caguirofie

哲学いろいろ

#4

もくじ→2005-12-23 - caguirofie051223

マルクスの《資本》の意図はなにか

§7

《労働はまず第一に 人間と自然とのあいだの一過程である。すなわち 人間がその自然との物質代謝を 彼自身の行為によって媒介し 規制し 調整する過程である》(資本論 1 (岩波文庫 白 125-1)第Ⅰ巻第3編第5章第1節)とき 《最悪の建築師でも 〔この《労働》をおこなうばあいに〕 もとより最良の蜜蜂にまさるわけは 建築師が〔すなわち人間が〕蜜房を蝋で築く前に すでに頭の中にそれを築いているということである》(同上箇所)。
《したがって すでに観念的には存在していた結果が 出てくるのである》(同上)とさえマルクスが言うときにも しかしながら 今度は このことも 《まず第一に 人間と自然とのあいだの一過程である》にすぎないのは 当然であり 自明である。建築師の 労働の意欲 そして具体的な労働行為にかんする知解――しかもまだ この知解の意欲――が 問題だと言ったまでで 観念が建築をするわけではないこと これが 自明であり当然である。
《人間と 自然とのあいだの――あるいは 他の人間や人間の社会的な関係やとのあいだの――一行為過程である》労働は そのような《まず第一》であるものに さらに先行して 人間の知解と意志とを 前提している。
自然・他の人間・社会に対する知解 そして その知解への意志 あるいは単純に言って 生きるということの意志。これらを 人間は 労働に 先行させて持っている。
時間的な先行・後行の関係ではないであろうが・つまり にわとりと卵との関係ではないであろうが 労働は 人間の存在に 後行する。と言える。
これは 同じく単純に言うと 人間が精神的な存在であり 蜜蜂は そうではないから その蜜房をきずく作業に対して 先行するものを持たないと言うにすぎないのであるが(――だから 作業への意欲とかまして意志とかと言わず 本能といって区別する――) ここで まず第一にいえることは マルクスがこの《資本 Das Kapital 》なる著作へ向けて労働したということ それは かれの意志が先行したということである。
本能を かれにも・つまり人間にも 含めてもよいのかも知れないが それは 本能の動物としておこなったのではない。何を書いたか これも重要であるが 何を意図したか これも 同じく重要である。目的とそして内容たる設計図も はじめにかれの《頭の中に》あった。――もちろん わからないから書き始める(つまり 思考を 書き留めつつおこなう)と言えもするのだが。
だとすれば かれのこの目的というものを把握し その受け止めるべき点を受け止めるということ あるいは 目的と書かれた内容とをつき合わせて それらの関係具合いを測ってみること これらの点が 重要である。か または そういう読みの仕方が ありうべき別の 内容たる理論の研究という読みの仕方と同じように 成立するはずである。さらにいいかえると 意図を読むことと 内容を把握することとが やはり同時に 重要となっていると考える立ち場が 一つの行き方として成り立ちうるであろう。――これは 最初の命題に帰着する。
すなわち 人間にとって その意志と知解とが 労働ないし生活過程に 先行するということ ならびに この先行は 時間的なものではないのだから 前者の精神作業と後者の生活労働行為とが つねに 一体でありつつ しかも 区別されうるということ この一命題。
それだから 読みの行為にも はじめの意図の理解と書かれた内容の理解とが 同時一体でありつつ しかも 区別されえ 両者のあいだの関係ぐあいを 推し測ってみること これが成り立つであろうと まず考える。
同じことを さらに別様にいいかえるなら こうである。人間の労働は はじめの意図(すなわち 目的の意志および設計図の知解)そしてその具体的な作業行為 これらの二つをもって おこなうものなのであるが やはり単純に言って それが 意図と具体行為とを べつべつの人間がおこなうように――いわゆる資本主義的な生産様式のもとでは―― なりえたということ。区別しうるものであるから そのように分離しえたのであって その近代社会の人間になって初めて区別したのでもなければ 偶然の分離が起こりそれによって初めて区別を発明したのでもない。
もう少し精確にいうと 人間は ひとりでも とうぜん 自分の意図と作業行為との両方を 持っているのであるが 資本主義的な生産の意図と 資本主義的な労働の具体行為とは あたかも別々の人間がそれぞれをもっぱら担うということになりえた。
ゆえに すでに言えることは 資本(その再生産)の意図とその具体的な労働作業の内容とのあいだの 区別あるいは分離のぐあいを おしはかり それにどう対処していくか これは マルクスのはじめの意図であると考えられる。そしてそれは 区別を分離へと促していった人びとのはじめの意図 これにかんしてのものであるはずだ。
ただし ただちに言っておかなければならないことは 人間が労働において《自然的なものの形態変化のみをひき起こすのではない。彼は自然的なもののうちに 同時に 彼の目的を実現するのである》(同上=Ⅰ・3・5・1)というとき この目的は 《彼が知っており 法則として彼の行動の仕方を規定し 彼がその意志を従属させねばならない目的》(同上)のことであるのだから マルクスの意図(目的)も 同様だということである。
また その認識の対象となった 資本主義的な行動をとる人びとの意図とか目的とかいうものも 大きく言って 同様だということにもなるであろう。
そして 同じくただし 上の《資本主義的な生産様式における 意図の方面をになう人と具体労働をする人との あたかも分離》にかんして その分離じたいの一つの経験的な法則もあるのだろうし あるいは 区別はするが分離のままでは困るという人間の法則もあるかも知れない。あるとすれば しかも すでに了解されているように マルクスは そういった相反する二つの小法則のいづれを排除するのでもなく 一定の大きな社会法則をとらえて 明らかにしようとつとめた。どちらかといえば 人間の法則のほうが 基本である。
その初めの意図は すでにかれの頭の中に《観念的には存在した》と考えなければならないか それとも 書かれた理論内容との照合で そのかれの目的は 法則に反した・つまり 実現すべき目的ではなかったと 理解されるか これらのうちどちらかである。意図と目的と法則と理論内容とが 一致して 人びとに迎え入れられるなら 実現しうべき人間の生活過程であるはずだ。
まず はじめの目的としては一般的に――。

