caguirofie

哲学いろいろ

#7

もくじ→2005-12-23 - caguirofie051223

§10

《人身化せられ》 人間に対してその主体の位置を取って代わるかにみえる資本――つまり 人間が わざわざ そう取って代わらせたかにみえる――は その《資本の 生産過程》を論じるのが 《第一巻(ないし 第一部)》(資本論 1 (岩波文庫 白 125-1))である。この《生産》は 実際に資本が 自己運動し(あるいは 自己運動させられ) 増殖し蓄積するところを 研究してもいることをもって そうなのだが 反面で――あるいはやはり基本的に ということは 人間の法則の面で―― なぜそんなことが発生するのか その起源を解剖することをも 意味させている。
そして この人間学の側面は じっさいのところ その《第一編 商品と貨幣》の中に 隠れる度合を少なくして 議論されている。
その《第一章 商品 第一部 商品のニ要素 使用価値と価値(価値実体 価値の大いさ) 以下 第二節等々》という表題のもとに つづくわけである。価値の増加分(つまり剰余価値)を持って あるいは求めて すでに自己目的となって無限に運動する資本は 貨幣であったり商品であったりするというわけである。われわれは これらの前に 《第三編 第五章 労働過程と価値増殖過程》のうちの《労働過程》のほうをとり上げ それは 《まず第一に 人間と自然とのあいだの一過程》であるのだから そこに 形而上学的な議論としては この労働にさらに先行する人間の意志と知解とを 想定し 《主体》はとうぜん この先行する人間存在であろうと とらえることから始めていた。
この人間学の方面に ほかの場所よりは一層 多く重心をかたむけて マルクスは その《第一編 商品と貨幣》の中で そして ここでのみ 議論をおこなっている。

何事も初めがむずかしい という諺は すべての科学にあてはまる。第一章 とくに商品の分析を含んでいる節の理解はしたがって 最大の障害となるであろう。そこで価値実体と価値の大いさとの分析をより詳細に論ずるにあたっては 私はこれをできるだけ通俗化することにした。・・・ところが・・・抽象力なるものが・・・〔必要との主旨〕。・・・素養のない人にとっては その分析はいたずらに理屈をもてあそぶように見えるかもしれない。事実上 このばあい問題のかかわるところは細密を極めている。・・・
資本論 1 (岩波文庫 白 125-1) 第一版の序文)

と一見したところでは わけのわからないような説明をあたえている。われわれの問い求めるマルクスの意図は より多く(つまり 隠れること より少なく) ここに見出すことができるのかも知れない。


人間は 足で立っているのであるが 言ってみれば ここでも 立ちあがろうとしたり歩行しようとしたりする意図が 先行している。意図の先行という人間学の一認識を 理念として――つまりたとえば 意志の自由 精神の尊厳 自由と尊厳とが平等であること などなどの理念として―― さらにこの理念を 観念となし(すなわち 自由なら自由という概念を しきりに念観するのである) その意味で 頭で立つことがある。念観した言葉を呪文のようにとなえ これを 心理的な起動力とするばあいである。労働したりその他その他 生活のあらゆる部面で それが起こらないとは限らない。少し茶化していうと 《自由を! しからずんば死を!》ということも生じたから。
しかし マルクスが言うところの 価値が 貨幣となったり商品となったり その形態を変化させ しかも 資本として その生ける赤子の剰余価値を生んでいくという無限の運動において 人間に対しても 主体となるというのは  《人間が足で立ち 歩いたり働いたりしたそのこと》が そのこと自身で立つようになることを 意味する。そうなるためには 《まず両足で立ちはじめてから さまざまな活動をする》そのことが そのように自己目的を見出し自己運動をするという 労働から始まる社会経済的な条件を かたちづくらなければならないが。
そして その経済的な生活条件を はじめに つくりだしていこうとした人間の意図が あってのことだったかも知れないし あるいは そこまでは言わなくとも たまたまそのような条件が社会的にできあがってきたとき その条件の自己運動にまかせればよいだろうと考えこれを実行したやはりはじめの意図が 起源となった ということなのだと考えられる。
人間と自然とのあいだの一過程たる労働をおこなって そこに得たものを その物の有用性によって 使用価値とし これを他者の物と交換しはじめ だから商品として そこに交換価値を成立させ 交換行為が等価だと考えられたならば――なぜなら 二人の当事者がその交換に同意したのならば それで 等価は基本的に成立したと考えられる―― 等価性は その単位基準を 人びとに 表象させるであろう。たとえば労働行為時間である。そして価値の単位基準がそのように数量的に把握され共同に了解されていったならば 等価交換において 貨幣といった価値のしるしを 遅かれ早かれ 見出し用いるようになるであろう。交換が社会的にひろまれば 労働の社会的な分業が成立する ここでは人びとは 商品を生産する そして貨幣が交換手段になってくれば 社会生活にとってそのほうが便宜がよいと考えてのように 商品生産(その交換と消費)が あたかもひとり立ちしうる その中で 価値が その増加分すなわち 剰余価値たる金の卵を生んだとするなら これを発見して よしとしたなら(それは それとして 合理的な知解に属する) 上の社会経済的な条件はととのったわけである。
価値が自己増殖し 資本となって 無限に運動をすることを発見したならば これに 意志と意識とをあたえて 主体としようというわけである。足で立つために わざわざ 先行する精神を持って実践する必要はなくなるだろうし 足で立つのに代えて 先行する精神を念観する呪術家のように 頭で立つことをもってすることもあるまいと それに同意する人びとは 心を一つにしたわけである。
マルクスが言うには

