caguirofie

哲学いろいろ

#9

もくじ→2005-12-23 - caguirofie051223

§12

わたしの物言いは 一般に きみの言っていることは正しいが 言い方がちょっとよくないといったパタンにしかならないが しかも この場合 言い方もわるくない ただ それが 締めくくられていないのではないか というものである。
意図がはっきりしていて しかも はっきりしたかたちで 後方の神秘的な領域へ しりぞいていくといったのは ちょうどゴヤの絵の《巨人》のように 読者には その意図が映るということである。研究の成果が巨人であることを なじったわけではない。意図そのものの領域で 《資本》論として研究しつづけきろうとした そのことが わたしには うらやましいのである。しかし 批判としていえば その行き方は まちがいだと思う。なにか 著書の背後に 一個の 治外法権をもって国を かたちづくったかのように 映る。《資本》論が かれにとって 飛翔点になったうたがいが ある。この変な物言いを もう少しつづけよう。

人間生活の諸形態にかんする思索 したがってまたその科学的分析は 一般に現実の発展とは対立した途を進む。このような思索は post festum (後から)始まり したがって 発展過程の完成した成果とともに始まる。労働生産物に商品の刻印を捺し したがって 商品流通の前提となっている形態が すでに社会生活の自然形態の固定性をもつようになってはじめて 人間は 彼らがむしろすでに不変であると考えている このような諸形態の歴史的性質についてでなく それらの形態の内包しているものについて 考察をめぐらすようになる。
資本論 1 (岩波文庫 白 125-1) Ⅰ・1・1・4)

