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哲学いろいろ

#33

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§38(デュマ:ダルタニャン物語の登場)

アレクサンドル・デュマ(1802−1870)の

ダルタニャン物語 全11巻

ダルタニャン物語 全11巻

とよばれる小説すなわち

三銃士 (少年少女世界文学館 18)》1844
《二十年後》1845
《ブラジュロンヌ子爵》1848−50

なる三部作であるが これらも 十七世紀の時代をあつかっている。とうぜん 十九世紀の人である作者デュマの視点が入っている。一人の歴史学者との共同作業で 当時に知りうる歴史事実にもとづいたとも言われている。(ただし まちがいも指摘されている。)
ホッブズが《人は人に対して狼である》ということを あらためて持ち出したのと関係があるのかどうか 生活の通俗的な問題として一つに 当時ではまだ十分に 決闘の精神が生かされていた。直情径行の人 ダルタニャンは 二十歳前に田舎からパリに出かけたときから 決闘の連続である。(ちなみに マックス・ウェーバーの決闘歴は 有名である。)
これは マキャヴェルリ主義とは別のものであるようで 互いに同意し対等の条件で闘うなら 相手がそれによって命を落とそうと そこには ある種の仕方で一定の合理必然がつらぬかれると考えられ それが 激情に走ったものであっても(たしかに情念の問題が 通常 大部分を占めると思われるのだが) 当事者もそして一般の人にも 心の痛み・あるいは疾しさを 感じないか 感じてもゆるされることだと されていたことを意味する。当時すでに 決闘はご法度になっていたのだが ヨーロッパではそのような生活態度の一端が けっこう長くつづいたようである。
これを 生活態度と呼ぶべきかどうか じっさい 問題であって それは われわれが深入りしないとしてきた社会闘争の領域での検討事項であるものなのかも知れない。なぜなら やはり まず《〈わたし〉が存在しないのなら 事は始まらない》のだから 決闘の精神は――もしくは 社会闘争の必然性とやらは―― けっして合理必然と呼べない。
ここでは 社会闘争の領域にかかわるところの生活態度を――そういう側面からの主観動態の問題を――あつかおうということである。触れざるをえないかも知れない。
けっきょくは 原点(人間・主観動態・わたし および主観基礎=人間学)および出発点(経験行為としての方法基礎)の問題であり これが こんどは社会偶然の中にすっぽり入っている場合を想定しての話である。また 出発点の方法基礎には 《合理思考(知解)の経験科学的な認識の客観性》および《主観基礎の愛(意志)の 関係としての側面 たる民主主義》の二つを 提出していたと思う。
主観基礎には 知解の合理思考と 意志の愛と。出発点の方法基礎には 《経験科学による合理必然性の知解》と 《経験主体の民主主義という行為(意志)原則》と。民主主義の意志は 経験科学による合理必然性を問い求めようとする姿勢 問い求め相互理解に立って行為しようとする姿勢 また さらに問い求めを怠らない姿勢である。
このような原点と出発点とを取り巻く領域は 習慣とか慣習とよばれる経験世界である。闘争しなければならないわけではないが 社会的な闘争も過程される領域がある。また 表現としては この領域こそが 《必然(必然の王国とか その流れ)》とよばれることがある。大きくは社会偶然とわれわれが呼んできた世界のことだ。人間的な論法では 基本的に 社会偶然ととらえていく。
合理必然が通れば そういう川が この大きな社会偶然の海に――おかしなたとえだが――流れる。非合理ないし不合理な意志行為である場合でも その社会偶然関係は 意志による自由な選択であるという前提によって 必然的な流れをもっていく。自己答責性 または 他者への応答の責め そのような相互の連関を持っていく。(説明責任という言葉も生まれた。日本にはなかった)。

