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哲学いろいろ

#22

もくじ→2005-09-23 - caguirofie050923

§20(デカルト

ガッサンディを直接 前面に出さずに パスカルらの主観基礎を 明らかにして捉えなければならないのである。
封建的世界像から市民的世界像へ》の移行にかんして 《マニュファクチャー時代の哲学の歴史への研究》のかたちで ――わたしたちの観点に立てば――主観基礎の把握の歴史的な進展 これを 内容的に 探究する。
ガッサンディはその正信性がうたがわれていなかった》とか ヴォルテールのばあいも 神学の入った議論で ガッサンディを批評したから――そう批評しなければならなかったから―― このガッサンディは 上のような書物の題名の形式においては 前面に出て来ない性格をもつ。内容においては 遠くへのけられていないものであることは 仮説的にのべた。
もっとも パスカルにしてもデカルトにしても その神学の問題に ボルケナウが触れていないのではない。約束に反して このような側面から入っていこう。
じっさいボルケナウは デカルトの神 パスカルの神をとらえて うつくしいことばで表現していくのを人は見出すであろう。

しかしながら パスカルの神は デカルト的な神の存在証明における神でもなければ ユダヤ的‐イスラム的な《賭》の神でもない。それは心情の救いの神であり 《理性にではなく 心情に感得される神 Dieu sensible au coeur, non à la raison 》(パンセ (中公文庫)278)なのである。・・・つまり《心情》は ある意味を求める願望の担い手に他ならない。このことを他のあらゆる議論にもましてきわめてはっきりとものがたっているのは 《イエスの秘儀》(パンセ (中公文庫)553)の表題のもとにのべられた かれのもっとも直接的な宗教的体験を描きだしているあの有名な独白と それと関連した断章第一五五五(555の誤植)である。悩める魂へのイエスの最後の言葉は 《汝もし我を所有せずは 汝我をもとめざりしならん。ゆえに汝心痛ましむるなかれ》(555)ということである。
封建的世界像から市民的世界像へ §8・〓 p.666)

こういう場合は 評者ボルケナウ自身の長い思索の文脈をたどってでなければ うつくしいかどうか 判断しかねるであろう。あえて もうそのことは 触れないとすれば ここに引用したパラグラフに 不粋な説明をだが与えて これまでの議論との照合をおこなうことはできる。すなわち 《〈感覚〉の場でもあり〈批判〉の行為主体のものでもある主観》が 生きた動態として《合理(理性)》に先行すると パスカルは論じようとしたと ボルケナウは見ている。
言いかえると 主観にとって《感覚の受容者であり批判の発信者であること》は 基礎であって この一つの方法基礎は 《経験合理(合理的な経験法則)》というもう一つの方法基礎に対して 正当にも自己を主張する。そしてむしろ 主観が この主観基礎のもとに 生活し 合理という方法基礎を用いて 経験科学するし その経験科学の成果は 上の生活のためのカードである。
引用文のなかの《宗教的体験》というのは 信仰の視点からとらえた生活のことであり 全体としての主観動態にほかならない。主観基礎に立った人間の内面動態は 信仰であり(認識した基礎だけによって 主観なのではないから) それは ある種の仕方で 《おしえ》を持つことができるので 《宗教》という概念も出て来る。《外に出たなになに主義》に陥らなければ わたしたちは 表現の問題で争わないから。
主観基礎は 方法にかかわるが そのままで経験科学の方法になるのではない。人間の方法と固有に言えるものは 生きた主観動態そのものである。主観基礎はこれを 表現(認識)のうえで 代理する。わたしたちがふつうに一般に認識し 議論するのは 経験科学をとおしておこなうところの生活経験についてである。
だから――その点で―― ボルケナウは 上の引用文につづけて ただちにこう言う。

救いを約束する究極の だが唯一の保障は 救いをもとめる渇望であり その探求である。こうしてパスカルは 人間じしんの不完全さの反省から一つの完全本体の実体を推論するデカルトの論証に逆もどりするのである。ただデカルトの場合には この論証の意義は偶然的な世界(つまり 経験世界)に意味あらしめるという点にあったのであるが パスカルはあくまでも世界の無意味さという体験に固執し この論証からはただ意味の要求という そうした体験それ自体と合致しまたそれゆえにひとしく反論しうべくもないものしか ひきだすことができなかったのである。

  • つまり 経験的に認識し議論する生活世界の中にあって 反論しうべくもないその主体たる人間の主観基礎しかひきだせなかったという。

(§8・〓 承前)