《人間生活の諸形態の歴史的性質について考察をめぐらし》たものは 労働が商品生産労働に転化するという跳躍点にかんする思索であり科学的分析である。労働生産物に捺された商品の刻印から始まって 価格・流通・貨幣あるいは需要と供給とかなどなど 生活形態の内包しているものについて考察をめぐらしたのは 経済学であり これらは あとから( post festum )来るということらしい。
跳躍点でのはじめの意図のはたらきは 《その各種の生産物を 相互に交換において価値として等しいと置くことによって そのちがった労働を 相互に人間労働として等しいと置くのである》(§11)。これが 《跳》であるとすると 《躍》は この等価交換のゆえに 労働(時間行為)の等一性・等価性のゆえに その価値の理念――けっきょくは その単位基準を数量的にとって 金や銀ないし貨幣で表わすようになった――を念観することによって この交換価値の獲得のために労働するという一面が 優勢的に 加わった。価値の増殖は その幾何学的な理念の限りで 価値じたいが主体となって無限の運動をする自己増殖の過程をとりかねないというものであった。資本のこの法則が 社会的に展開され一定の完成した段階に入ると 経済学が これをむしろすでに不変であると考えて それらの内包するものについて 思索をあたえるようになったと。
だが もし このおおざっぱな理解で いちおう事が足りるとするならば すでに跳躍点の秘密も  闡明にされている。経済学批判は 人間学をまじえて その意図をひととおり締めくくるがごとく 終えられている。人間の法則をさらに深く研究していくとともに 近代市民の経済学を さらに再形成していけばよい。そういう《資本》論が むずかしいか易しいかを別として あたらしい科学である。
いわゆる社会民主主義の考え方では あたらしい科学およびあたらしい社会へ向けて進むというとき すでに政治経済的な施策としてその生みの苦しみをやわらげようとする方面で そのまま 自己の人間学を固めることにもとづくものと思われる。そうではないはず つまり基本的にいえば それでは いけないはず――なぜなら 跳躍点のあと もはやその跳躍点の秘密をにぎったことをよいことにして これを武器とする・すなわち 保守の側の私利という復讐の女神を挑発することを うまくかわし これをよけながら 跳躍点の新しい回転を 俟っている すなわち 自己の自立を 他人事みたいに 待っているから――だが その 自分ごととした自立を 跳躍点での意図の秘密が明らかにされた意図の世界で(つまり いってみれば一たん自首した意図の世界で 神妙になり) あたらしい科学があるのだよと・あたらしい社会がくるのだよと 説き明かしつづけることも 実は理念による停滞なのである。
そして 理念による意図の世界での自己運動――それが あたらしい社会科学の任務だと考えられている――という停滞に 陥らないとすれば つまり実際 おちいらないようにつとめるはずであり そのときには おそらく具体的な政策としては うえの社会民主主義の考え方から来る政策と 少なからず重なる部分を持つことになるし これとしては そのつど そうであるしかない部面もあるはずだ。
ということは われわれが基本的に考えて取らなければならない道は 跳躍点での意図のあやまりに対して 自首することもさることながら 自首した人びとが まだの人たちに対して 同じく自首を強要することはできないのだから 自首した上で どういう意図をもって――その意図の再形成は 人間学の仕事である―― 経済学の再形成と研究と施策の提言をしていくかという やはり当然のことにおちつくと思われる。
マルクスは そう落ち着くであろうという主張の意図をもって これをはっきりさせながら しかも しめくくらない。まだ その先に むずかしい世界があるかのように 長い研究をのこした。先行するものの世界として あたかも意図の王国を わざと描いたのではないが 人びとに見させようという意図を 結果的に持った のではないか。つねに 本陣には わたしが控えているよと語りかけたのである。
必然の王国と自由の王国(Ⅲ・7・48〔三位一体の定式〕)とは 経済学と人間学との二つにして一つの実践 その出発点の問題 なんなら跳躍点における意図と設計図との問題に 還元されると言っても言い過ぎではない。もっとも この点は マルクス自身 そう言っていると思われる。マルクスに非がなく読者のマルクス紹介に非が 一部に あったという批判に終わらせないためには マルクス自身にも 非があったと 言えないものではないというのが ここでの一論点である。
マルクスが ひとこと しめくくるべきであった。すなわち その叙述の背後に 意図の王国などなく あとは 《倒錯していても 社会的に妥当した したがって客観的である思惟形態》としてのブルジョワ的経済学を 再形成していこうと ひとこと。
意図――つまり基本的には 自由な意志――は 先行するものだから その限りで 欺かれるならわたしは存在するゆえ 自首のあとも つねに それとして ひかえていることに まちがいはない。ところが 意志の自由の先行性は 時間的なものではないゆえに そのゆえにこそ 後行の経験領域とその意味で一体となった時間的・歴史的な過程をやはり 歩む。《自己目的として行為しうる人間の力の発展が 真の自由の国が といってもかの必然性の国をその基礎として そのうえにのみ開花しうる自由の国が 始まる》(Ⅲ・7・48)ということは 跳躍点からの資本主義的生産様式の発展段階のどの過程においても そうである。だから わざわざ自供を書きつらねて まだ罪はないか まだ倒錯はないかと 悶々としてあるいは汲々として 生きる必要はないどころか それではいけないのであって それとともに この自供の必要がないことを言うために 意志の存在を 意志の王国として見させきるようにして 長編の弁明を書きつらねなければならないこともない。
机がその木頭から狂想を展開し 商品価値として一人歩きするからといって 不思議がることはないと元気づけるもっぱらの商品生産者としての指導者たちに対抗して かれらもやがて自首するようになる――必然的に没落する――という道筋を わざわざはっきり科学的に示そうとすることによって 画策することもない。逆である。
自立したゆえに 科学するのである。マルクスは 自立して科学もおこなうと同時に 意図を はっきりさせたかたちでだが 最後まで延ばしに延ばして 拡大再生産の様式を編み出したかに見える。これは 《強い》方法である。われわれは 弱いゆえに 自立して そのつど 意志を保持し 意図を明らかにし またそのまちがいをあらためてゆく。

とにかく賃労働者は 一方では所有者として自由な主体だけれども 他方 売却するものもやはり自分なのでありますから その意味で自分自身が商品そのものになっている。そして この商品の唯一の買手は資本家です。資本家に買いとられて 資本家のものとなったところで 生産過程が始まる。機械とか原料とかといったものが資本家のものであると同じように 工場の中では 労働者は資本家のものとして 資本家の所有に属する。賃銀は労働者のもの 労働力は資本家のもの。これが契約の中味であります。そして その《物》としての人間を 機械や原料とともにいかに合理的に使うかに資本主義という軸の上での合理化があります。
そこで 資本制的生産様式が発展し 社会が合理的=近代的になってくるに従って ―― 一方で 工場の外では 人間は自由な所有者であってペコペコ頭を下げる必要はないということが常識となってくるのに平行して ――職場の中では人間は物=人的資源であるという常識がますます強まってくる。

