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哲学いろいろ

#3

もくじ→2005-12-23 - caguirofie051223

§4

直前に引用した文章でマルクスらは われわれの言葉でいいかえると 生活態度からの出発としての自分の経済学(政策)の実践は 支配階級をうちたおしてでないと なしえないし 生活態度の見直しと新しい確立としての人間学の実践は これまた そこにまとわりついている《旧い汚物をはらいのけて》なしうるためには 《革命という実践的な運動》のなかにしか ありえないと言ったことになる。《〈支配階級〉という人間》が《ふるい汚物》をまきちらす犯人だという判決をくだしたわけである。これは たしかに 逆弁明――逆差別ということばがある――であることを物語っている。
《天上から地上へおりるドイツ哲学とはまったく反対に ここでは 地上から天上へのぼる》(p.32)。《ここでは》すなわち 少なくともこの《ドイツ・イデオロギー》なる草稿では 少なくとも理論の表明のしかたで マルクスらは間違っている。
《すなわち 人間がかたり 想像し 表象するところのものから出発し あるいはまたかたられ 思考され 想像され 表象される人間〔――支配階級という・あるいは被支配階級という 人間――〕から出発して ここから具体的な人間にたどりつくのではない》(p.32)のでなければいけない。《現実的に活動している人間から出発し かれらの現実的な生活過程からこの生活過程のイデオロギー的な反射および反響の発展をも叙述するのである》(p.32)。
《かくて道徳 宗教 形而上学その他のイデオロギーおよびそれらに対応する意識形態は もはや独立性のみせかけをたもたなくなる》(p.32)のではない。とくに生活の経済的な条件のゆえのイデオロギーとしての自己弁明は おそらく それらを正当なもの(いわゆる正義)だとは だれも考えていないであろうから 《独立性》を持っておらず その反面で――したがって弁明は 《相対性》としてあるものなのだから その限りで―― それらを妥当なものとして 消極的なかたちでしろ 一般に受け止めざるをえないであろうなら それとして《独立性》(社会的に優勢であること)を持っている しかしながら このようにして 《独立性のみせかけは これを たも》っているのである。それにかんする具体的な《生活過程の反射および反響の発展(現在の展開)を 叙述》していけばよい。
もちろん 各分野で やはり確かに連帯しながら 実践してゆく――しかも 自己弁明も逆弁明もする必要のないほどの 生活過程を方向づけているならば その限りで この実践は《独立性》を持っているであろうから まずは ひとりとして立つのでなくてはならない――そのとき わたしたちは 自己弁明からのどんな意識形態とイデオロギーとがやって来ても すなわちそれが 社会的に優勢な立ち場をきづこうとも また このときには実際じょう きづくかに見えるというときに 《現実的に活動している人間から出発し》ていることができる。或る一つの弁明が 支配的な意識形態になろうかというときに われわれは しかし 《なぜきみは そのように弁明しなければならないのか》と たずねてやることができる。先の《叙述》は 実際には この問いかけを内容としている。
《それら〔自己弁明〕はなんら歴史をもたず なんら発展をもたない。むしろ かれらの物質的生産とかれらの物質的交通とを発展させつつある人間が かれらのこの現実とともにかれらの思考およびかれらの思考の生産物をかえてゆくのだ》(p.32)から。
具体的な経済政策をもって対処していくことは可能であり必要であるが 独立性の見せかけは保つのであるとき その自己弁明をなぜなすのかという問いかけ以外に われわれは 何もなすことができない。けれども《かれらの思考およびその生産物》は すでに見せかけのものであるが 《かれらの物質的生産とかれらの物質的交通と》は 見せ掛けのものではないのであるし それらは われらのものでもある。《意識が生活を規定するのではなく 生活が意識を規定する》(p.33)のだし そうしてゆく存在の自由は 例外なくみんなのものである。
《この見かたは無前提ではない。それは現実的な前提から出発し 一瞬間もこれをはなれない》(p.33)うんぬん。ゆえに 人を愛させよ。

§5

つぎは まちがいである。

意識( Bewusstsein )とは決して意識的存在( das bewusste Sein )以外のものではありえず そして人間の存在とはかれらの現実的な生活過程である。
(古在由重訳 p.32)

