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哲学いろいろ

#23

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§21(ホッブズ

ホッブズの国家理論は――とボルケナウは つづけて述べる―― 国法にかんする相互に敵対関係にある根本見解の綜合である。かれより前に 自然法論者と契約論者との対立が非常に激しかった。・・・ホッブズは ふたつの立場を統一した。・・・だが〔かれは自然法にかんして〕・・・二重の自然法概念を あきらかにする。・・・
・・・すなわち〔一つに〕国家は 人間の欲望にとって偶然的なもの――人間の頭脳(理性)をこえてかれらに強制された かれらの行為の結果――〔という《自然》〕として あらわれるはずだというのである。だから 主権を構成する第二の自然法において ふたたび 合理的明証的で規範的な自然法が現われ・・・る。
封建的世界像から市民的世界像へ§7・〓 pp.564−565)

これは 議論を途中で打ち切ったものであるが 一方で《現実主義的な観察》であると言えるかも知れないけれど 他方でほとんど無味乾燥なものである。と結局 ボルケナウも とらえているようである。どうしてホッブズにおいて このような省察と理論――だから一歩まちがえば いつでもあのマキャヴェリの議論へ向かう――が 帰結されたのであるか。ホッブズの主観基礎との関連に戻ってみると――。

カルヴァン主義の二つの基本教義 すなわち 人間の劫罰と予定は 完全に ホッブズの理論と一致している。・・・ホッブズは 超地上的なもの(ないし 生きた主観動態のなぞ)を 〔神〕概念的に把握することの不可能性を説くが 一方 カルヴァンの神の教説の中心概念は 隠れた神 Deus absconditus ということである。けれどもホッブズは その不可知論から 人は行動においてあの不可知な神にわずらわされることはないという 実践的には無神論的な結論を導き出した。〔しかし カルヴァン主義者は 現世での禁欲について厳格に宗教的である――宗教的である――〕。
(§7・〓 p.546)

われわれの言う生きた主観動態は それじたいで なにか最終的な根拠(原因)ではないであろう。ゆえに それは なぞを持つ。なぞとは 不明瞭な寓喩であって 寓喩という点では 理性によって認識しうる主観基礎が 提示されうる。不明瞭という点では――ないし 《主観基礎としての生きた方法の認識は まだそれでも 生きた方法じたいではなく その概念としての代理である》(また それゆえに 理性=合理的な比例も 不明瞭の中に明瞭な部分を見出す道具としての方法基礎である)という点 さらには それの極論的な意味での《不可知》という点 これらの点では――
最初にかかげたホッブズの社会観の一面にも 通じていくものがある。おなじくあるいは カルヴァンのえらびの予定説(この場合は 不可知ゆえに 現世の生活態度において宗教的・倫理的に 禁欲を柱とする)にも 通じていく一面を持っている。ただし この場合すでに見たように 主観基礎から外の倫理へいたるまでのあいだには 一定の距離がある。
ここでホッブズは なぞの不明瞭から不可知をみちびきだし 代理表現としては認識しうるところの主観基礎を とおりこして 外の経験世界へ 直接すすみ その自然世界では 《主観の恣意(偶然性)》と《主観どうしが契約しあったとする限りでの法規範》との二つを とりだし かかげた。ということだろうと思われる。
また ただし 経験世界におけるその一面とされた合理主義的な自然法――特に これによって国家主権が立てられ それにもとづく社会倫理が説かれる――は 《人々はうまれつき平等である》(リヴァイアサン〈1〉 (岩波文庫)1・13)というところの主観基礎に やはり もとづいている。これは 法(法律)が あるいは合理思考ということが もともと 主観基礎という方法要因にもとづくことの結果である。主観(主観基礎)には その概念代理として 理性がある。
このホッブズについて ボルケナウは とまどっている。

ホッブズの体系は 純粋な権力のなかで理性的なものを確証することに 役立つものとみられうる。

  • 《純粋な》というのは 合理思考の範囲内でということだ。

しかし ブルジョア的ペシミズム(つまり カルヴァン主義へ行かないところの 神の・ないし主観動態の 不可知論)のもっとも偉大な成果は ブルジョア的ペシミズムが オプティミスティックな緩和に撹乱されず しかし同時に自己自身(自己自身!)について反省すべく強いられているところでのみ あらわれる。これがパスカルの業績であり かれは 思想史のこの全時期を総括するのである。
(§7・〓 p.576)