  • ゆえに 無効の行為であっても 一定の実効性を持って 社会的な行為事実とはなっていく。ただしむろん できるならば・つまり原則として 現状復帰が至上命令である。

だから ここでは たしかに《和の精神》こそが 大事なのであって つまり その限りで道徳( morale ∞ moeurs 品性・習俗)がであって それは 主観内基礎主義などというものによって 経験行為をただちに直接一方的に おこなわないことを 意味している。また そういう意味でのみ 習慣領域での和の精神が とうとばれる。つまり これは 民主主義という出発点の原則である。その消極的な側面ではある。
いまでは 決闘の精神も社会闘争主義も いづれも《悪の〈ように見えるもの〉》とは見ないし 《必要悪であって それによっても 善が生じる場合がある》などとも考えない。社会習慣じょうでも そういう考え方になっている。決闘の精神は 社会習慣じょう 《悪の〈ように見えるもの〉》ではなく はっきりと 悪だと考えられている。《罪によって罪(自己の責任)を避けてはならない》というのが 人間学の一般理論である。アウグスティヌスがすでに言っていたと思うが ここでデカルト以降 この存在の原点が――またはホッブズ流に 《自然権生存権》が―― 基本である。そのことが 実現されつつある。このような大前提で 主観動態が その生活態度ないし社会生活において 一般に《習慣》と どうかかわるか これが 議論の焦点である。つまり 原点からの出発・進行のことであるが 議論の焦点としては やはりまだ出発の時点に踏みとどまる。


たとえばダルタニャンは――ダルタニャンという人物は実際にいた。ただし 話は小説の世界のことである――けっきょく国王に属(つ)く人物である。時代が 君主国家という社会形態をとっていることも然ることながら この君主という主権者に味方して 自己の生活の場を問い求めることは 生活態度の習慣の領域のことである。ホッブズは或る意味で この自己の社会慣習の領域から離れていた。じっさいにはありえないのだけれども できる限り――理論上――そういう生活態度をとろうとすることも考えられる。
言いかえると 主観動態の 経験行為に対する関係は 生活態度においてどういう習慣上の立ち場をとるかということが 焦点となる。むしろ単純に そうである。そして 習慣――社会偶然的な一種の必然の流れ――に対しては 極力 一定の立ち場をとらないというのも 一つの 習慣への 自己の関係であり態度である。
ということは 社会闘争(闘争とは 社会的な対立関係の展開過程といった 幅広い意味であるが)における立ち場――または 階級的な位置――は まずは 相対的なものであることであった(§32)。それゆえに どういう態度をとるかは 自由であり その自由な選択は これがまた 習慣たる社会偶然に対して 人間の合理必然の新しい水をそそぎかけうることを 意味するはずである。社会一般の習慣としての必然の流れと 個別的な人間の新しい合理必然としての水の注入とが 考えられる。
われわれの主人公ダルタニャンは 必ずしも新しい水をそそぎ入れない。むしろ かれの親友となる三銃士たちとも同じく――決闘の精神に立つかぎりで――旧い・またはその現在の《偶然必然》の流れに 乗っていくか それを利用していくかである。一般的な偶然必然の流れにのっていく場合でも 個々の人間は 新しい主観動態であり 別の人格がこれをおこなうという限りで 生活態度の 手法の 新しさが出て来てはいる。
ダルタニャンとしては 《直情径行で無欲無私》というところが 流れの受け継ぎの面で 新しさを出したものと思われる。ごく単純に 習慣の問題は この点を 出発地点とするものだと考えられる。出発点基礎でないとしても。ということは 合理必然と民主主義なる出発点の方法基礎は 平俗的な習慣じょうの出発地点のうえに または その中にある。思想史や経済史が――つまり人間学の理論および実践の新しさと 経済的な利害関係とが――からんで この習慣一般そのものに対しても 社会闘争やいわゆる改革が おこなわれうるものと考える。