すでに 《生活態度が わたしではない》ことを言った。《わたし》が《存在》である。いかに《現実的な》といえども 《生活過程》は 《そこから出発すべき前提》ではあっても それは 《わたし》が出発するのであって 《生活過程》がではないから 《存在》そのものではない。表現が気に入らないかも知れないが 《主体》とその《過程行為》とは異なる。ドイツ語では――そして一般にわれわれも 本(書物)なら本というものが存在するとも言うのだから―― 意識もそれが存在すると 表現することがある。しかし 《意識的存在( das bewusste Sein )》とすでに言っているのなら それは わたし・主体のことである。けれども わたしが 意識するのである。階級意識 あるいは 自由の意識 これらも わたしが持つものであって 用いていくものである。
おそらく 上の文章を書いたとき マルクスらは もう一歩ひきさがったところで いまわたしが言った意味での主体として かれらの《わたし》が存在しているのであろうし そのことをこそ 言おうとしている。すなわち これらの書かれた文章――つまり《語られ 思考され 想像され 表象される人間》――は 主体たるマルクスらが持ち用いているところの意識であり 《かれらの現実的な生活過程である》。ただし それイコールかれらの《人間の存在》だということには ならない。
われわれは 《思考される人間から出発し ここから具体的な人間にたどりつ》けと 言ったかにみえる。そして 上のようであるならば まさしくマルクスらは 《現実的に活動している人間から出発し》ている。われわれは 《叙述されたもの(意識や思考である)》が マルクス本人なのではない――つまり 本人のであるが 本人そのものではない――と言うのみである。
《文体は人間である》というとき 《文体 le style 》がであって 文章がではない。そして そのときには すでに はじめに 《具体的な人間にたどりつ》いている。マルクスらは 《叙述されたもの》をもって すでに《具体的な人間》であると受け取られるように 書いた。
書いた本人にかんするものであるなら よいのだが――思考物と主体との区別という前提にもとづいて それでよいのだが―― 他人にかんするものであるとき その区別の前提が 見えなくなる。上の引用文につづけて こう書くときである。

イデオロギー全体のなかで人間およびかれらの関係があたかも暗箱のなかでのようにさかだちしてあらわれるにしても この現象は あたかも網膜上の対象のさかだちがかれらの直接の肉体的な生活過程からうまれるのとおなじように かれらの歴史的な生活過程からうまれるのである。
(p.32)

これは 内容としてわれわれが§1にのべたものである。生活過程からこそ自己弁明するのだと。そしてあるいは それに似ている。これは措くとすると もちろん ここでも マルクスらは自分たち自身を含めていっているのかも知れない。だが おそらく ここでは 含めていないであろう。だとすると その《かれら》――つまり《人間》のことなのだが――は その《存在=わたし》が この叙述のとおりにそのまま 生きているということになる。マルクスらは 自分たちも 以前 まだそのことがわからないときには そうであったと言ったことになる。いづれにしても その恐れがある。
そうでないというためには――もし 言おうとするならの話だが―― 《歴史的な生活過程》と《主体》とは別だとの前提を さしはさまなければならない。《歴史的な生活過程〔の物質的な条件〕》から それを保守したいという意志のもとに イデオロギーなる自己弁明がうまれるのだと ここでも はっきり言わなければならぬ。
そうなると 《意志つまり存在=主体》が介在しているのだから イデオロギーなる意識は わたしの存在そのものではない。《わたし》が《うむ》のである。たとえ自然史的にうまれてきたものであっても それを《わたし》が受け取るのである。がん細胞か何か知らないが 勝手にうまれてきたとしても それをわたしが 受け取ったり拒んだりするのである。受け取れなくとも拒めなくとも その意向を意志は――つまり《わたし》は 意志によってだが その意向を―― 保持している。このわたしは 歴史的な生活過程のそういう主体ではあっても 過程そのものではない。もしくは 意識のイデオロギーを わたしは思考して作り持っている。
マルクスらは 自分たちが 自己弁明しないからといって それをする人たちには 《わたし・存在・主体またその意志(これの自由)》をみとめないというのは いただけない。つまり 書く本人以外の人のことを言うときには そうなるおそれがある。
自己弁明する人たちが 《そのイデオロギー全体のなかで さかだちして》いると仮りにしても その意志の自由な選択(その介在)をみとめないのでは さかだちをさかだちさせても まだ どちらも さかだちしたままである。片一方では マルクスらが 主体と生活過程とを区別し 意志の自由を保っているが もう一方では 生活過程が人間の存在そのものである人たち すなわち自由な意志の主体であることが認められずに わづかにイデオロギーといった思考およびその産物を持つが これもすべて《あたかも暗箱のなかでのように》いとなむにすぎないという人たちが いる。これは 人種差別ではないか。もし 《生活過程イコール人間存在》とみなされた人たちが そのイデオロギーの運営のなかで 人びとを差別しているのだとしたら マルクスらの見かたは 逆差別である。逆立ちを逆立ちさせても まだ そのままである。か それとも 自由意志の主体が介在しないのなら 頭がないというお化けであるから 変な幽霊だが そういう幽霊にむかって マルクスらは しきりに ものを言っているかである。
そういうマルクスらは むしろ足のない真正の幽霊なのではないか。足(現実的に活動してる人間)は これも 頭の中に移動してきている。《天上から地上へおりるドイツ哲学とはまったく反対に ここでは地上から天上へのぼる》。
ただしマルクスらは 真正の人間――あるいは 自己弁明しないふつうの人間――を対象として これを書いたのであって 自由意志の主体であってもイデオロギー全体の中へ足も頭もつっこんでしまった支配階級のそういう人たちに対して ものを言っているのではないと 弁明することができる。