などと――ホッブズ論の総括で――言っている。そしてこれは それとして ボルケナウの 思索=模索ではなくして 主張をあらわしているようであるが わたしとしては ホッブズには かれなりの主観基礎があったし 表明されている(ひそんでいる)ように 思われる。カルヴァンにとっては 《隠れたる神》という神学の表現における一主観基礎であり ホッブズにおいては かれ自身の主観基礎が 隠れている。
すこし図式的になりすぎてきたけれども ホッブズ自身のことばに分け入って これをとらえておきたい。

     ***

ホッブズは 《リヴァイアサン〈1〉 (岩波文庫)》に限っても 人間論――ないし広くとって人間学――をあつかっているし 神学(もしくは神学での議論)をも十分におこなっている。ボルケナウは ホッブズがともかく一般にただしく評価されていると見たからかのように この点 多くを語っていない。
ホッブズは 《リヴァイアサン〈1〉 (岩波文庫)》のラテン語版(その日本語訳も容易に入手できる)の〈付録〉の中で ボルケナウの言う《不可知の神》(つまり 《人間の主観動態のなぞ》)の点を その本文(全四部)のどこよりも明確な表現で ふれたようである。とわたしは考える。ホッブズ自身の表現は しかし むしろ逆説的である。まず

ところで われわれはすべて 大きさ〔量〕をもつ。大きさのあるもの quantum が 大きさのないもののなかに in non quanto あることができるか。
(〈リヴァイアサンラテン語版)への付録〉第三章 訳書p.317リヴァイアサン 4 (岩波文庫 白 4-4)所収)

ここからホッブズの中へわれわれは 分け入りたい。
まずこの一つの命題は その推理(合理思考)を発展させていけば たしかにわれわれ人間の自己認識の基礎をかたったものだと考えられるから。すなわち 《大きさをもつわれわれ人間は その量において有限である。そのような存在の思考と行為――要するに生活――は 経験世界の中にあり 経験としてある》のだと。これは 外の対象をにらみながらの デカルトのような動きの中の主観基礎の認識と同じだと考えられるから。
もう少し延長させれば 《人間の自己(主観動態である)の把握として その経験的な行為に焦点をあて 経験科学の視点から その基礎をかたろうとした》ものである。
つまり 同じことを 《神》の問題との関連から議論していうには 上の引用文と同じ段落の中のつぎの一命題に 明らかである。

かれ(《リヴァイアサン〈1〉 (岩波文庫)》の著者すなわちホッブズ本人)は たしかに 神が物体であることを主張する。
(同上箇所〔リヴァイアサンラテン語版)への付録・第三章〕)

なぜなら

・・・《〔人間〕イエスは生きている神の子キリスト〔つまり神〕である》・・・
(同上箇所。また同書p.326ほか)

からであると。これは はじめの引用文の命題とたしかに脈絡があるのであって むしろ明解である。しかもホッブズは このことによって なぞを持った主観動態――表現として 《神》〔そしてその被造物〕――を すべて経験合理による思考に還元しないのであって――そうしていると見ると ボルケナウのとまどいが起きる―― 次のように言うときにも まだ人間を 経験世界に還元したのではなく 経験科学の視点から(またその視点からのみ)把握しようと まずは 言ったものだと考えられる。ボルケナウまたはわれわれ自身に とまどいが起きることを 認めた上での話しだが――

かれ(ホッブズ自身)はおなじ章(第三十八章)で 復活後 神の王国は地上にできるだろうと〔聖書によって〕いう。
(同上箇所 p.322)