  • ただし こういう心理や考え方は 常識とは言わない。言っても 狂気のものであり精神錯乱は 無効である。・・・引用者。

果ては常識ともいえないくらい自然的な事実として受けとられる。そうした上で その《物》としての人間の諸群を 生産に必要な使用価値の諸群として いかに無駄なく 効果的に利用するかという技術が発展して参ります。古い工場や職場と 近代的工場を比較してごらんになると このことはよくのみこんでいただけるかとおもいます。
きのうは 商品の論理が貫徹するということは労働力の所有者が労働力に対する完全な処分能力をもつということと平行していると申し上げましたが メダルの裏の方に着目しますと 商品の論理が貫徹するということは 人間がますます完全に商品それ自体になるということにほかなりません。
というわけで 資本主義社会は 一方で人間を商品の所有者として自由な主体とすると同時に 他方では その広がりからみてもその深さからみても すべての人間が完全に――生産手段を失って――商品それ自体になり そして ――生産過程に着目しますと――生産の全時間において完全に財産所有者である資本家の物になってくる。こういう二つの側面をもっております。
(内田義彦:資本論の世界 (岩波新書) Ⅲ。1966)

これが 《強い》方法だとおもいます。《弱い》われわれは しかし うらやましくなって 《そこで報告しているのは内田さん自身のことであるのでもないのか。〈経済的範疇の人格化〉たる人間について言っているのだからとしても じっさい ふつうの人間が貶められているように感じられるし あるいは そんな感覚では反論にならないというのなら これは 確かに経済的範疇の人格化としての資本家市民の頭のなかの 意図と論理とをとらえ もって来て 説明に使っていると思われるのだが そうだとすれば そこで <自由人>の意図の世界とその強さを示してもらったけれど これは じっさい 治外法権をもつなどということは出来ない ゆえに この意図で突っ走ることも いやだし出来るものではない》と言って 泣きべそをかくのである。それとも 《資本論の世界》を敬遠するようになるでしょう。
つまり 内田氏の理論をちっとも批判したことにならないのだが あえて理論的に一点を批判しようとおもうなら 《資本主義社会が 人間を商品の所有者として自由な主体とした》のではない。微妙に詭弁のように言うのだが 封建社会での生活の立ち場を失わされて 人間は《自由》になった。すなわち無一文になるという解放を味わわされ 意志の自由を突きつけられ これによって 自己の能力しか持たないという自由な主体であることを自覚せざるを得ず そうして 《その労働力という商品の所有者として自由な主体となることを はじめの意図において えらんだ》のである。もちろん えらばざるを得なかったのであり そのことは 《資本主義社会が》そうせしめたと言うことはできる。ただ わたしの論点は 跳躍点か屈辱点か知らないが この意図は 自由な意志にもとづくものであったのだから その後 《人間が完全に商品それ自体になる》ことは そして さらに譲歩していうとすれば 《生産の全過程において完全に財産所有者である資本家の物になってくる》ということさえ これらは 決して《二つの側面》なのではなく はじめの一つの意図の発進からつづいていることなのである。
なぜなら 《資本主義社会が 人間を商品の所有者として自由な主体とした》のではなく 人間は先行する意志と知解とにおいてもともと自由であって これに還帰し あの跳躍点において 少なくとも資本志向の(勤勉志向の)社会生活をえらびとった これだけである。起源の問題としてである。
《二つの側面》というなら 資本志向の社会あるいはそれの自己目的化した資本志向主義(勤勉からガリ勉へ)の社会が 発展したあとの段階でのことであり――なぜなら もちろん内田氏も それを言っているのであるかも知れないし また そうでないとすると もともと 労働力という商品の所有者として自由な主体となったそのときに じつは この労働力を売って生きるしかえらぶ道はないのなら はじめから《二つの側面》がたしかに存在したことになる すなわち 《資本主義社会も 人間を自由な主体としなかった》―― だから《二つの側面》を言ったり つまり《資本主義社会が 人間を商品の所有者として自由な主体とした》と言うのであれば それは はじめの意図でわれわれが一つの常識とした《自由意志の先行性 または 人間労働の平等性》を実現しようとして出発したところから つづいている。
われわれは これを明言して これの地点にまずとどまる。この出発点が とうぜん前提されているのだとしても たとえば言うとすれば 資本主義志向の経済運動の法則を その背後からとらえ その背後の意図の世界で 研究へと自己運動するところの強い態度は 客観的なものであるかも知れないが われわれは 取り得ない。意図の先行性を言う一つの出発点と 背後にあるような意図の世界の地点とは 別だと考えるから。
そうしてわれわれが 客観的な叙述ができないとすれば それは 弱いからだが この弱さは 出発点に立ちそこにとどまりうる能力であり 能力によって 客観的な叙述をなしえないと言う。とわれわれは 友情をもって 語ってたずねる。
《人間を商品の所有者として自由な主体とした》というとき 能力の所有者として自由な主体であると自己到来したことが それに先行している。この先行するものにもとづいて 商品の所有者と 自己をとらえた・つまり 自己のその能力を商品とせざるを得なかった。
話はすべてここから始まると思う。
強い意図の地点と われわれがいう出発点とは 別のものではないかも知れない。ないであろう。しかも われわれは そんなに強くなれない。しめくくりを必要とするからである。先行意図は 後行の経験行為と そのつどの時点で 過程的に同時一体であるから。

