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哲学いろいろ

#5

もくじ→2005-12-23 - caguirofie051223

§8

経済学の領域においては 自由なる科学的研究は 他のすべての領域におけると同様に敵に遭遇するだけではない。経済学の取り扱う素材の特有の性質は もっとも激しいもっとも狭量なそしてもっとも憎悪にみちた人間の胸奥の激情である 私利という復讐の女神を挑発する。
(第一版の序文)

資本論 1 (岩波文庫 白 125-1)

資本論 1 (岩波文庫 白 125-1)

《私利という復讐の女神》は 
とうぜん 《経済的範疇の人格化たる個人》からのいわゆる階級利益の 保守と要求とへ それぞれその崇拝者たちを走らせるのであるから その既得権益の保守および新しい分捕りといった それぞれ人間のはじめの意図を そういうかたちで 先行させるというものである。経済学の研究およびその成果の実践は ここでも 人間学と切り離すことができないというものである。
人間学で何とかなると言ったのではない。先行するものがある そしてそのことを承知しているべきだと 言ったのである。もっとも 復讐の女神を捨てる・克服しようとすることも 人間の法則である。したがってまた これと組んだ経済上の方策に属すると言うべきであろうが。
すなわち 《〈自由なる〉科学的研究》という認識と表現が そのことを 明かしている。意志の自由のもとに意図を持つのでなければ 敵に遭遇したり女神を挑発したりしないであろう。
したがって われわれの前節の復唱として形而上学的にいえば 人間にとって 知解(その合理性)と意志(その自由選択 ゆえにまた 愛もしくは民主主義)とが つまりそういう基本原点が 労働に先行している。つまり経営・政治・法律などなど 要するに社会生活に 先行している。ということであり――合理性が先行するゆえに 不合理な意図と設計とにぶつかる と言え―― 経済学または広く一般に経験科学は そういったかたちで 基本原点たる人間学と 二つにして一つの実践であるということになる。
《より高級な動機(ないし意図)は別としても》と言えるのは どちらかといえば 人間学からの要請にもとづいている。認識と表現の対象となっている経験事態としていえば とうぜん経済生活の領域においてである。したがって ここには いわゆる社会階級の関係において 支配的な地位にある階級の自己保守にしろ 被支配的なそれのあたらしい自己主張にしろ 《私利という復讐の女神を挑発し あるいは それに訴える》という 二つのかたちにして一つの敵を 経済学は持っていると考えなければならない。とくには応用の方面のことである。
もう少し このあたりまえの出発点のことを見ておきたい。
それだから 《それ自体としては 問題は 資本主義的生産の自然法則から生ずる社会的敵対関係の発展程度の高いか低いかということにあるのではない》(第一版の序文)ということ すなわち 社会経済的な先進・後進を問わないということ これは ここに見ようとしている《資本主義的生産の自然法則》が 人間の自然本性の法則と たとい矛盾するかたちで現われているとしても あるいは そう現われているゆえに 相即的であることを物語ったことになる。後進社会の人びとに対して 先進社会に見られる資本主義の経済法則が やがてそこでも同じようにはたらくのであるゆえに マルクスが 《ここで報告しているのは君のことなのだよ( De te fabula narratur )》と語りかけたことは 階級利益を追求するときの・あるいは 追及するというそのこと自体としての 敵の出現についても 同じであることでなければならない。
《より高級な動機は別としても》あるいは別としなくとも そうなのである。なぜなら まだ 経験生活に対する人間の意志の先行性は 一つの価値自由な認識にすぎないから。価値判断をともなって 同じことを言おうとすれば 新しい自己主張をおこなっていく今の被支配階級が 《諸階級の究極的な廃止をその歴史的な使命とする》ということになる。そのとき そういうかたちで われわれ自身のことが皆について 報告されている。《使命》という《より高級な動機を別としても》 《究極》というのは すでに 先行する現在の意志と意図との内にしかない。《究極》は とうぜん 歴史相対的なものとなって 見通しうるかぎりでの当面(将来すべき現在)の段階のこととなって 一個の・あるいはあらそわれるべき複数個の 設計図として提出される。
こういう常識が まず出発点のものである。
ここで《使命》というとき 資本主義という経済運動の法則が 長期的な課程において・あるいはいま現在の過程において すでに それ自身と相即的に宿している人間の法則にもとづいた各個人の意図がになうものだとしても この使命ゆえに・また法則の認識・意識そのもののために 人間はこれを遂行するのではなかったから 人間学が実践の基本だというときにも こんどは いわゆる道徳的な《より高級な動機は別としても》よいし むしろそうすべきである。とうぜん 使命が絶対主義にはならないということ。絶対ということば 人間の論法として 表現上 人間の存在という先行するものに 使ってよいかも知れない。そしてそれは 具体個別的な事態について 個人個人の問題として 使命を感じるかも知れないし おおよそそれは 事後的な認識に属するとも考えられるが より高級な動機の問題としては 事前的また事態並行的に 使命として自覚しているということも あるかも知れない。そうして さらにそうして そういう場合は すでに より高級な動機を 一般に 別としているであろう。使命が法則的なものであったとしても この使命を受け取り担うというのは 人間が それに先行する意志をもっておこなうものである。人間が使命をはたすのであり 使命が人間の意志を制してみちびくのではない。星は 要らない。個人的にそして私的に 感慨のなかで 星を めざすべきものとして 持っているばあいはあるとしても。
ゆえに 《 De te fabula narratur! 》というのは 先進社会・後進社会の別を問わず 労働者階級に対しても資本家階級に対しても 同じように 語ったものだとも 解せられる。そういうかたちで 人間学が 経済学と二つにして一つの実践を構成するものと考えられる。そういう出発点を明らかにして とらえていざるを得ないとおもう。もちろん マルクスの報告がなくても そうだと思われる。つまり だれからの報告がなくても そうだと考えられる。
逆にいって もちろん 人間学が 文学・思想などなどとして そういう一つの分野をもって 明らかにされていくこと これを 排除しないし 妨げもしない。しかも そう言えるのは じっさい 現在の《資本主義的生産の自然法則から生ずる社会的敵対関係の 各社会間の 発展程度の高いか低いかということに 問題は それ自体として ない》ことのゆえであるし それら人間学として一つの独自の分野をもつ研究は むろん それとして 人間の《より高級な動機》を ゆたかに深く明らかにしようとつとめるわけである。わけであるが これまた そのような動機ないし精神の認識と意識とのゆえをもって 経済生活を 自己の生きることに対して 排除するものではない。すなわち そういう人間学も 経済学の実践の出発点を 明らかにしようとしている。人間学によって より高級な動機を知った人びとは 経済生活における より低級な意図に対して まずは耐えることは 比較的に容易であるし 人間の法則に敵対する動きをも明らかにするであろうし それへの対処の仕方をも 明らかにして実践していくはずである。ゆえに 経済学と人間学との二つにして一つの実践。