§6

ところが

この活動的な生活過程が叙述されるやいなや 歴史は みずからもまだ抽象的にとどまる経験論者たちのばあいのような死んだ事実のよせあつめであることをやめ あるいはまた観念論者たちのばあいのような想像された主体の想像された行動であることをやめる。
(p.33)

のなら おそらく そのマルクスらの人間の《歴史》は 天上へのぼっていくしかないであろう。《主体》といったとき それをあれこれ《想像》することは自由だが そしてわれわれは すでにこのわれでしかないと知っているゆえに わざわざ想像(詮索)もしないが もし 《現実的に活動している人間から出発》するとき その《人間》が一個の主体でないならば つまりあるいは この主体が《出発》するのでないのならば 天井へのぼるか地中へもぐるかするしかないであろう。いや 失礼! 幽霊のように 空中をただよい 《支配階級の生活過程人間たちよ ふるい汚物をまきちらしたおまえたちの罪はおもい。思い知るがよい。万国のプロレタリアートよ 団結せよ》と ラッパを持ち 鳴らすのを待ち構えて ふれまわっていることはできる。かも知れない。
つまり ふつうの人間のことでなく他人のこととして書かれているばあいには 《団結せよ》と言う人は 主体であるが 言われた人には 主体がないといったことが起こる可能性のある文章がつづけられている。マルクスらがこう書いたとき 《叙述されるやいなや 歴史は 経験論者たちのばあいのような死んだ事実のよせあつめであることをやめ》るというのは そう書いている本人にとってみれば なるほど自由な主体にとどまっているが 書かれた人びとにとっては こう書かれて・つまり それを読んではじめて こんどは同じ自由な主体であることができた というかたちで――少なくとも字づらは――つづく。
《観念論者たちのばあいのような想像された主体の想像された行動であることを マルクスらのいとなむ歴史は やめる》のであってよいとき ふつうの主体であることによって そうなのであって だから《この活動的な生活過程をも叙述》していくのであるのに マルクスらの文章の表面は 逆を語っている。そうして ほんとうはそう語っているのではないと考えなければならないとき しかも そのいわゆる真意は活かされない というのは 人びとは 実際すでに 《死んだ事実のよせあつめの歴史であることも 想像された主体の想像された行動としての歴史であることも あるいは いま現在の既成の生活条件のための自己弁明としてのイデオロギー全体のなかで逆立ちして生きる歴史であることも》やめていて そこへ このマルクスらの叙述が入ってくると なるほど もっともだとうなづく反面で その叙述の方向で叙述にのっとってこそ あたかもふたたび自由な主体となれると 錯覚しかねない。叙述の実現ゆえに自由な主体となれるといった逆のかたちには ならないとしても 叙述が主体の自由の方向を規定する性質をもっている。
《行動》の要請であり そのための《科学的な理論》のおせっかいの歴史が 始まる。さもなければ 《自己弁明者の世界でも どこでもない世界》のことを言って おせっかいなどしていないし 行動の要請も自由なものとなっている。この地点とか出発点とかあるいは原点とかよべる世界 これが まだ明らかにされていない。
いや それは明らかにされている すなわち このように叙述していくマルクスらのとっている視点こそが それだ という場合には これは まだ 思考・意識・生活過程をあらわすものであって わたしの原点ではないと言わなければならない。マルクスらのわたしが この視点をとっているのだから。視点は 生活態度の出発点かも知れないが 存在の原点のことではない。同じものだと考えられるとき この視点の叙述が 主体の自由の方向を規定することになる。おせっかいになる。《かくて思弁のやむところ 現実的な生活において〔しかも 幽霊が天国を説くところの〕現実的な実証的な科学がはじまる》(p.33)ことになりはしないか。
《すなわち人間の実践的な活動の 実践的な発展過程の叙述がはじまる》(p.33)。しかも 空中なるこの偉大な書記にして革命家マルクスエンゲルスよ 逆弁明をやめよ。しても わるいとは言わないが つまり内政干渉をしないが その根拠は まちがっている。《主体たれ》 というほうが 現実的である。あるいは ひとこと これを前提して 叙述をはじめるべきである。それは わかる人たちはみな すでに暗黙のうちに前提しているというとき 《主体》たることを 人にもみとめよ。前提は 最後まで有効でなければならない。それは 生活態度の出発点のことではなく 原点のわたしのことだから。ここでは 逆弁明は必要ないし そもそも逆弁明は 自己弁明と同じく よくないものであるが 生活態度やその立ち場として 経験妥当なものであるとみるとき それでも 人間の存在・わたしの原点と それとを 混同しないでほしい。そのときこそ 《意識(または 心理である。つまり心理そのものからのもの)についての言辞はやみ 現実的な知識がそれにかわらねばならない》(p.33)。