私がこの著作で探究しなければならぬものは 資本主義的生産様式であり これに相応する生産諸関係および交易諸関係である。・・・/ 問題として取り扱うのは これらの法則自体であり 〔各社会形態のあいだで その発展段階などに差異はあるものの あっても そのばあいにも〕鉄の必然性をもって作用し そして貫徹するこれらの傾向なのである。
(第一版の序文)

目的に必然的に含まれた意図として――。

一社会がその運動の自然法則を究知しえたとしても――そして近代社会の経済的運動法則を闡明(せんめい)することがこの著作の最後の究極目的である―― この社会は 自然の発達段階を飛び越えることもできなければ これを法令で取り除くこともできない。しかしながら 社会はその生みの苦しみを短くし 緩和することはできる。
(同上)

  • 《〈自然の〉発達段階を飛び越えることができない》ゆえに 或る社会では 法則的な発展の段取り(コースの採り方)がちがってくることもあるかも知れない。

見かたと表現を変えて ほぼ同じ内容を――。

だから より高級な動機は別としても 現在支配的地位にある階級にたいして 彼ら自身の利益が命じていることは 労働者階級の発展をはばんでいる一切の法的に撤去できる障害を除去することである。
(同上)

これら あとの二つの引用文の内容は 第一の引用文のなかの 資本主義的な生産様式の鉄の法則が それじたいが――おそらく考えるに 人間の自然本性の法則を 同居させているものであるゆえに――宿しているところの人間の意図としてのことだと マルクスは 認識したにちがいない。この限りでは 字句どおりにとれば 社会は そのご 福祉国家になってきたわけである。《より高級な動機は別としても 現在支配的地位にある階級》が そういう《発展》をうながすようになった。《資本主義的生産様式の変革と諸階級の究極的な廃止をその歴史的使命とする階級――プロレタリア階級――による批判》(第二版の後書)を受けてのものであったとしても マルクスという《死者が生者をとらえ( Le mort saisit le vif. )》たわけのものではないから 《鉄の必然性をもって貫徹する経験法則》の作用というのならそれが そこに そういう矛盾するようなかたちででも 見られるかも知れないというものである。
見られるかも知れないと表現するのは 《ここ(《資本》論)では 個人は 経済的範疇の人格化であり 一定の階級関係と階級利害の担い手であるかぎりにおいてのみ 問題となるのである》(第一版序文)からだ。経験法則も ある種の仕方で 人格化され 主体であるかのように表現された。そういうふうに分析される個人としては 法則にしたがっているというわけであり しかも 普通の具体的な個人は その法則のために自分の意図を持つわけではなく 《究知しえたとしても》の法則そのものとして やはり自分の意図を発揮するというものではない。少なくとも はじめの人間の意図と 書かれた(認識された)運動法則とは 同時並行的だが 基本的に区別される。
人間の労働の目的と 労働関係の社会的な過程についての法則とは 別である。前者は まず基本的に個別的(個人的)だし 後者はすでに《一般的(社会総体的)な個人》のことを言いうるとしたら だとしても それは 前者の意図とあいまって 発進するものだし しかも ここでは後者の《個人は 経済的範疇の人格化であり 一定の階級関係と階級利害の担い手であるかぎりにおいてのみ 問題となるのである》のだから。
単なるレトリックとして言えば 人間の存在が先行することは 基本であり かれの経済的な生活の側面は 基礎である。人間は 基本によって(あるいは 基本として) 基礎にもとづき 生きる。実質的にいえば 《諸階級の究極的な廃止をその歴史的使命とする階級》という表現は そこに はじめの意図を含んでおり この人間の意図は 《経済的な生活の側面で今ある階級関係》を基本的に超えて 先行している。これは 経済学の出発点(ないし原点)であり 人間学である。
マルクスの言う法則の中味を 吟味してみなければならない。
(つづく→2005-12-27 - caguirofie051227