caguirofie

哲学いろいろ

#17

――遠藤周作論ノート――
もくじ→2005-11-03 - caguirofie051103

§30 いささかいら立ちつつ

《徹底して深く愛せよ》という曽野さん自身のことばにみちびかれるなら――つまりわたしが かのじょのようになるとしたなら つまりわたしたちはこの実践をしないではいられないわけです―― もう一点。

一般の人々が クリスチャンなるものに抱くイメージはどんなものか。酒もタバコも飲まず もちろん女には手を出さず 女はむしろ堕落の原因と思っており カタブツ 几帳面で ユーモアを解さず 男女共にいつも膝小僧をぴったりと合わせて坐り 融通がきかず ヤボで くそおもしろくもない。こんな感じである。
ここまではまだいい。しかし
 私が一番いやなのは クリスチャンは その信仰の故に この世でも心が平静で すでに救われている人 のように思われることであった。それはすくなくとも 現実の私と 大変違うから困るのであった。
曽野綾子:〈解纜(かいらん)〉 《私の中の聖書 (集英社文庫 9-F)》Ⅰ

《ここまではいい》とされた前半 これでは いけないのである。こんなイメージの人がいたら それこそ おんぶお化けなのです。人間イエス・キリストは 大酒飲みで大食漢であると 生前に少なくとも噂されたのです。
《しかし》とつづけられた後半 これは そうでなければ また時にそう思われるようでなければ いけないのです。罪がおおわれているのですから。《すべての人の奴隷になった》というのは 奴隷になった(つまりその相手の人に仕える)というのですから 《その人と同じようになる》ことだと言っても すすんで罪の共犯者となるのでも あるいはさらに 率先してその人を悪にそそのかすことでも ないわけです。罪への快活な恐れをもって また《わたしはすべての人に対して自由であるが》と前提したように たしかに わたしがわたしであることを放棄することではない。つまり 《解纜――船のともづなを解く――》という意味ではない。
つまり 《わたしは すでに自身を犠牲としてささげている。わたしが世を去るべき時はきた》(テモテへの第二の手紙4:6)というパウロの言葉を解釈して 曽野さんは ギリシャ語原文にもとづき この《去る》とは 《解纜》のことであると言っている。

パウロはこの汚辱にみちた生から 永遠の生命の彼岸に向けて解纜する。そして天国の幕屋のとばりをかかげて入り 静かに主の許に坐ろうと意図したのである。
曽野綾子:〈解纜〉)

はたして そうであろうか。
太陽によってこの海――それが 《汚辱にみちた生》かどうかは知らない――を航くのであり そのときわたしがわたししているのであって この船のともづなを解くことが 人間するということだとは思えない。天の国に関係づけられることとは 同じであるだろうか。
言いかえると 《わたしが世を去るべき時はきた》とパウロが言ったなら わたしはこの船のともづなを解かないことによって ともづなが解かれる時が来たというのでないなら――なぜなら 《永遠の生命》=復活は すでにかれに関係づけられているのであるから 《彼岸》ではなく この海に存在し―― 《現実のパウロとは大変ちがうから困るのであった》。《私の神は右肩の後あたりにいる》というのは 向こう岸ではないであろう。なら 曽野さん自身 ともづなを解いていないのです。
かのじょは さらにアウグスティヌスの言葉を引いて論じています。

地上の人生 それは試練にほかならないのではないでしょうか。だれが苦痛や困難を欲する者がありましょう。あなたは耐えよ と命ぜられますが それを愛せよとはお命じにならない。耐えるべきものを愛する人はありません。自分が耐えていることに喜びを感じても できればしかし耐えるべきものなどないようにと願うのです。私は逆境にあって順境を熱望し 順境において逆境を恐れます。この二つの境遇において逆境を恐れます。この二つの境遇のあいだで 人生が試練ではないといったような 中間の場所はありません。(アウグスティヌス告白 上 (岩波文庫 青 805-1)》第十巻第二十八章)
キリスト教徒は この世をさとりすますのではなく 試練と思って自然なのである。
曽野綾子:〈解纜〉)