価値表現の秘密 すなわち一切の労働が等しく また等しいと置かれるということは 一切の労働が人間労働一般であるから そしてまたそうあるかぎりにおいてのみ 言えることであって だから 人間は等しいという概念が すでに一つの強固な国民的成心となるようになって はじめて解きうべきものとなるのである。しかしながら このことは 商品形態が労働生産物の一般的形態であり したがってまた商品所有者としての人間相互の関係が 支配的な社会的関係であるような社会になって はじめて可能である。
(Ⅰ・1・1・3・〔A・3〕)

ここに たとえば一つの起源があって 人間の意図の先行性を言ったというわけである。国民的成心が 自覚せずして 出来上がってきたと もし考えるならば そこで自覚し それに同意し さらにそれで行こうというのは 先行する意図である。一定の時点で それまでは 自覚せず意識せず・だから意図していなかったという場合 ああそうだったかと それまでの歴史を受け取るのは 意図であり これは 事後的であっても――事前的・事態並行的ならもちろん―― 先行するものである。

最初商品はわれわれにとって両面性のものとして すなわち 使用価値および交換価値として現われた。後には 労働も 価値に表現されるかぎり もはや使用価値の生産者としての労働に与えられると同一の徴表をもたないということが示された。商品に含まれている労働の二面的な性質は 私がはじめて批判的に証明したのである。この点が跳躍点であって これをめぐって経済学の理解があるのであるから この点はここでもっと詳細に吟味しなければならない。
(Ⅰ・1・1・2)