必然の領域の彼岸において 自己目的として行なわれる人間の力の発展が 真の自由の領域が 始まる。――が然し その自由の領域は かの必然の領域を基礎としてのみ開花しうる。
(Ⅲ・7・48〔既出〕/ 内田義彦《4004110696:title》Ⅵの引用文から。)

この引用文のあと 《労働日の短縮は根本的条件である》とつづけて マルクスは 《生みの苦しみの短縮と緩和》の意図を表明し――だから それは 意図を 意図じたいの問題としてではなく 例示として締めくくっている―― この引用文のまえに 次のようにのべて 目的ないし意図をやはり明らかにしている。

自由の領域は 事実上 窮迫と外的合目的性とによって規定される労働がなくなるところで はじめて始まる。だからそれは 事態の本性上 本来の物質的生産の部面の彼岸のものである。未開人がじぶんの欲望を充たすため じぶんの生活を維持し再生産するために自然と戦わなければならぬように 文明人もこうした戦いをしなければならず しかも どんな社会形態 ありうべきどんな生活様式のもとでも こうした戦いをしなければならない。人間の発展につれて 欲望が拡大するがゆえに この自然的必然の領域が拡大する。だが同時に この欲望を充たす生産諸力も拡大する。この領域内での自由は ただ 社会化された人間・結合した生産者たちが 盲目的な力によってのように 自然との彼らの質料変換(物質代謝)によって支配されるかわりに この質料変換(労働・生産)を合理的に規制し 彼らの共同的統制のもとにおくという点――最小の力を充用して 彼らの人間性に最もふさわしく最も適当な諸条件のもとで この質料変換をおこなうという点――にのみありうる。だが これは依然としてつねに必然の領域である。
(同上=Ⅲ・7・48)

かんたんにいえば 《自由の領域(自由の国)》は この地上で 時間的な存在たる人間にとって 先行するものとして しかも それだから 後行する必然の領域と並行するものとして だから つねに 存在するということである。マルクスは むしろ この直前の引用文のなかで 意図をしめくくったかのごとくである。すでに引用した このあとにつづく文章とともに 考え合わせて しめくくった意図(意図じたい)が 依然として 動いているかのようにも思われる。
意図は むろん動くものだが 一つの論点ごとに しめくくられなければならない。認識と表現とのうえでは そういうかたちで 歴史社会は《依然としてつねに必然の領域である》ものとして つづけられる。つまり 労働とか社会生活は 客体としては 人間にとって 後行する経験領域である。ならば この限りでこの意味で われわれ人間は よわい。これを言うことによって 《人間の学問としての社会科学》(内田義彦)は 事が足りる。つまり少なくとも 意図は しめくくられる。
わたしたちは内田義彦が 《が とにかく 〈資本論〉を使ってみることによって 人間の学問としてのマルクスの思想というものを明らかにするという私の意図は ある程度解っていただけたかと思います。私の話が 何らか社会を見てゆく上で参考になれば しあわせであります》(資本論の世界 (岩波新書) Ⅵ)と語っているのを見ている。研究と生活との強い態度が このように締めくくられるのを わたしたちは好きではないとおもう。ありがたい説話を聞きたかったわけではないから。意図は すでにはっきりしているが 後方にしりぞいた(あるいは 前方のかがやく星となった) だから わたしたちは その意図の王国をかいまみさせてもらったことになる。
わたしたちのいらいらした気持は すでにあるそれに 剰余価値をつけて 外から・上から あたえられる。ただ この心理は 常識となるものではない。そして 内田義彦の著書では あの跳躍点の秘密の発展形態の秘密が よりよく明らかにされている。
つづく→2006-01-01 - caguirofie060101