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哲学いろいろ

#2

もくじ→2005-12-23 - caguirofie051223

§2

人間は意識によって 宗教によってそのほか任意なものによって動物から区別されることができる。しかし人間自身は かれらがかれらの生活手段を生産しはじめるやいなや 自分を動物から区別しはじめる。
(p.24;新編輯版 ドイツ・イデオロギー (ワイド版岩波文庫) p.26)

これを まちがいだと言わない人が どこにいるだろうか。《人間は意識によって 動物から区別される》とき その意識は 経験的なものではなかったのか。《物質的な生活条件》はまだ始まっていなかったとでも 言うのか。
その条件のもとに すでに《生活手段を 生産しはじめ》ていなかったとでも。はじめに《人間というものは意識によって 動物から区別されることができる》という観念をもって 存在しており しかるのちに 《人間的個体――個体的人間――が 生活手段を生産しはじめて初めて 自分を動物から区別する》ことが起こるのか。なんという空想!
ここに 《唯物論的な見方による世界》の天国が 始まる。《観念論的な見方》のもとでも 世界はすでに 物質的な生活条件を前提として 始まっていた。いな そう始まっていたゆえに 人間の自己弁明の結果 世界の観念論的な見方が あらわれた。観念論は 天国を想像させるが そして時に 足元の物質的な生活条件を見ないように・忘れるようにさせうるが またそれゆえにこそ 経験現実に立っている。これを ひっくり返すのは 幽霊しかいない。それとも 唯物論的な見方によれば 人間が 種として すでに動物の一種でもないようになるかたちでなのかどうか 別の一生物に すっかり変わるとこそ 言いたいのであろうか。
たしかにマルクスらは しかもこの世で 唯物論者たちによる天国をつくりはじめようとしたのにちがいない。突然変異によってなのではなく 客観科学による歴史的な必然性としてなのであろう。逆立ちして 生きるようになるとでも 考えたのであろうか。物質的な生活条件が あたまの中を占領し独裁するのだとしたら。十九世紀のヨーロッパ社会は それほど苛酷だったのであろうか。苛酷を強いた支配者たちの自己弁明するあたまを 自分のあたまの中にも かたどらなければならなかったのか。しかし なにゆえ。

諸個人がかれらの生活を表出する仕方は すなわちかれらが存在する仕方である。したがって かれらがなんであるかはかれらの生産に すなわちかれらがなにを( was )生産するか ならびにまたいかに( wie )生産するかに合致する。したがって諸個人がなんであるかは かれらの生産の物質的条件にかかっている。
(p.25;新編輯版 ドイツ・イデオロギー (ワイド版岩波文庫) p.27) 

まさしく 逆立ちしようと言うのである。《存在する仕方は 生活を表出する仕方である》。どちらも 生活態度である。《かれらがなんであるか》は 存在そのものであって 生活態度ではない。存在が生活するのだから 生活と生活態度とは 存在のもの(有)である。《わたし》は 《生産〔という生活の一領域〕》に《合致》しない。《なにを生産するか いかに生産するか》は 《わたし》そのものではない。わたしがおこなうことである。なにを生産しようと いかに生産しようと 自由である。この自由が 人間の存在 その能力 あるいはまた 社会と時代とに 歴史的に対応し制限されることは 火を見るより明らかである。しかも 自由でなければ 《生活態度》が 《人間》そのものである。詰まり 対応と制限とのままである。
わたしが笑ったり泣いたりするのが 生活態度が笑ったり泣いたりするということになる。
《したがって諸個人がなんであるかは かれらの生産の物質的条件に》 歴史上じょう社会生活じょう 制約されるけれども それは 生活態度が制約をうけるのであって 《諸個人がなんであるか》は 不自由ではない。マルクスの生活態度は かれの生活の物質的な条件に《かかっている》けれども かれ本人の存在は 同じく《かかってい》つつ 不自由ではない。どうしても 不自由になりたいのか。逆立ちすれば 科学的に 天国が見えるのか。

  • この点では 新しい神学であるかも知れないが 人間学ではなく 動物生活学である。

種々の国民相互の関係は どの程度までこれらの諸国民のそれぞれの生産力 分業 内部交通を発展させているかにかかっている。
(p.25;新編輯版 ドイツ・イデオロギー (ワイド版岩波文庫) p.129)

これは 生産の観点から すなわち経済生活の側面から そのとおりである。

どの程度まで一国民の生産力が発展しているかは 分業が発展している程度によってもっとも明白にしめされる。
(p.25;p.129)

のである。ここからは 経済学それじたいの問題である。唯物論に立とうが観念論に立とうが 同じである。そういう領域 そういう出発点として。生活手段の物質的な条件を そのものとして たしかに経験科学的に 明らかにしていこうというのである。さか立ちしなくとも 成り立つし それは 必要有益な知識である。