どういうことかと言うと 初めからの引用文を含めて 《物体・人間・そして地上》というカテゴリの線で 《神》の問題をとらえようと言おうとしている のであると。そういう主観の方法基礎――出発点としての経験科学の方法基礎に ほとんどそのまま つながりうる内面原点――であるとわたしは 考える。つまり そうでないと とまどいを超えて 無味乾燥な現実主義的な観察をのみホッブズは残したということになろう。
つまり かれの議論と見解とは いわゆる現実主義なのではなく 経験現実の思考と視点とから どこまでも 自分は主張する というものである。その意味で どこまでも人間的であり経験科学的なのである。神学の議論がまちがいであるかどうかを別にして そういう主観基礎に どこまでも 立った議論なのである。ここには よく言えば 主観内の自己という基礎と 主観外と交渉する主観の思考形式としての基礎とが つながった視点があり 同じくよく言えば デカルトの合理主義を たしかにそしてあくまで一つのカードとして 用いるところの視点があり 同時に わるくいえば 主観の合理が ただちに一直線に 国家という社会形態の大枠にまで飛んでいってしまって 社会契約という規範的な(ただし内面規範としての)自然法のみが あるいは のみで すべての社会生活が 語られる。
早く言えば 超人間的(そのなぞ)・非経験科学的なことがら だからたとえば神もキリストも それらは ホッブズのこの議論において どうでもよいことになっているわけである。よって ボルケナウの見るところでも 引用文の〔 d 〕――《ホッブズは〔主観動態の〕かぎりない試練という課題については関心がない。うんぬん》(本論§17)――。
うえの直前の引用文の中の《復活後》〔といった歴史的な条件〕 あるいは同じことで言いかえると 《リヴァイアサン 3 (岩波文庫 白 4-3)》本文・第三十八章の

・・・救済は地上においてであるだろうということ そうすれば 神が支配するであろうとき(キリストの再来にあたり) 〔地上の・象徴的に〕イエルサレムにおいてであろうということ・・・
リヴァイアサン 3 (岩波文庫 白 4-3) 第三十八章p.156)

の《キリストの再来にあたり》といったやはり条件 これらの条件は いまのホッブズの議論にかんするかぎり とくべつの論点を形成していない。それは いま逆に言いかえると 時代状況の制約――つまり当時 神学の議論がたたかわされたという――そういった歴史的な情況条件とのかねあいでは まさに正面から触れており 一つの中心的なテーマであるとともに 論点をも構成している。
したがって結局いま見ている論旨の把握からいけば ホッブズは この著作において どこまでも 人間である自己を認識しようとつとめたし これを示した。自己を そしてこの場合 経験科学者である一個の人間トマス・ホッブズを しめそうとつとめた。著作全体をつらぬいて そうだと考えられる。
したがって問題は すでにこの経験科学が たとえばデカルトのあと 社会の中でその所を得ているとするなら その経験科学という方法基礎から はみ出るようなかたちで わたしたちの生活がいとなまれている場合のその部分 これにどう対処するかにある。一足飛びにいえば そうである。
ホッブズのように 主観の恣意性・その社会綜合的な結果としての偶然性として 認識しておくだけで済むか 済まなければ どう対処するかにある。つまり もう一方の《自然(その自然法)》概念の側から言えば そのホッブズの国家観を さらにいま どう展開するかにある。

  • ホッブズの国家は 人間内面的であり かれ自身の主観の中にあり 同時に それが相当 機械論的である。そういうかたちで 怪物リヴァイアサンたる国家を生け捕っている。

わたしたちが これに ここで 答えようというのではなく このときボルケナウは とまどったとわたしは 考える。または そこまでとしては ホッブズを受け取らなかった。とまどう必要はないと。パスカルに移行すべきであると。つまり 主観基礎じたいの問題に戻って その限りではである。――ナチスの時代にあってボルケナウに ホッブズの提起する問題が 見逃されたとは思えないのであって しかも それが痛切であるゆえに あるいはまた 《マニュファクチャー期》に時代を限ってのようにい 多くを語ろうとしなかったのかも知れない。
わたしたちは おせっかいを焼いて もう少しホッブズにとどまる。上の問題つまり

無形の物体または(それとまったくおなじだが)無形の実体 およびその他おおくのもののごとき / 一致せぬいみをもつふたつの名辞〔たとえば 《無形》と《物体》と〕から 人々がひとつの名辞をつくるばあい / 〔つまり〕無意味な音にすぎない〔ことばで 思考したり議論したりして生活がいとなまれる 意識的な偶然性 のばあい〕
リヴァイアサン〈1〉 (岩波文庫) 第四章 p.78)

の生活上の問題。ホッブズに 主観基礎があるなら かれはどう対処したか。

かれ(ホッブズ自身)は《無形の実体》が存在することを否定する。
(〈リヴァイアサンへの付録〉第三章p.316.リヴァイアサン 4 (岩波文庫 白 4-4)

というのだから ボルケナウの見るとおり まず 放っておくのである。不合理なことがらは ほうっておくのである。

  • もちろん 合理思考によってとらえた内面の自然法基礎に立った 国家の主権(また主権者)および人定法によって 間接的にせよ 対処するというのも 同時ではあるが。考え方として 放っておくのである。