《直情径行で無欲無私》というのは どちらかといえば 主観心理・経験形式に属しており《人に性格などない》(漱石)と言われうる時の《性格》の問題である。ただ そうでもあるゆえに ダルタニャンは 《この性格が わたしする》のでは本当にはなく  《かれの〈わたし〉がわたしする》はずなのだから 習慣の流れは同じでも それに掉さす主体は――あるいは船は―― 新しいものとなっている。単純に 別の人格が現われるということだが 時代の習慣の問題は ここから始まる。問題という場合には。
ホッブズは 社会習慣の海へは必ずしも出ていかないで 高等遊民かどうかは知らないが 理論家として 港にとどまっていた。逆に言うと そうせざるを得ないような自己の理論を立てた。ミルトンは この流れを新しく変えようという立ち場を取って 出かけた。
ダルタニャンは 流れに乗った。三銃士たちは 年長のアトスが 隠退志向を持ちつつ 同じく乗ったし 人のよい大男ポルトスが明らかにこの流れの中で泳いだし そして神学家アラミスは のちに聖職に入り しかも この流れを復興させようという例のジェズイット会の司教にまでなるに至った。四人は のちにフロンドの乱(1648−53)で 王党派とフロンド派とに分かれて闘ったり 王の銃士隊の副隊長を経たダルタニャンは ミルトンらのピュアリタン共和政にあらためて対抗するイギリス国王チャールズ二世の復位(1660)に力を貸したりするが まずはこの習慣領域での立ち場は 相対的なものである。人間が 別の人格として 新しいものとなっている。
流れを変えようとする新しいほうの動きの場合も むしろ それが 前提である。なぜなら 大きな流れの中に新しい小さな流れが出てくるのだと思われるが この新しい流れのゆえに――あたかも この新しい潮流こそが わたしの人格だとは 言えないから―― 闘争・改革するのではない。新しい流れを捉えて それを潮流としたいという方向で 新しい水つまり人間学を始める場合も 流れ(習慣)と水(人間)とは 別ものであり この新しい小さな流れの起こったことじたいが 水(人間)の新しさによるものであったはずだから。
習慣から見ると 出発点は――出発点が―― つねに新しい。これが 実際じょうのどういう立ち場をとるか――つまり簡単には 旧いのと新しいのとの選択――に先行する。習慣への出発点が 出発地点(情況・心理共同のあり方)と出発点基礎(主観・わたし)とに分かれるとするならば 一般に 前者が古く 後者が新しい。両方ともに旧い場合も あるいは 両方ともを新しいものにしようとする場合もある。だとすると 抽象的な議論(ないし理論)としては さらにこの出発点に 人間の原点が 先行する。旧い立ち場のダルタニャンらも 原点の人間としては あたらしい。というか ミルトンや あるいは新しい生活態度を模索したオラトワール派やヤンセン派の人びとと 同じ人間であり その主観動態は 互いに相対的なものである。同時代人だということは そういう先行原点に立っていると言わなければならないものと思われる。時代を同じくしなくとも じつは そうなのだ。
習慣に従うかそれを変えるかの生活態度と 人格としての生活態度とは それらの間に一定の距離があり 区別できるものとおもう。後者が前者のいづれを取るかは 相対的なものである。まず そうである。いづれをとっても 人格の別であることによれば 時代の変化をもたらすはずである。時代また習慣という社会総体と 習慣のとしても主体である人格・生活態度。前者は 後者によって変わる。のだが 後者が 前者の既成の習慣に従うか それを変えるか いづれの立ち場をとっても それは 相対的なものであり 全体として前者の社会習慣は 変えられていく。主観基礎の人間学への還元主義に立たないならば そうである。これが 出発点である。