《商品にあたかも二面的な性質を付与する労働》でよい あるいは それにやむなく同意するということが 社会的にも 起こった。この《跳躍点》は 人間の法則の 社会生活に対する出発点の 歴史的な一つの段階的なあり方として とらえたものであるだろう。《もっと詳細な吟味》は マルクスのこの書物全体にかかるものであるだろう。
われわれは 意図の問題の観点から 吟味していく。
問題は 《価値表現の秘密》がひとり立ちし 《跳躍点》からの出発が自己運動していくというときに 一方で いや 労働とはそんなものではないのだという精神の批判をもって 頭で立っていくわけには行かず 他方で 《秘密が解かれ 跳躍点たる起源が明らかになった》とき その理解そのもの 知解した見取り図そのものが つまりは理論が これまた 主体の位置を 価値と資本とから うばい返すということによって やはり頭で 逆立ちして 歩き進むというわけにも行かないであろうということである。
先行する意図 だから それの 後行経験行為との関係ぐあい の問題である。理念にしろ その問題を処理する作業で われわれが 用いていくものである。理念は その理念の背後のというか それの見られる場としてのというか 存在としては この理念を用いる主体のことでもあるのだが。また 理論も 人間の法則にもとづいたものであろうし 理念を含むものであるだろう。これは 先行する意図の 出発点の問題である。この出発点は 人間にとって普遍的な少なくとも一般的な 生活態度のことであろうし 上の跳躍点は 歴史具体的な一つの出発点をものがたるものである。跳躍点は 合理的で経験妥当なものであるなら 出発点一般の 歴史的に最初の社会的実現のことだとも考えられる。
出発点一般に固執しようとおもえば 《社会がその生みの苦しみを短くし緩らげる》ことが マルクスの意図であり これを受け取るというときにも その人間が出発点に立って主体的にふるまうというのは 理論が正しいからでもなければ 理論のためにでもないはずだ。明らかにされたこの跳躍点そのままで いいかどうかを別として 先行する意図一般に立った出発点一般として マルクスの仕事を受け取り受け継いだりするのである。理論は 持つものであり 道具として活用すべき人間のものである。しかも 意図を表明したり受け取ったりと言うときには この意図は 先行するものであるから そこで すでに 人間は主体として立った。理論を 仮りにたとえ ご破算にしても そうなのである。
これが マルクスの意図の秘密である。資本主義的な生産への跳躍点を明らかにし その発展としてできあがった現存するものの肯定的な理解の中に 同時にその否定の理解をも含むというのは それらすべての理論的な知解というのは すでに 人間の意図に先行せず 後行するものなのである。
だから 《もっと詳細な吟味》は 弁証法的な理解を いっそう明らかにし 主体的な行動を助けるものであろうが 事実上それがなくとも すでに人間は立ったことでなければいけない。これは いけないという言い方で いえる。《わたし》は欺かれるなら 存在している。跳躍点の理解をとおして――なぜなら その理解で 欺きがあったなら欺かれていたとわかる――ではあるが その理解およびこれをひろげた理論体系(そういう頭)によって 存在しているのではない。
欺かれていても かまわないという人もいれば いや けっして この跳躍点において人は まちがったのでもなければ だまされたのでもない 真正の歴史的な歩みは それだという人もいるかも知れない。これは 出発点からの 議論のそして社会行為の 展開であり また このことは 信教・良心・思想・表現の自由という先行領域の問題を前提しているものであるし たしかに後行の経験領域で 時に社会的な対立・敵対の関係をも作っていることがらである。
前提問題とことがら展開の問題の両者は 同一時点で成立しており過程されていく。マルクスの あるいはだれのでもなく一般に人間の 人間学のほうは この意図の歴史社会的なあり方を 明らかにしている。それは すでに 自己あるいは自立である。

  • マルクスは 自己還帰ということも言う。自己到来という人もいるし 昔からのものとしては なんじ自身を知りなさいというそれである。

抽象力が必要である。

すべての労働は 一方において 生理学的意味における人間労働力の支出である。そしてこの同一の人間労働 または抽象的に人間的な労働の属性において 労働は商品価値を形成する。すべての労働は 他方において 特殊な 目的の定まった形態における人間労働力の支出である。そしてこの具体的な有用労働の属性において それは使用価値を生産する。
(Ⅰ・1・1・2)

労働が 商品価値の方面で

  • すなわち この商品価値の自己増殖する無限の運動ということを 頭で理解したならば もうそれに向かって それじたいを自己目的とさせ 頭で立つこともなくなるという意味では 頭も要らないと考える方面で

《国民的成心》をすでに一つの強固なものとし

  • なぜなら 一切の労働は等しく 人間は等しいという抽象力による理解は 一つの先行する知解の合理性である また そのゆえに この成心に自己の意図をあたかもあずけることができると考えた

したがって 労働の使用価値の方面すなわち具体的で有用な属性の方面はこれを さきの商品価値の方面が 互いを分離させて 主導する地位に立つと考えたし そう考えて労働を実行していくことをこそ 社会の支配的なおきてだと 信じていくことが起こった。
この信仰あるいは宗教のもとに――なぜなら それこそが 経済運動の法則の中で資本が 意志と意識とをあたえられた主体となるものである―― 人間の労働の 片や意図と設計図の方面 片や具体的な作業内容の方面の両者が 区別されるだけではなく 明確に・つまり社会階級として 分離され 分離のままでよいか少なくともやむを得ないものだと言って たしかに大手をふって(――跳躍点は 合法的なものだということが通用するなら――) まかりあるくようになることが出来た。それでは困るという人もいれば それでよいと言う人もいる。
つづく→2005-12-30 - caguirofie051230