デカルトもこれに近いのであり(つまり 放っておくという方面) それをホッブズは このようにはっきりと言ったし またオプティミストデカルトは しかしながら パスカル人間学にも 近づいている。そのパスカルは このホッブズのペシミズムが ないわけではないというのが いまの問題の図式的な前提である。ボルケナウがそう言っていると思う。
けれども このホッブズのペシミズムには オプティミズムへの回転が ないわけではない。引用してきたように 《かれ(ホッブズが自分のことを指して言う)は たしかに 神が物体であることを主張する》という主張の仕方を もつ。これは 字句どおりにとって究極的なペシミズムであると同時に おなじく文字通りにとって 《超経験は 経験だ》と言っている。つまり 物体は経験しうるゆえ 神は 経験しうると言っている。時に 不合理は合理だということにもなるかも知れないとしても。わたしは このわたしの言い分が 詭弁だと反駁されることを むしろ俟ちたい。
だが ホッブズの言い分は 時代の中で〔ただ その情況に制約されて〕神学とおつきあいするといったところにないばかりか 積極的にすすんで 経験的な存在たる人間つまりしかも自己という立ち場をしめそうとすることにだけあったと考えなければならないとしたなら それは たしかに 現代に引き継がれた問題であるしかないということになる。ホッブズはやはり 不合理はこれをすべて ほうっておいた そして国家論(その基礎たる自然法)にのみ主観基礎の問題を還元した ということになる。ただ わたしが言いたいのは そういうかたちででも――不連続のかたちででも―― ホッブズの議論が 現代にまで尾を引いているとは 考えられる。ボルケナウは このホッブズを ともかく 通過したはずである。
だから この場合――ホッブズ論のばあい――にも ボルケナウに対してわたしたちは 《ボルケナウはなぜ 思索=模索を長く残しながら その一つの到達点を出発点としなかったのか》という問い(むしろ断定)をあたえることができるのである。
ホッブズに即していえば このわたしの言いがかりは まずどこから見ても《無意味な部分を もう ほうっておかない》のだと。経験科学は ただちに対処していなくとも 無意味で不合理な部分の 社会経済的に よって来たる所以を 明らかにすることはできる という再反論。
ところが――わたしは勝算をもって言うのだが―― このときのボルケナウのように 《経験科学による分析をとおして 無意味の出来事を明らかにすることができる つまり わたしはこれこれこのように考える ゆえに われあり》ということには デカルトにおいてさえ ならないのである。

  • だから おおまかに言って 文化人類学がおこなう分析も 同じようであろう。

パスカルあるいは かれを基礎とした場合のデカルトホッブズにおいては 経験科学の出発点は そうではなく 《これこれと考えているそのわたしは われを思う ゆえにわれあり》でなければならなかった。パスカルは この《わたしをわたしがおもう》という主観基礎かつ主観動態で まずは 不合理の部分にも 対処した。生きた。これで直接に 対処しているのである。

  • つまり 問題となっている対象については 必ずしも何の変化も生じていないことさえある。ただ 主観動態としては わたしなる自己の自乗という過程にある。これが 対処であると言わなければならないとしてもである。

もし この問題をのりこえたというのであれば ボルケナウは たしかに新しい経験科学の行き方を 獲得したはずである。これが 最終ページのあと 書物の後のかなたへと とばされている。この書物が 最終のことばのあと あたかも放物線をえがいて この新しい行き方に立つ経験科学の現実性を 語りえたとしたならば それは ボルケナウの業績なのである。そして これは ここで見てきたホッブズの残した(あるいは し残した)経験科学の行き方の問題である。

  • マルクスを出すと むずかしくなるから 出さない。わたしが手に負えないからだが そのマルクスは いまの議論のすべてに 関係しているとは思う。

――《自然法主体》という認識が一つの主観基礎であるとするなら わたしたちとしては 自然が感覚 法は理性(合理思考) 主体は批判としての主観表現 そしてそれらから成る一個の主観動態といったふうに まず示そうとしていた(本論§18)。ホッブズは 《自然》(ないし偶然)と《法主体》とを 分ける傾向がある。

デカルトは 全体または《法主体》に立って 《法》つまり経験法則のほうの領域へ 動きすすむ傾向をもつ。パスカルは 主観動態に立って 自然も法もそして批判も おこなうが それらを主観基礎の内にとらえ収める。つまり主観(ないしその神学)の内にとどまる傾向をもつ。これらから ボルケナウの《新しい生活態度》(引用文〔 a 〕)が 展開されなければならないと考える。