  • ただし 旧い習慣の立ち場をとることは その思考内容としては 一般に批判されうると思われる。

そして この時代に 出発地点(環境)としての社会習慣(それが 旧いこと)を別にして 出発点の方法基礎たる 合理必然と民主主義とは 徐々に 実現されようとしつつあった。だから たとえば――のちに見るように―― ダルタニャンらの旧い習慣上の立ち場も たとえば決闘の精神を持っていたとしても 互いの同意や対等を内容とする条件といったかたちで民主主義の原則に立とうとしている。少なくとも こうなってくれば 習慣上の 新・旧二つの立ち場は 互いに相対的なものであることが まずは 言われなければならないし またその点をこそ 実現させていくことが 出発点の方法基礎の問題である。民主主義の原則は もう一方の合理必然の行為関係たる原則に対して その場をつくりうるか あるいか それの方向性をもった器である。
ゆえに 保守と革新とは 相対的なものであり まずはそれらの総体として 社会習慣は 進むし変化する。新世界アメリカの地で まったく新しい社会習慣をつくり始めようとする場合でも 旧大陸との習慣関係の総体はこれを 引きずりうる。だから 古くてよい ということにはならない。
人間学基礎は ここで――つまり時代の習慣に対する態度として―― それゆえ民主主義を打ち出す。軽視するわけではないが 必然合理の原則は それじたい比較的 自明である。これらを こんどは――つまりあくまで習慣上の観点として―― 和の精神と言ってもよい。やはりそういう愛(関係)である。われわれは 垂直的に 主観内基礎と経験科学の方法基礎とを言ってきたことが ここで 水平的に 後者の内容として 民主主義と合理必然との二つの原則として 把握されるのを見る。なんなら 生活態度の経験行為の形式として 慈悲と言ってもよい。合理必然の原則にかなうような民主主義的な関係行為のことでなければ 慈悲といった理念を言うのは 幻想だろうから。
ダルタニャンの時代では 決闘の精神を容れて その行為の内容としても 民主主義的であろうとした。限界をもってだが すでにこの精神(つまり慣習)にも 民主主義の原則を見ようとしているし 実現させることを常識としている。
しかるに――つまり原理的にはあくまで 人間学基礎のほうの民主主義の先行と そして習慣の後行との関係として―― 習慣の 保守と革新との社会的な立ち場の 対立・敵対とその展開がある。かんたんにくどいように述べれば 現代では 保守も革新も 民主主義を言う。これは 人間学基礎の成果であり 平等な人間の相対性が 時代の――そして 階級の――相対性を見ており 時代の社会偶然に対して 人間の自由な合理思考が 合理必然をうちだし そういった人間と人間との関係(愛)が 時代の習慣の問題として 民主主義というとき 自由に対等に 保守と革新とのいづれかの立ち場を採りうる。価値自由の認識として 出発点として こうだと思われる。総論として こう言わざるをえない。ここで確かに 人間学の主観基礎とあい結びあって これに立つものと思われる。
保守と革新というとき それは 具体経済的な所有の平等かそうでないか 社会行為の自由かそうでないか 政治のうえでの民主主義かどうかに 大いにかかわるが それは 社会闘争そのものの問題である。習慣に対する生活態度の出発点を取り終えたあとの問題である。あとさきは むろん 時間的なではなく 原理上のである。つまり そこに それぞれ一個の人間の 主観動態が過程している。また この原点を愛するゆえに 習慣上の行為をおこなう。さらにもっと このあたりまえのことを言おうと思えば 人間的な論法では 自由な主観基礎の確立の先行に立って 民主主義的なおよび合理思考の習慣行為が 後行して 展開される。先行・後行は 原理的にである。
社会闘争そのものとしての保守か革新かは 一般に 政策の実施の問題である。これに行き着き 行き着いている。社会制度ぜんたいの変革の場合は ちがうとは言えない。社会制度という偶然形態ないし習慣形態は これが 人間そのものではないから。《人間は社会的諸関係の総体だ》というときには 抽象一般的に 出発点のことを言っている。われわれは おのおの《わたしがわたしする》の原点に立たなければいけない。出発点は そのときむしろ 自明であり必然である。先行と後行との関係なのだから。これが 人間学基礎の生活態度である。習慣に対応する生活態度は 旧・新いづれをとっても 相対的なものである。これが 習慣形成への出発点である。じっさい 具体的な政策の取り決めも実施も またその改革の取り決め等々も 出発点原則が 有効である。主観動態は 経験的に このように生きる。だから 社会闘争そのことは まだ 深入りしない。

§39(ダルタニャンにとっての《アストレ問題》)

羊飼いどうしとしての男セラドンにとっての女アストレは けっきょく騎士道において出世をゆめみるガスコンの青年ダルタニャンにとって イギリス生まれの女性ミレディ( Milady← my lady )であった。ガスコーニュは 例の言語学じょうの孤島をなすと言われるバスク地方である。

  • スペインにもまたがっているが ガスコンとバスクとは たとえば人名の Guillaume ∞ William のように 子音の/ g /と/ b(v, w) /とが入れ代わっている。

