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哲学いろいろ

#9

――遠藤周作論ノート――
もくじ→2005-11-03 - caguirofie051103

沈黙 (新潮文庫)》および《》論ノート

§16 《沈黙》に非ず

わたしはここで 二つの小説作品つまり《沈黙 (新潮文庫)》および《》を中心にして論じることにします。
そしてわたしたちは 日本において西洋(ここではキリスト教ですが)と東洋との出会いが展開されていった時代にあり ここでは徳川時代の初期 十七世紀前半に位置します。
もっとも キリスト教という形をとるものに限らず ヨーロッパと日本との接触とつきあいは 今にまで繰り広げられており この《沈黙》論も 現代の問題として論じないというわけには行かない。このことは すでに十分そのための視野をかたちづくって来たものと考えます。
現代の視点とかんれんするという意味で見ると むしろ最初に 同じ遠藤が同じ問題を次のようなテーマでかんたんに論じているところをわれわれは留意してみておくことができます。

ぼく等の机上には 今 ジャック・リヴィエールと ポール・クロオデルの往復書簡(コレスポンダンス)(《信仰の苦悶》)があります。彼の宗教的苦悩 回宗までにいたる内的な闘いが 時代や場所のことなる我々の分裂や闘いと同じであるとは言いませぬ。しかし かつて彼が魂の秩序をいらだちつつ求めたように ぼく等も秩序を求めています。ただ ぼく等はその秩序欲がひろびろとした探求の路から来るのではなく むしろ死の匂いの漂う凶暴な時代に息づける路を見出そうとする逃避である事に悲しんでいます。


だが 回宗とは長い険しい苦渋の路です。もとよりクロオデルのごとく恩寵の一閃が よくその全存在をゆさぶった人もないではありません。だが二十世紀前半のフランス・カトリック作家の中には まさしく 鮮血淋漓たる回宗史の絵巻を繰りひろげた人があります。
デュ・ボス・ プシカリ・ぺギィ そして亦カトリック者と生まれた故にこれらの形は違いますが 内部回宗の連続である グリーンやモウリヤック等がこれです。
これらの人びとは安易な恢復のために自己を絶対に捨てませんでした。彼等が神に至る道で 最も障害となったのは《自己への誠実 Sincérité à moi-même 》であり ここに彼等の回宗の真摯な悲しみがあり 亦 その作品が単なる護教論(アポロジィ)に堕さなかった理由が存するわけです。
もとより今日の新しい フランス・カトリック文学の問題は たとえばシャルル・ぺギィから《エスプリ》のエマニエル・ムニエまでの系列に見られるように この《自己への誠実》とともに《社会への誠実》を同時に生かさねばならなくなった事にあります。
だが 信仰はまず モウリヤックの言葉通り この源泉から始まり その意味で二十世紀前半のカトリック文学の苦悩は今日のあたらしいカトリック文学者のための血みどろな捨石と踏み台とになったといえましょう。
けれども今 この《自己への誠実》という言葉から我々はだれよりもリヴィエールを思いうかべます。アンドレ・モロアをして《私の知る限りの最も誠実な》と讃えしめた この明徹な青年批評家が 四十年の生涯を賭けてたどった路は 当時のわかい世代の苦悩の反映とも言えるでしょう。ダニエル・ロップスは言っています。《リヴィエールにみとめられた精神的危機は長く 同世代の大部分の裡にある》と。だが リヴィエールにあっては この《自己への誠実》は如何様にあらわれたでしょうか。・・・
遠藤周作:〈回宗の苦悩〉《カトリック作家の問題》1954)

ここでわたしたちは J.リヴィエールにではなく 《沈黙》の中の人びと――フェレイラやロドリゴやキチジローや―― あるいは作者・遠藤周作 さらにあるいはほかならぬわれわれの中にあって キリスト教がいかに作用しているか これを検討してみようという寸法です。
おおよその輪郭――《矛盾構造》という視野――は すでにわれわれのものです。遠藤にあっても 執筆じょうの時期を前後させつつも あの《悪霊の午後》で描かれた一つの視点をもって この同じ輪郭が大前提であると言ってよいという設定です。

  • 無意識の中から引き出されてくる欲望は ほんとうにわたしたちの意思なのか こういった問いかたでも その一つの視点を表わせるとも思います。

沈黙 (新潮文庫)