  • ここでは わたしも想像の余地を残した。また この点 全編を通じてであるかも知れない。余地をのこさぬようにおこなった議論の一例は 前半のウェーバー批判の議論。

§22(時代について・一)

われわれは次に 時代を問題とする。中世あるいはその解体期にさかのぼっては しんどいから やはりヴォルテールのいうこの《ルイ十四世の世紀》すなわち十七世紀である。
主観内の基礎人間学にしろ / 同じく内的にその理性にもとづく思考形式たる合理性にしろ / 主観外の(主観間の)経験科学という方法基礎にしろ / それらをまとめて全体としての主観動態にしろ それらには 時代の中に生きて 時代を生きる部分がある。経済史が その基礎認識であり ただし これらの歴史把握が 経験じょうの問題 経験科学としての研究であるにとどまるなら ボルケナウがまさに自己の世界像として描こうとつとめた新しい人間学による経験科学には 達しない。
われわれは 達するようにつとめる。もっとも 動態の過程であることは 前提である。つまり何度も言うように そうでなければボルケナウは 経済史の側から・思想史の方法一般の側から すでに批判ずみである。
経済史の知識をたなに揚げて そして思想史の方法一般としては おのおのの思想家をその社会経済的な立ち場に 一元的につなげては見ないかたちで ボルケナウの描こうとした世界像を この十七世紀という時代に即して 形成できたらという身の程知らずの冒険をこころみたい。そういうボルケナウとの議論。


まず 《構造的要素に力点をおいた本書の叙述では 歴史的に描写する叙述の行き方が どうしてもとりにくかったから 序言として最後にひとこと わたしの眼に映じたままの十七世紀の一般的性格について述べておきたい》(著者の序文 p.21)とボルケナウは 言わなければならなかったとしたなら それは たしかに各思想家をとりあげて その主観動態を 問題の焦点としたし それをつうじてその世界像を描きたかったという――ほとんどすでに新しい経験科学の(そしてそれは つねに 端緒としてだけであるかも知れない)――行き方に 立っている。
自然法 / マニュファクチャーの生産形式 / 人間学(哲学)》等々が 《構造的要素》であるとも考えられるし わたしたちの観点をかぶせて言ってしまえば 《主観 / その方法基礎 / その思考形式たる合理性 / その社会生活については 経済史および思想史をつうじての経験科学による見方 / (最後のは 基礎認識を提供すると同時に 主観にもどって 主張を構成する)》といった要素の構造的な関係のことでもあると考えられる。あとのほうのを ここでは 視点の基軸としたい。
研究・思索が 主観から始めて主観にもどるとすれば そして主張をもつものだから それらは ある過去の時代を対象とするとき そのときにも 思索者の自己の主観・つまりその現代が問題である。
《生活を解釈しなおし 変更していく》というのが すでに出発点にある。すなわち 現代では おおよそそうだと言ってよい。《感覚 合理 批判》。
すこし脱線することになるが 一九八五年十月五日の新聞記事から その生活態度にかんする人びとの発言をひろってみると――。まず 仏ソ首脳会談を報ずる記事から。《ソ連の新軍縮提案をめぐる仏ソ交渉についてミッテラン大統領は

意見の交換はするが 交渉が近い将来 行なわれると考えるのは 《合理的》ではない

と述べた》(朝日新聞 朝刊)と言う。《一方 ゴルバチョフ書記長は現在 世界の情勢は危機的であるとの認識に立ちつつ

ソ連の新提案はその中で《新しい環境をつくり出す》ためのものだ。いまこそ平和と緊張緩和を目指し《行動を開始し 建設的な道を見つけ出す》時だ

と呼びかけた》。あるいは 日本における税制改革の問題で 自民党税調会長は 次のような表現をつかっている。

政府税制調査会は理論 哲学を中心に検討する。《純粋合理性》に基づいてやる。党は 《切った張った》をやる。党は国民生活に幅広く接した実践部隊だ。・・・

あるいはさらに別に 国民経済計算の基準改定について 経験科学の有効性と限界といったものとして

もともとGNPは現実には存在しない仮構だ。/ 国民経済計算は 国全体の経済活動を一定期間の生産 分配 消費といったフローの側と 国富統計のようなストックとして 総合的にとらえようとするもので 名目GNPの動きはそのごく一部に過ぎない。政界も含めて一般に 本来の意味を超え 何か絶対的なものというイメージが作られているが 統計にとっては迷惑なことだ。・・・