マルクスは わたしの考えでは ここに《資本主義的な生産様式 そしてそれの領有様式への転化と発展〔および衰退〕 の法則》を明らかにしたというとき その経済法則に 人間の法則を すでに組み入れて――つまり 経済行為に対する人間の意図として すでに組みこまれているそれを 同時に 認識して―― 研究し表明していると思われる。そして ここに人間の法則というのは ただ 人間の存在が 経済生活に あるいはその経済法則として認識された理論に 先行するというただそれだけのものだとも 考えられる。それであってよいと考えられる。そういうものとして マルクスに はじめの意図があった。意図ははじめにあったが 設計図は 先行するものの内にあっても 意図に後行したのだから 設計図が明らかになったからといって その理論が 意図の受け取りに先行するものではないし 経験法則のつらぬかれる経済生活と 理論とは その意味で いづれも 後行するものである。そういうかたちで 人間の法則を 潜在させている。
潜在としても 人間の法則を――はじめの意図のなかに――含み持っているゆえに 《いまや――経済法則を明らかに示して――素材の生活が 理論たる観念として再現されるようになれば 一見それは アプリオリに(観念先行的に)構成されたものを取り扱うように見えるだろう》(第二版の後書)と 語ってみせたし この潜勢的な人間の法則を 人間学として独自の分野のなかで研究したのでもなければ しかも 人間学としてのはじめの意図を持っていて しかしながら 意図の先行が意図の経済生活に対する支配のことであると研究したのでもないのだから 上のように語ってみせて とうぜんである。

私の弁証法的方法は その根本において ヘーゲルの方法とちがっているのみならず その正反対である。ヘーゲルにとっては 思惟過程が現実的なるものの造物主であって 現実的なるものは 思惟過程の外的現象を成すにほかならないのである。しかも彼は 思惟過程を 理念( Idee )という名称のもとに独立の主体に転化するのである。私においては 逆に 理念的なるものは 人間の頭脳に転移し翻訳された物質的なるものにほかならない。・・・弁証法は彼(ヘーゲル)においては頭で立っている。
(第二版の後書)