沈黙 (新潮文庫)

この作品は ここで 題名の《神の沈黙》ということが ほんとうには おもなテーマではないことがまず確認されるべきでしょう。なぜなら 《神は そのしもべたちが迫害を受けることに対して 沈黙したままではないか》との疑問は 最終的に解消されている。主人公ロドリゴの口を借りて そう語られている。

怒ったキチジローは声をおさえて泣いていたが やがて体を動かし去っていった。
自分は不遜にも今 聖職者しか与えることのできぬ秘蹟をあの男に与えた。聖職者たちはこの冒涜の行為を烈しく責めるだろうが 自分は彼等を裏切ってもあの人を決して裏切ってはいない。今までとはもっと違った形であの人(キリストすなわち《復活》)を愛している。私がその愛を知るためには 今日までのすべてが必要だったのだ。私はこの国で今でも最後の切支丹司祭なのだ。そしてあの人は沈黙していたのではなかった。たとえあの人は沈黙していたとしても 私の今日までの人生があの人について語っていた。
沈黙 (新潮文庫) 最終の一節)

わたしの考えでは この作品で《沈黙》の(つまり 神が口を閉ざしているという)問題は 解決されている。したがって その反面の問題は 同じこの一節の中から引き出そうと思えば 次のテーマにある。

自分は――回宗してしまい――聖職者たち(要するに《キリスト教》)を裏切っても あのひと(キリスト)を裏切ってはいない。

であり 同じく

私は――聖職者というあの《仕事》の制度的な専従者ではないが―― この国で今でも切支丹司祭なのだ。(つまり《仕事》はつづいているのだ。)

という命題。すなわち 人間凝視の義務であり カトリック作家の問題の問題であったというわけです。しかも この章の初めに掲げた《回宗の苦悩》の一節との対比の上では 《自己への誠実 および社会への誠実》を想像における問題としてではなく 想像をとおして人間凝視の仕事への誠実といったような形で とらえていくということ。なぜなら 自己へのあるいは社会への誠実といった倫理の問題は この世のどうでもよい事柄に属していたのだから。
言いかえると 《聖職者 あるいは カトリック者》またかれらの《自己への誠実および社会への誠実》といったその限りでの倫理規範は ――踏み絵を踏むことによって――挫折することはあるが 人間凝視の仕事は この挫折の有無にかんけいなく つづくというわけですから。これが 人間にあって キリスト教がいかに作用するかの問題であると考えます。
また キリスト・復活を将来すべきものとして臨む そしてそのとき 罪がおおわれるということの問題。この命題は つねに動態でなければならない。
しかもここでは このような《仕事》を教訓として伝える仕事が 聖職者たちというもっぱらのキリスト教徒たちによって 明るみに出されたのだということを その背景としている。
これが 現代の問題です。

  • あのマルクスも 社会科学をとおして じつは そうしたのだと考えます。もしくは 歴史的にそう生きたと捉えられると思います。

したがってもう一度 整理しようと思えば

私は 聖職者たち――キリスト教あるいはマルクシスムの教義――を裏切ることはできる。
私は たといそのように裏切ったとしても なお 私のうちに あの仕事をつづける力の存続しているのを見出している。

  • 専従の司祭でなくなった今 むしろはっきりと この仕事を実践してゆく生活者としての司祭である。

これが 《沈黙》の主要な課題としたものです。と考えています。
キリスト教あるいはマルクシスムによって明るみに出された事柄が その受け手(社会一般)にとっては まだ隠れたところで想像において保持された ということは その与え手(聖職者にしろ理論家にしろ作家)においてもなおまだ隠れたところで検討されていた ゆえにまず読者が この検討事項を明るみに出して 一般の自由な議論に扉を開いていかなければならない。また このことが 類型的におおきくは 西洋と東洋との出会いによって より一層あきらかになった。このような情況なのだと見られる。