とか。以上で 《感覚》の要素は直接あらわれていないが 《合理》がしきりに言われ それぞれの発言の全体が  《批判》なのだから 序の一(§16)の最初の引用文〔 a 〕にあらわされたボルケナウの到達点=出発点たる生活態度は そのものとして 何の障害もないようにして 実践されている。
現代にも 障害があると言おうとするのではなく この生活態度を 方法基礎に立ち いちおうここでは 一般化した理論として その方法基礎の面でさらに具体的で十分なものに できるならということである。その現代の問題をにらみつつ ここでは 十七世紀の時代。

それは人類史上もっとも陰惨な時代の一つである とわたしはあえて言いたい――とボルケナウは やや勇みこんでいる。著者序文における上の引用文を承けた 時代の概括である。――
まだ宗教が大多数の人心を確実に支配している。

  • だから 現代では どうか。うんぬん。

しかもこの宗教は その柔和な宥和的な相貌をかなぐりすてて ただおそろしい相貌のみをとどめていた。ピュアリタンやヤンセン派の隠された神( Deus absconditus )のように かくも全生活に滲透する恐怖を流布した神は

  • だとしたら 神は 経験的なちから?

かつてなかったであろう。ジェズイットやリベルタンたちがこの軛をゆるめる。

  • 隠されたる神――とだから観念する主観――が 恐怖の軛を だからみづからに 課していた?

しかしかれらがその軛に対置するのは なんらよろこばしい信仰ではなくして たんに放逸な利己主義の無拘束な自由の領域である。すぎさった時代の同業組合的結合の親密さは うしなわれてしまった。中世の拘束された生活秩序から ただその圧迫だけがのこされた。ルネサンスの巨人たちがほめたたえた美の国は 没落してしまった。ただ神秘的な地上のものならぬ一つの光が レンブラントの絵のなかで 暗闇のただなかに救いを模索する信仰を告げている。シェイクスピアがなおたたえることのできた 英雄的心情の誇らしげな自尊心は 色あせてしまった。ラシーヌにとって 激情とは 二度と取り返しのつかない呪いの深淵へとみちびくものでしかない。死さえもが 資料のしめすところによれば このおそろしい世紀にあっては 他のいかなる時代よりも苛酷だったようである。死ぬことは まだ 人類がむかえるべき明るい日にたいする信仰によってやわらげられていなかったし また もはや 一つの自己完結した生活圏に当然おこるべき自明の出来事として安心できるものでもなかった。啓蒙の光はなお地獄の恐怖を和らげておらず かといってまた 素朴な信仰の時代の甘美さはうしなわれて もはや そこから楽園の微光がさしこんでくることも期待できない。このおそるべき時代の地上の地獄のなかで あの鋼鉄のように堅固な個々の思想家がうまれた。

  • うまいこと 書くもんだ!

かれらはその熱烈さにおいてピュアリタンの《信心家( godlys )》にもおとらず 生きることがもちうる意味をひろく探求したのである。
(このあと《ウィーン 一九三二年五月 フランツ・ボルケナウ》と署名した〈著者の序文〉 p.21)

《うまいこと書くもんだ》は 茶化したのだけれど ひやかしたのではない。ちなみに ここでは
トマス・ホッブズ   (1588−1679)
ピエール・ガッサンディ(1592−1650) 
ルネ・デカルト    (1596−1650) 
ブレーズ・パスカル  (1623−1662)
そして ちなみに かれらが《ピュアリタンの信心家におとらず保った熱烈さ》は 《ラシーヌにとっての 二度と取り返しのつかない呪いの深淵へとみちびく激情》とは 別ものだと考えられている。
ただし これだけでは よくわからない。保留してすすもう。《時代の問題》は わたしたちの次章以下 さいごまでつづく。

  • なお 〈第五章 デカルト〉で ボルケナウは《熱狂》《神的な種類の昂奮》を 直接ぎろんしている。つまりその〈〓 普遍学の鍵 神秘的危機〉など。
  • 陰惨な時代であったのかどうか 少しづつ見ていこう。

(つづく→2005-10-17 - caguirofie051017)