§3

われわれは 《〈唯物論的な見方と観念論的な見方との対立〉の不毛について》のみ のべる。

分業の種々の発展段階は とりもなおさず所有の種々の形態にほかならない。すなわち分業のその都度の段階は 労働の材料や用具や生産物への関係からみての個人相互の関係をも規定するのである。
マルクスエンゲルスドイツ・イデオロギー 古在由重訳 p.26;新編輯版 ドイツ・イデオロギー (ワイド版岩波文庫) p.130)

分業の発展段階に応じて 《規定される個人相互の関係》は 《労働の材料や用具や生産物への関係から見ての》ものであるから 生活態度が とくにその経済的な側面で 規定されるのである。《所有》の有無にかかわらず その一発展段階の中で だれもが規定されると言えもするし 所有の有無に応じて その規定の度合は ちがうと考えられもする。後者をなんとか見ないようにし 前者をもって 人間の自由の普遍性をこそ人びとに見させようとするのは 観念論の中で 一つの極端な思想として ありえた。
人間の存在(意志)の自由の普遍性は 宗教になりえた。つまり 或る観念――神 絶対精神 あるいは理性 自我 自由――をあたまの中で想像において念観することこそが 人間の存在の・意志の 自由なのだと説いて 自分の生活条件とその状態とを 人びとに弁明し 時には強迫することが 可能であった。
生活態度の自己弁明は すでに多くを所有する人たちが けっして空想的にではなく その現在の生活手段の物質的な条件を保守しようとして つくりだした観念 あるいはすでにある観念を利用し整理した理論といったかたちで たしかに 宣伝されてきたものが 大部分である。この事実を 唯物論的な見方も ひっくり返そうとする必要はない。そんなことは やがてなくなるとの福音を 逆に宣伝しようとするときにも。経済学をしっかり 社会生活の運営のための手段として 建設していけばよい。あるいは その基礎となる人間学をである。
《所有の種々の形態》は とうぜん 変わるということである。《労働の材料や用具や生産物への個人相互の関係を規定する 分業のそのつどの段階》は 個人の存在およびかれら相互の存在の関係が その生活態度から 相対的に自由であるなら――あるから―― そのことによってかれらは 《労働の材料や用具や生産物それぞれのもの および それぞれへの関係》を 変革していくのだから 分業もその形態が たしかに段階をとってのように 変わっていく。
《所有の種々の形態》も 新しいものの生成をうながされていく。だれか一般より多く所有する者が その一定の所有の形態について もはや観念論によって自己弁明しなくとも済んでいくほどの分業の様式を それが考えうるものであるならば実現しうるものであるのならば 経済学者は つとめて研究し政策として発表しなければいけない。そのときには もしそれが 実現へ向けて踏み出されうるものであるときには その段階の社会の中で 唯物論的な見方こそが 正しい哲学であり経済学理論であると なお言い張る人がいても 良心と思想と信教とは自由なのだから かまわないわけである。自己弁明しようとすること またその根拠が これまでいつも まちがっていたのである。
その自己弁明の内容としては ある程度 社会の全体にとって――その段階の分業様式にもとづいて―― 人びとの関係をととのえようとしうるものであるならば これをわれわれは 妥当としなければならないのである。妥当と見なさなければならないなどということはなくとも 逆弁明せずに われわれは 譲歩している。これは 人間学のほうの問題である。《神 規範的人間などについての観念にしたがう》必要は もうなくなっているし どこかに まちがいで その必要が残っているとしても その観念が ゆたかに所有する人びとの貧しい宗教であり観念論であることは すでにわかっている。しかし 信教と思想とは 自由である。経済学の実践 人間学の同じく実践 これにわれわれは はげめばよい。
譲歩したからといって 何もしないのではない。しかし いわゆる革命という点では それをやろうという思想をもつことまでは自由なのであるが 何もしないであろう。つまり 生活態度からの出発としては経済学の そして生活態度の見直しと新しい確立としては人間学の 基本的には二つにして一つの実践が いつでもどこでも 仮りに革命を経ようが経まいが 基調なのだから。――マルクスは 革命によってしか 新しい分業形態の社会はきづけないと言っているが。

この共産主義的意識の大量的な産出のためにも また事業そのものの貫徹のためにも 人間の大量的な変化が必要であり そしてこれはただ実践的な運動すなわち革命においてのみおこりうるのである。だから革命が必要であるのは たんに支配階級が他のどんな方法によってもうちたおされえないからだけではない。さらにうちたおす階級が ただ革命においてのみ いっさいのふるい汚物をはらいのけて社会のあたらしい樹立の力をあたえられるようになりうるからでもある。
(古在訳pp.106−107;新編輯版 ドイツ・イデオロギー (ワイド版岩波文庫) pp.83−84)

(つづく→2005-12-25 - caguirofie051225