ただしこの田舎から ルイ十四世の父親のルイ十三世 およびその父のアンリ四世という国王が出た。アンリ四世は もともとプロテスタントであったが 宗教戦争に終止符をうつため(ナントの勅令1598) カトリックに改宗したという人。国王側近の銃士隊の隊長も その時 ダルタニャンにとって同郷のガスコン人であった。
この章では 社会闘争をとる習慣の領域への出発点の議論を継ぐ前に ふたたび人間学基礎についてである。つまり愛を 両性の関係としてあつかう場合。つまりアストレ問題は ここで ミレディ問題である。

年のころ二十一・二と見える妙齢の婦人 / 若い美しい婦人 / 青ざめた 金髪の女性で 渦を巻いた長い髪が肩の上に垂れ下がっている。もの憂いような青い大きな目 バラ色の唇 真っ白な手。
(三銃士 1。次の絵とは合っていない。)

最初の出会いで ダルタニャンに こう映ったひと。もちろん 社会闘争の側面も からんでいる。ミレディは 国王ルイ十三世にならんで権力をふるおうとする枢機官リシュリュの手下となっていて 秘密部員として《活躍》する。国王と枢機官とが対立するといっても――そしてその限りで社会闘争がくりひろげられると言っても―― 二人は 支配者の位置にいて その意味で互いに対し民主主義的にふるまっている。そして 旧い習慣の流れの中で 主体は新しくなるという意味で 二人それぞれの部下との関係が錯綜するとき いくらかの社会闘争が繰り広げられる。
だけれども ミレディにかんしては 人間学基礎が 問題にされている。作者デュマは この女性に 三銃士のひとりあのアトスの 元妻であったという習慣領域での立ち場をとらせた。アトスは その当時 ドゥ・ラフェール伯爵であった。このダルタニャンの親友となるアトスにとっても かのじょは アストレ問題なのであった。なぜなら セラドンが別離を経験するように ドゥ・ラフェール伯爵も けっきょくそのあだし心のゆえに かのじょミレディと縁を切った。この愛――または《社会をつくる》の問題――が あらためて ダルタニャンにとっての生活態度の中で 尾を引いていく。
ダルタニャンあるいは三銃士たちを含めてが ミレディをどう認識し どういう態度をとったか。アトスが過去において ドゥ・ラフェール伯爵として その妻ミレディの正体を知り どういうふうに別れ どう対処したか これを物語りにゆだねて ここでは端折る。
信教の自由をうたったナントの勅令にもかかわらず ユグノー(フランスのプロテスタント)は闘わなければならなかったのであり その国の最後のかれらの拠点ラロシェルでの攻防戦(1627−29)を 向かえなければならなかった。ちなみに あまり関係ないが 一六二七年は デュルフェの《アストレ》が完成した年である。
これは 枢機官リシュリュの仕掛けた戦いであり この大西洋岸の港町ラロシェル陣には 新教の国イギリスも味方したのであり リシュリュにとってフランス国の内外にわたる威信がかかっていた。ルイ十三世の王妃アンヌ・ドートリッシュをめぐって イギリスのバッキンガム公爵と 恋またはやはり政治の支配権を リシュリュは争っていたからだとも デュマは書いている。
要するに このラロシェル包囲戦に ダルタニャンらも従軍したのであり リシュリュは ここでスパイのミレディを走らせて イングランドに渡り バッキンガム公(国王チャールズ一世の首相である)を 手を引かすか 暗殺するかすることを命じた。この策略は ダルタニャンらにかぎつけられ 向こうのイングランドには ひそかに伝えられた。ミレディは 捕らえられたのであるが かのじょは 見張りをしていたピュアリタンの青年を――つまり 禁欲的で任務に忠実な男を―― 幽囚の五日を過ぎる頃 ついに たぶらかし 手なづけてしまった。その手法は 神学を交え 相手の信仰に訴えるのである。結果 このピュアリタンは バッキンガム公を 刺し殺すというおまけまでついた。この ミレディの用いた手練手管も――なぜなら 言ってみれば 《本心から嘘をつく》ことにかけて その人格としての正体があらわれるようである これも―― 詳細は 作品にゆづる。
とすると ダルタニャンらは かのじょにどう対処したか。ダルタニャンは アトスのように かのじょに近づいたのであるが そして 論内の――人間は相対的な存在であるゆえに 論内の――しかも論外として 付きもせず離れもせず かつ 社会闘争の面でも 明らかに対立しているし 《論外》だと見なければならないということは 人間学基礎の面でも 敵対関係にある。