意図が《理念》として受け取られるとする場合にも――つまり 意図と設計図とは 理念的に 把握されうることはされうる―― その理念が たとえ意図として先行するものであったとしても マルクスにおいては だからというので 経済生活のなかで外的に現象するというものでもなければ その生活を観念的にアプリオリに 支配するというものではありえない。アプリオリというのは 先行するという概念のことでもあるのだが。そしてその限りで 理念は 理念的なるものは 人間学と経済学という二つにして一つの実践において その行為過程のなかに 見られないとは言えない。取り出して 認識することもできる。
《先行するもの》の問題――その想定の問題――は 時間的な先後のことではないのだから 後行するものを支配するのではないし(ただし 制御しようとつとめることは あるだろうし) 同じく後行するものの領域から離れて 自己の領域の内に閉じこもるものでもない。もし理念をいうならば 理念は そういうふうに 活用される。
ただし 上のように 《物質的なるもの》を持ち出して言ったときには その物質的なるものの認識が 頭の中で それによって立つところの《理念的なるもの》ではなくとも そのまま はじめの意図であり設計図に属するとかと とられかねないかも知れない。つまり とられかねない。つまり 人間の法則とは 意図イコール理念であると受け取られた限りでは 《物質的なるものがそこに転移し翻訳された人間の頭脳》のことであると 解せられかねない。再々度つまり 人間の法則は 経済法則がそれであって そのほかにはない したがって あるのは 経済法則のみだと 言われかねない。
この問題は 次のように問いかえることができる。マルクスの言おうとするところは とうぜん 人間が 自由なる意志のもとに 物質的なるものを知解するのだし 知解された経済法則は 人間の法則と同じものではないと考えられるとき――すなわち 経済的な範疇の人格化と 人間の人格とは 別のものだし そのゆえに たとい経済法則が人間の法則をそこに含むかたちで表現されたとしても その経済生活の推移は 人間がそれをおこなうという長期過程的な・あるいは先行原点的な基本を言っているし そういうすでに動態的な歴史過程のこととして 表現されているはずであると 考えられるとき――またこう考えるべきであるとき しかも この《人間》は けっきょく《物質的なもの》であるのか という問いなおしである。
わかっていることは 《頭脳》は 物質的なるもの(質料)から成り立っているということである。あとは わたしは 人間の法則というとき 人間の意図が 経済生活に先行するということ そして 意図は 後行する経済生活(物質的なるもの)を認識したばあい その先行性が 時間的な優越性(外向的にも内向的にも)つまり支配者であることを 意味しないとのみ言うにとどめたい。そこに存在する人間――あるいは《わたし》――は そういうかたちで 《主体》ではあるし 《主体》なのだと。
カール・マルクスなる一個の主体が はじめに意図を持ち 設計図を明らかにする。これらの先行するものは――つまり 人間の法則として そうであるものは―― 後行する経験生活と 同時相即的なものである したがって 意図を持ち設計図を描くときにも もともと それらは 後行領域と 同時相即的なものであった といったなぞのかたちで 表現するにとどめたい。
人間の法則と経済法則(経験世界の法則)とをまとめて理解していくところの 意図と認識とを 弁証法とよぶとするなら マルクスが一例として言うには

それは現存しているものの肯定的な理解の中に同時にその否定の理解 その必然的没落の理解をも含むものであり 生成した一切の形態を運動の流れの中に したがってまた その経過的な側面にしたがって理解するものであって 何ものをも恐れず その本質上批判的で革命的なものである。・・・
(第二版の後書)

ということになり 《本質上》というのが 人間の意志および知解の 先行性を言ったものだと 考える。《物質的なるもの》に対しても わたしたちは《わたし》の先行性を言うのであるが この先行性によって 物質的なるものを 排除しもしなければ 支配しようとするものでもない。《現存しているものの肯定的な理解の中に 同時にその否定の理解をも含む》というのが それとして取り出せば――つまりそうすると 理念的な内容だということにもなるが また 取り出した限りで なってもしかたないが―― 人間の法則のことだと考える。
経験世界(その基礎は 経済生活である)について 物質的なるものを 形而上学的に 持ち出さないほうがよいかも知れないとわたしたちは おもう。経験的に認識しうる物体とか質料とかとして あつかっていけばよいと考える。
こういうものとして――つまり ふたたび繰り返せば 先行するものとしては はじめの意図および設計図 そしてそれと相即的な後行するものとしては 〔むろんここでは 設計図として表わされた・つまり理論内容としてのものだが〕 社会経済的な経験法則 これらの 表現の上では一体となったものとして―― 近代社会の資本主義的な生産の法則を マルクスは 闡明するようつとめた。人間の法則(だからたとえば いわゆる自然法つまり 自然法主体 の動態としてなど)とか あるいは同じことで 人間の社会的な――社会的な人間の――歴史法則と 言ってもよかった。
中味は 次節からである。 
(つづく→2005-12-28 - caguirofie051228