§17 《沈黙》を超えて

ところが 作品《沈黙》の内部の細かい問題は 次の点にあるのです。
前章に《回宗の苦悩》という点をいくらか見ましたが ここで新たな問題は その《苦悩》にあるというのではなく――それが 《仕事》の存続を言い当てているけれども そこにあるというのではなく―― 《回宗》じたいの経過 その具体的な経験過程にあるということ。この回宗――要するに《教義》や制度を裏切るということ――の具体的な経過いかんによって じつは 仕事の性格が決定されてくる。
言いかえると 想像において回宗した者は 想像において仕事を存続して持つ しかるに 想像をとおして自己の虚偽が焼き尽くされ回宗した者は 生きた人間凝視の仕事が あたかもあの《復活》の奴隷となってのように つづく。
この細部の問題に焦点をあててみる必要がある。ここでわたしたちは すでにこれまで見てきた遠藤さんの業績の評価をとおして 遠藤さんの視点にはなお くみすることが出来ないと率直に言わなければならない。
どういうことか。
《沈黙》のストーリにもとづいて 回宗の具体的な経過を類型的に 次の二つに分けてみたいと思います。一つは ロドリゴらのそれ。もう一つは 日本人信徒モキチとイチゾウのばあいです。
モキチとイチゾウの場合は 回宗(転向)を迫られるというとき つまり踏み絵を踏めと迫られたとき その累が村の人びと全部に及ぶのではないかという《社会への誠実としての自己への誠実》に悩んだ そしてこれに際して前もって 聖職者ロドリゴに どうすればよいかを尋ねたのだが かれはこのとき《踏んでもよい》との答えを与えた。ところが これに従って かれらが踏み絵をふんだとき そのあと さらに 《この踏み絵に唾をかけ 聖母は男たちに身を委してきた淫売だと言ってみよと命ぜられました》(沈黙 (新潮文庫)Ⅳ)このときの模様は 次のごとく。

 ――唾かけぬか。言われた言葉の一つも口に出せぬか。
イチゾウは両手に踏絵をもたされ 警吏にうしろを突つかれ 懸命に唾を吐こうとして とてもできぬ。・・・
 ――どうした。
役人にきびしく促されるとモキチの眼から遂に白い泪が伝わりました。イチゾウも苦しそうに首をふりました。二人はこれで遂に自分たちが切支丹であることを体全部で告白してしまったのです。
沈黙 (新潮文庫) Ⅳ)

したがって このあとかれらは 殉教した つまり 殉教というかたちで あの仕事をつづけたということになるのですが これが 《回宗の具体的な経過》の第一例です。
ロドリゴやフェレイラやキチジローら》の第二例は ロドリゴの場合を見ると 次のごとく。つまり イチゾウやモキチと同じように まず《踏み絵》を踏むとき じっさい前もって言うと かれは 想像においてこの回宗を行なうのです。言いかえると 《吾が顔を見る能はじ》と言いつつ この顔を想像において保持し そこに回宗の正当化を行なうという寸法です。ロドリゴはもともと 若いときからこのキリストの顔をあれこれ想像していたという設定であるのですが

その踏絵に私(ロドリゴ)も足をかけた。あの時 この足は凹んだあの人の顔の上にあった。私が幾百回となく思い出した顔の上に。山中で 放浪の時 牢舎でそれを考えださぬことのなかった顔の上に。人間が生きている限り 善く美しいものの顔の上に。そして生涯愛そうと思った者の顔の上に。その顔は今 踏絵の木のなかで摩滅し凹み 哀しそうな眼をしてこちらを向いている。(踏むがいい)と哀しそうな眼差しは私に言った。
(踏むがいい。お前の足は今 痛いだろう。今日まで私の顔を踏んだ人間たちと同じように病むだろう。だがその足の痛さだけでもう充分だ。私はお前たちのその痛さと苦しみをわかちあう。そのために私はいるのだから。
 ――主よ。あなたがいつも沈黙していられるのを恨んでいました。
 ――私は沈黙していたのではない。一緒に苦しんでいたのに。
 ――しかし あなたはユダに去れとおっしゃった。去って なすことをなせと言われた。ユダはどうなるのですか。
 ――私はそう言わなかった。今 お前に踏み絵を踏むがいいと言っているようにユダにもなすがいいと言ったのだ。お前の足が痛むようにユダの心も傷んだのだから。
その時彼は踏絵に血と埃とでよごれた足をおろした。
沈黙 (新潮文庫) Ⅸ)