と。だから ともづなを解かず この海を航く 言いかえると ともづなを解いて《中間の場》へ想像において行ってしまわないと言っているのでないなら 《現実のアウグスティヌスとたいへん違うから困るのであった》のです。アウグスティヌスは 人びとの共感や同情を得ようというのではなく あなたに告白している・つまり復活を讃美しているのであるから 人びとそのものを得ようと仕事しているのです。
ここで曽野さんは 想像において仕事をしていると思っている人だと批判されるべきであるだけではなく 仕事を妨害しているのです。
ここで曽野さんは――強いてよく言えば――たしかに聖書を読んで この仕事を思うとき そこで内面戦争が起こってくるであろうから この心理的な葛藤を 人びととともに確認できるということなのです。仕事する人は 大変ですねと。これは おおきなお世話であるとわれわれは言わなければならない。
けれども この海を巡礼の旅のようにしてわたるとき だれが《試練と思って 自然なのだなあ》と言わない人がいるだろうか こういう問題であります。
キリスト者は この世をさとりすますのではなく 試練と思って自然なのである》という想像そのものによって強制的なおんぶお化けをかぶせられたなら きみは さとりすましていればよいのです。試練と思う(それを想像する)ことが問題なのではなく 試練と捉えて記憶し知解し意志している自分がいるわけですから。
パウロは死を解放だと思い 足かせをはずしてもらうことだと感じたのである》(〈解纜〉)のではないのです。復活に関係づけられているのですから 死は最終的に滅ぼされるのです。この謎において 矛盾構造の鏡をとおして 仕事がすすむのです。
復活に関係づけられて もはや罪への快活な恐れしかないときにも人は 悩みや苦しみ・要するに試練に遭わないわけではない。けれども 《耐えることを愛する人はあっても 耐えるべきものを愛する人はない》というように 試練に遭うことと――というよりは 海を航くのであるから試練の中にいる 海に寄留していることと―― 試練の悲惨さに勇敢にも耐えることとは 別である。人は 後者からは離れていることが可能。さとりすましていても いいのです。このような人生は 時として 実現するのです。
この人生を あの仕事をなし終えてのように生きて死にゆくとき――なぜなら この肉体は朽ちていきますから―― 解放 解纜と感じるばあいがあるかも知れない。足かせがたしかにはずれることだと感じるのかも知れない。しかし そうだと断定する人は つまりこの想像をたしかにそうだと説く人は 仕事の着工の手前で まだ足かせすらかけられていない。なぜなら 《今が救いの日 今が恵みの時》(コリント人への第二の手紙 (聖書の使信 私訳・注釈・説教)6:2)だからです。そのような想像において仕事――だれもがこれに着手するのではないでしょうが――の手前で ちょうど足のないお化けのように まだ浮遊しているのです。なぜなら 《小説の取材に行く場合 私はようやく 一番苛酷な季節を選ぶのである》(〈その人のように〉)とこのカトリック作家は うそぶいているから。このような――このような――自分と同じように 人を愛せよとこの人は 聞いたと言うのでしょうか。だれもが小説家でしょうか。
《〔インドで癩病プラス象皮病の患者〕は私(=曽野)が白衣を着ていたので 新しく来た女医だと思ったらしく 私にヒンドゥ語で長々と訴えた。私は何もわからずにただ 頷いているほかはなかった。そこにいるのは 人間というより 癩の部分だけが辛うじて生き残っているという感じの生体だった。私は何もできなかった。私は癩になることもできなかった。それでも私は 陽にうたれながら 虚しくこの病人と向き合って坐っていた》(〈その人のように〉)と そのように小説家としての仕事をおこなっているとは言え まだ足かせなく 浮遊しているのです。わたしは 曽野さんが《何もできなかった》ことを またそう報告することを なじっているのではありません。まだ 足もとを見ていないのだと言いたいのです。わたしは カトリック作家の問題を問題にしています。
それだけの時間があるのならば 《最終的に死が滅ぼされる》(コリント人への第一の手紙 (聖書の使信 私訳・注釈・説教)15:26)と聖書に書いてあるのですから この足もと(海あるいは 夜)から始めて わたしがわたしする つまり実験を先駆けるべきです。

  • 実験の結果としての《神はおんぶお化けのようだ》という報告は すでにまちがっています。実験がうまく行かなかったら ふたたび足もとを固めるべきです。

どうして《パウロは死を解放だと思いうんぬん》という解釈が出てくるのか 想像がつかない。経験的に人間は 《死は解放かも知れないな》と一度おもわなかった人がいるだろうか。人びとはこの幼稚から解放されなければならないのです。
(つづく→2005-11-20 - caguirofie051120)