したがって事実はこうなる。すなわち 一定の様式で生産的に活動している一定の個人たちは これら一定の社会的および政治的関係をとりむすぶ。経験的な観察は それぞれ個々のばあいにおいて社会的および政治的編成と生産とのつながりを 経験的に そしてすこしの神秘化や思弁もまじえずに呈示しなければならない。社会的編成と国家はたえず一定の個人たちの生活過程からうまれる。うんぬん。
(p.31)

そしてこれは 経済学である。《すこしの神秘化や思弁もまじえずに》というのは 人間学の方面からの仕事である。そして 人間に なぞがないと言うとしたなら つまりだから なぞがない人間が そういう人間どうしとして 《社会的および政治的な編成と 生産との つながり》を形成していると――叙述できるなら 叙述してもよいであろうが―― 見なしきって 自己の主義とし その行動の弁解としても使い 経済学実践していくとしたなら すなわち要するに 合理主義的な人間であると頭から決めて すすむとしたなら そのほうが 神秘的である。
つまり なぞとか神秘はこれを 自由な主体たるわたしであるときにも わたしは 自己のもとに 留保していると思う。《神秘化》は いけないし いらない。
《意識についての自己弁明たる言辞は や》まなくとも よい。無理にやめさせることは できない。完全にやむものではないかも知れない。その生活過程たる場 つまり これを基盤とする社会的編成と国家という場 ここで ここに対して われわれは 人間学と経済学との二つにして一つの実践をおこなっていく。少なくとも 《観念論的な見かたと唯物論的な見かたとの対立の不毛について》明らかにしていくことを 実現しうるであろう。
ということは この消極的にみえる態度で そうとう先のあたらしい社会のありかたまで その一つの基調となるものを形成していくことができると 欲張ってかんがえる。《わたし》が意志しなければ 《わたし》を愛さなければ 何ごとも始まらないというのは ほんとうなのだから 合言葉としては 愛としよう。社会主義とか人間主義とかも もう旧いとしたなら。
というふうに 《わたしがわたしである / わたしがわたしする》という原点しかも動態のことを 視点としては この《ドイツ・イデオロギー》は言おうとしたのだと かんがえる。
(つづく→2005-12-26 - caguirofie051226