  • 論外とかいうことは もちろん主観的なものである。

そして こういう場合に どう対処したかということは 人間学基礎としては すでに答えは出ているし 実践していたものである。つまり セラドンの場面を例として 論外だとたとえ主観的にせよ 判断した場合は――なぜなら そのコミュニケーションが 自由な合理必然の関係としては 成り立たないと判断しているのだから あとは 民主主義の原則として(つまり こちらのほうの原則は なくなるわけではない)―― ほうっておくのである。それよりほかにない。或る意味で――ある意味で――(つまり それは 習慣の領域の中にもあるところの ならわしや道徳また法律を 相手が犯さない限りで また犯しても こちらの対処の問題としては こちらに迷惑がかかってこない限りで〔とまで譲歩して〕) 好きなようにさせる。もちろん 仕掛けるわけではない。わざと 好きなようにさせるというわけでもない。
したがって こういう場合に この すでに出ている答えを超えて なにか対処するとしたなら それは こんどは 習慣(社会闘争)そのものの領域においてなのである。これが いいか悪いかは 時代の問題である。主観真実が抜け落ちていては だめだが つまり 主観真実の合理必然の行為として よいと考えて おこなうわけだが それが 正しいかどうかは 時代の問題である。その社会偶然の過程に われわれの理解しがたい・あるいは解き明かしがたいなぞの必然が見られるかどうかは 議論しがたい。理性の思考をこえる部分がある。
ただし 時代の問題として その習慣の領域で 明らかなかたちの行動として対処したということは その主体の主観真実の問題もさることながら あくまでやはり時代の問題として――なぜなら 時代も変化し進展する―― 理性の思考による大方の判断を俟たなければならないし 受けなければいけない。
われわれは 次のようなダルタニャンたちによるミレディに対する《裁き》を その十七世紀の人間に立ってみて どう考えるであろうか。死刑の問題そして これを私刑として執り行なうことの重大な問題が そこにある。――三銃士やさらに他の関係する者たちとともにダルタニャンは ついに ミレディを捕らえ 自分たちで かのじょの罪状を明らかにし 裁判をおこなうまでに到った。