要するに 想像において 見る能わざる復活を見るというのは 回宗の美化であり 自己の自己による正当化です。モキチやイチゾウはこのことをなさなかった。また かれらは《足の痛み》の想像から 自由であった。肉としてのキリスト・イエス かれは 人間としてこの世の小さな存在であり どうでもよい世界に属しているのです。かれの踏み絵を描かれた形態的な像など どうでもよいのです。
足の痛みなど感じようにも感じるはずがありません。ただ モキチらは 想像をとおして 自分たちの《倨傲な性格のために》その累が村中に及ぶことを恐れた この一点によって制度的なキリスト教から回宗したのです。
ところが  《聖母 いや 一人の人間――どうでもよいのではないものに関係づけられる人間――に 淫売という規定を言葉にする》こと これが 出来なかったのです。
ここでは もはや想像をとおすことは出来なかった。なぜなら これを口にすることは たとえオオム返しのように言うとしても むしろいま目の前の役人その人に 累を及ぼす つまり あの罪の快活な恐れさえ消失してしまう世界に入ることになる これをかれらは よう為さなかった。かれらは 見る能わざる復活の像を この世で見られるとは思っていなかった。したがって 想像の美的世界にのがれることは出来なかった。
しかるに これをロドリゴは為したのでした。そのあとで ――たしかにその後では 殉教するかしないかは まったく別であり――あの仕事がつづくと思ったのです。なお想像においてこれを把握し その仕事が自己に課されていると錯覚したのだと考えます。
ここで イチゾウやモキチが 復活したのです。
キリスト・イエスは永遠の同伴者であるのではない。したがって たしかにかれは その限りで《沈黙》していたのであり また 《一緒に苦しんでいた》のではない。いや 苦しんでいたというのは ロドリゴのどうでもよい想像に属している。かれは かれの顔を見たと錯覚するのです。《永遠の同伴者である》と。
わたしたちは このような《距離感》のあるなおキリスト教と 能動的・戦闘的にたたかわなければならないと考えられました。これは カトリック作家・遠藤さんの問題です。また きだみのるの言ったように 《にっぽん部落》の問題です。
キリスト教への回宗 あるいはキリスト教から日本教への回宗(マルクシストたちにあっては 転向)そのものの問題ではなく 回宗の性格・その具体的な経過の問題であり この回宗の苦悩の問題ではなく したがって教義から来る苦悩の問題ではなく 人間凝視の問題 つまり将来すべきものとしては 復活の問題であると考えられます。
遠藤さんは かく言うわたしを 《あなたの倨傲な性格のために 善意の人びとを多く傷つける者だ》と言うことが出来る。ただわたしは この 《善意》の安全の道が 死につながっていると だから人間の善意とか倫理とかいうことは どうでもよい――このように言って初めて善意でいることが出来る――と言います。遠藤さんは この仕事を想像においてつづけておられる。
ロドリゴは 上の引用文のすぐあと続けて

五本の足指は愛するものの顔の真上を覆った。この烈しい悦びと感情とをキチジローに説明することはできなかった。
沈黙 (新潮文庫) Ⅸ)

と述べている。つまり遠藤は かれにそう述べさせている。善意の人びとは この想像世界――ありもしない美的倫理――にすべからくとどまるべきであると言ったのである。なにゆえにか。
まさか この美的世界の想像――キリストの顔を見ること――が出来なかったイチゾウやモキチは その後 水磔(すいたく)の刑に処せられ 殉教してしまったが それは バカなことだと言うためではないでしょう。ロドリゴは この刑――数日間を はりつけにされて海水に浸せられる――のとき そばで何もしないで見ていた。イチゾウらは 踏み絵を踏むとき そこに美的世界など感じなかった。しかるにロドリゴは これを感じ 踏み絵をそのまま肯定したというのだろうか。そこで その後の刑を免れた。《去れ。去って なすことをなせ》と 《復活》はこのかれに言わなかったろうか。そのかれは 《五本の足指が踏み絵の上を覆ったとき 烈しい悦びと感情を伴った》と《復活》は遠藤さんに書かせたのです。なすことをなせと。
わたしたちは このように善意の人びとを信じ 欠陥を憎み 傷つけるのです。
ありもしないもの もしくは どうでもよいものに美を見出し安全の道を確立し 倫理的に生きよというなおキリスト宗教と たたかうのです。
だれも殉教のために殉教するのではない。
(つづく→2005-11-12 - caguirofie051112)