮肉は 研究の意図をしめくくろうとおもえば あるいは締めくくらなくとも はじめの研究の目的からして 《現存するものの肯定的な理解とその否定の理解との〈同時性〉》を言わなければならないか 言ったか どちらかとして読まなければならない。二つの理解の同時性は もしこのような研究の成果が意図の王国をきずきそれを見させようとするものでないとするならば 意志の自由領域の そこにある先行性を言ったまでである。
皮肉の成功は 笑いを生じさせるが その笑いの健康は 自由意志の先行性を証しているものにすぎない。笑いだけでは 意図はしめくくられない。むしろ 自己運動の世界へ招く。
功利主義ないし利己心について ベンサムが取り上げられていて スミスが現われないとしたなら スミスは 利己心に対しても 先行する愛のもとに譲歩して この利己心を認めたのにすぎない。譲歩というとき 無力となるということを含む。《彼らの利己 彼らの特殊利益 彼らの私的利益の力だけが 彼らを一緒にし 一つの関係に結びつける唯一の力である》というばあいにも それが 跳躍点からの展開であることを 前提している。たしかに そこでの 自由意志の先行性とこれにもとづく跳躍あるいは発進への同意が あった。これを抜きにして 議論することは出来ない。
マルクスもそんなことは していない。先行するものの存在が 基本的に前提されているのなら 人間はそれ以外のかたちでこの地上に生きることはないのであるから 《共通利益 総利益》の視点としては 《みえざる手に導かれて》という表現をとることは 可能であり 個別具体的な政策意図を別とすれば むしろ ふさわしかった。ただし この《万事を心得た神の摂理のおかげで 彼らのお互いの利益 共通利益 総利益〈のために〉はたらくこと〈になる〉のである》ことと 個人的な主観の意図として《そのために》はたらくこととは 別である。後者を スミスは 言っていない。むしろ いましめている。
ということは スミスは《みえざる手に導かれる》ことを主観の意図とせよと言ったのでもなければ 《万事を心得た神の摂理》を理念とし観念としまた念観して その《おかげ》を呪文として唱えよとは どこにも 言っていない。
スミスも マルクスと同じように 先行領域の問題を保持した主観の動態を それに還帰して のべたまでである。
《彼らを一緒にし 一つの関係に結びつける唯一の力は 彼らの利己 彼らの特殊利益 彼らの私的利益の力だけである》というのは それがいかに鉄の必然性をもった運動法則であったとしても 後行する自然必然の経験行為にのみ限る。そして のみ限られたこの場で はじめの跳躍点の再展開・再々編成を含みえて われわれは自由に そして具体的な一回ごと・一件ごとの意図をもって すすむことができる。《万事を心得た神の摂理のおかげで》そこに 矛盾・対立展開が用意されている。生活が困難でなかったなら 少なくとも生きることがまったく順調にいくものであったなら こんな議論は必要なかったし 人びとは あの跳躍点での会議をも ひらかなかったであろう。
この人類の会議とも言うべき跳躍点からの展開として 《かくれた生産の場所 その入り口には 〈無用の者入るべからず〉と書いてある》(同上=Ⅰ・2・4・3)そうで 生活の困難が始まるところで 門がひらかれ 《貨殖の秘密も ついに明るみに出ざるをえない》(同上)と同時に 密約の部分での跳躍の不可避という強迫観念も やがて――というよりは 今。なぜなら 強迫観念という今における認識は すでにだれもが それの解放をねがっている―― 自由の開花への跳躍点であったと わかっていることであろう。
もちろん それでも 用心深い人びともいるわけだから わたしたちは 無用の者としてではなく あたかもスミスのように 経済法則を利用して 利己にも訴えていけばよい。
マルクスが 経済運動の法則そのものを明らかにすることを 長編の《資本》論として研究し遺したことは むしろわれわれの心理的な強迫観念の解消をねらったものであったかも知れない。すなわち 後行する経験必然の領域からくる心理 これはすでに主観の内にあるものであるが それにも先行する意志の自由領域を まずは 動態過程として 明らかにして示そうとつとめた。すなわちすでに人類は 歴史的に 偉大な跳躍の一歩を踏み出して来ていると。
つづく→2006-01-02 - caguirofie060102