――・・・ダルタニャン君 まずきみから罪状を挙げたまえ。
――神と人間のまえに わたしはこの女を訴える。昨夜息を引きとったコンスタンス・ボナシューを毒殺したかどによって・・・。
〔《われわれはそれを証言する》 二人(ポルトスとアラミス)は声を合わせて叫ぶ。〕
  神と人間のまえに わたしはこの女を訴える。ヴィルロワから ぶどう酒を送り 偽手紙を添えて友人から送られたもののようによそおい わたし自身を毒殺せんとしたかどによって。・・・
そこでウィンター卿が進み出て
――神と人間のまえに わたしはこの女を訴える。バッキンガム公爵を暗殺させたかどによって。・・・
アトスは言った。
――わたしはこの女がまだ娘だったころに結婚した。わたしはこの女に財産を与え 自分の名を与えた。そしてある日 わたしはこの女が火印の刑を受けていることに気がついた。この女は左の肩に百合の花の刻印を押されていたのです。
・・・
赤外套の男が進み出た。
――・・・わたしはリルの首斬役人です。これからわたしの身の上話をお聞かせするといたしましょう。――この女は むかしもいまと同じような美しい娘でした。タンプル・マールのベネディクト会の修道院の尼さんだったのです。ある素直な 信心深い若い僧がこの修道院の教会に出ておりました。この女はその若い坊さんを誘惑しようと思い立ち なんなく成功したのです。この女にかかったら どんな聖人でも誘惑されたに違いありません。
  二人とも神に誓いを立てた身である以上 その誓いは神聖で 取り消すことはできません。このような関係がずるずるべったり続いたら やがて身の破滅を見るのは必定です。女は男を説き伏せて その土地を逃げ出すことになりました。しかし 手に手を取って駆け落ちし だれ一人知る者のないよその土地でのうのうと暮らすには まず先立つものが必要です。あいにく二人とも持ち合わせがありません。若い僧は聖器を盗み出して 金に代えました。だが いざ二人でいっしょに逃げ出そうというときに つかまってしまったのです。
  一週間後 女は牢番の息子を誘惑して脱獄しました。若い僧は十年の禁錮と火印の刑の宣告を受けました。わたしは リルの町で刑の執行人を勤めていたので 罪人に烙印をしなければなりませんでした。しかも みなさん その罪人は他ならぬわたしの弟だったのです。
そのとき わたしはこう考えました。この女が弟を誘惑し 弟をそそのかして罪に追いやったのだ してみれば共犯者以上になるわけだし すくなくとも同じ刑罰をうけるのが当然だろうと。そう決心すると 女の隠れた場所はうすうす見当がついていたので さっそく探しにかかり まんまと行方を突きとめ 高手小手に縛り上げた上 弟に押したのと同じ烙印を押したのです。
  わたしがリルへ帰ると その翌日 こんどは弟は脱獄しました。わたしは共犯者だと見なされ 弟がつかまるまで 代わりに監獄へ入れられることになりました。弟のほうは わたしがそんな判決を受けたとは夢にも知らず 女のあとを追って いっしょにベリーへ逃げ そこで小さな司祭職にありついたのです。女は妹だということにしておきました。
  そうこうするうちに その土地の領主がこの妹だという女を見初め はげしい恋におち ついには結婚の申し込みをするほどになりました。すると女は最初に誘惑した男を捨て 新しい恋人といっしょになり ラ・フェール伯爵夫人となったのです。そして伯爵はそのために一生を棒に振るような結果になりました。・・・
〔みんなの視線はいっせいにアトスの上に注がれた。・・・〕
  そこでわたしの弟は 絶望のあまり気違いのようになり 女のためにいっさいのものを 名誉も幸福も失ってしまった以上は いっそ一思いにこの世と別れを告げようと決心して リルの町へ帰って来ました。そしてわたしが弟の代わりに投獄されているのを知ると すぐ名乗り出て その晩 地下牢の風抜き窓で首をくくって死にました。
  するとわたしに刑を宣告した人たちも 男らしく約束を守って 弟の死体検査がすむと さっそくわたしを釈放してくれたのです。
  わたしはこの女を右の罪状によって訴えます。女が烙印を押されているのも こうした事情によるのです。
――おい ダルタニャン きみはこの女にたいしてどのような処罰を要求するか?
――死刑。
――ウィンター卿 あなたは・・・?
――死刑。
・・・
三銃士 (少年少女世界文学館 18) 35)

だからこれは すべて 時代の問題である。主観真実 主体の責任も また或る意味でその権能も あるわけだが やっている行為は すでに時代の問題である。ただし 《まず〈わたし〉が存在しなければ 事は始まらない》とき 処罰としても(合法的としても) 死は 時代の問題を超えて(または それに先行して) 人間学基礎の問題である。ありつづけるはずだ。
これを別にして――あたかも別にできるとして―― 事はここで すべて 民主主義的に運ばれた。つまり 王党派 すなわち旧い流れにのっかる人たちの間にも 習慣領域への出発点たる民主主義は ここに見られるとも思われる。われわれの再々確認しようとする新しい生活態度の問題として。
私刑の問題つまり自分たちで勝手にやっていいかどうかについては この時代という範囲内で 小説の中では ダルタニャンは 枢機官リシュリュに詰問されたとき リシュリュがミレディに許可して手渡した権限を証する次の紙片によって 自己を弁護した。

この書類の携帯者は 余の命令により 国家のために行動する者なり。
一六二七年十二月三日     リシュリュ

枢機官はこの二行の文句を読むと深い物思いに沈んだ。そして紙片を握りしめたまま ダルタニャンに返そうともしなかった。
《おれをどんな刑罰で殺そうかと考えているんだな。ままよ!貴族らしい死にかたを見せてやろう》とダルタニャンは心ひそかにつぶやいた。・・・
三銃士 (少年少女世界文学館 18) 37)

リシュリュは こんどはこのダルタニャンを手なづけ味方にしておこうという心算がなくはなく かれを銃士隊の副隊長に任命するということになった。(実際のダルタニャンは 一六五八年に そうなった。)
(つづく→2005-10-27 - caguirofie051027)