《錯雑した推理のかわりに デカルトはきっぱりと つぎのようにいうこともできたであろう。すなわち 自我は思考する実体であるから わたしはさらに われわれはこの世界のうちに間違って置かれているのではないと信ずるから(それこそ かれがその後の省察において神の善とその創造の完全性から《証明し》ようと求めたことである しかしこの《証明》においてかれはただ自分のオプティミズムを定式化しているだけである) 世界は純粋思考にとって完全に滲透しうるものでなければならない と》(§5・〓 p.387)と捉えられたデカルトの神は 次のように表現された。同じく文脈を 心ならずも 端折ってしまったかたちで ひろえば――。

かれはつぎのように確信している。

これまでにわたしが自ら信じて受けいれてきたあらゆる意見にかんしてならば さっぱりとそれらの意見をすて去り そのあとにそれらよりもいっそうすぐれた他の意見を あるいはもしも理性にてらして是正しうるものならば まえのものと同じものでもいい これをすえることにつとめるよりほかに良法はありえぬであろう。
デカルト方法叙説 (白水Uブックス)第二部)

この決心は事実デカルトのもっとも内面的な人格的現存在(存在たる主観)にかかわっている。

  • そしてわたしたちの観点から野暮を承知で説明をさしはさむとすれば ボルケナウの見るとおりであると同時に デカルトはここで すでに そのような主観基礎が隠れていて 経験行為のほうの方法基礎として 顕わとなって 実践をおこなっている。すでに 出発してしまっている。それが 同時に主観基礎を含むという点で オプティミズムをあらわしていると考えられる。

・・・ジェズイットの生徒(デカルトのことである)にとって 自分の態度が教会のあらゆる命令(つまり 宗教的な教義にもとづく規範としての倫理 の説教)と矛盾したことは かくされえなかった。《今度こそいよいよ》 かれは 宗教的 形而上学的信念をふくめていっさいの 教えこまれた信念を放棄しようとおもう。・・・
封建的世界像から市民的世界像へ§5・〓 pp.353−354)

このあと 《うたがいを肯定しようという決心は まったく かれを有頂天にさせるにふさわしい 真実に悪魔的な一つの行為であった》(同上)とボルケナウは書いている。そしてなお この成り行きをくわしくたどっているが ここに デカルトは自己の神を見出したと ボルケナウは見ていると考える。

教会の教えによれば 普遍的懐疑の道は永劫の罰である。・・・しかし かれはいつでも永劫の罪という危険を甘受してきたし それゆえまた その危険のもたらす利益を〔ファウストのように〕手に入れようと欲している。
(§5・〓 同上)

《普遍的懐疑は永劫の罰である》は 《主観基礎=人格的現存在 を放り棄てたような疑いのための疑いと思考とが おおきくは主観であるといっても 幽霊のそれである》という内容として考えられるが それならば やはり各自の主観の内面基礎の問題であって これが 教えとして 外の倫理の面でも説かれるには 一定の距離を持つ。デカルトは この間の距離を うたがった いな 肯定した。この距離を測って パスカルは 主観内にとどまり 《それゆえにひとしく反論しうべくもない主観基礎しか ひきだしえなかった》し デカルトは すでに経験的な動きをも進めていて 《普遍学の鍵》=《考えるわたし=理性( ratio 比例)》という経験的な方法基礎を 自分の前に 置いた。

《私は考える ゆえに私はある》という命題において 私が真理を言明していることを私に確信させるものは 考えるためには存在せねばならぬということをきわめて明晰に私が見るということより以外に まったく何もないということを認めたから・・・
方法叙説 (白水Uブックス) 第四部)

というように もちろん内面的な存在を デカルトも打ち出している。しかもこれを その文体からもいくぶん察せられるように すでに動きの中で 捉えている。人間にとって固有の・全体としての方法は 生きた主観動態だと わたしたちが言ったとき 主観基礎も動きである。パスカルは しかしながら この主観基礎ないし主観そのものである《わたし》を――その《わたし》が―― 対象とする。
デカルトは 外の社会ないし自然をそのまま対象としているとは言わないとしても その外の世界にも向かってすでに動き出している《わたし》を とらえて示した。その切り札は 経験合理の思考である。ただし かれも 《わたし》を言う以上 この思考形式は いくつかあるカードのうちの 少なくともかれにとって中核基礎であるが 単に一つのものであり それは道具であると明らかにしなければいけない。

・・・しかもなお かかる〔対象とのあいだに存する比例のごとき〕関係を こういうばあい〔すなわち その対象の認識が 比例によって容易になるような場合〕にのみ しいて局限することのないようにしながら・・・
方法叙説 (白水Uブックス) 第二部 / ボルケナウ§5・〓 p.350に引用されている。)

というふうに言って。
これらが ボルケナウのパスカルおよびデカルトについての議論の中核であると考えるが かれが両者を批評して 次のように言うのは 両者にとっても経験生活の過程における思索=模索の部分であったと見られるのと同じように 批評者ボルケナウにとっても そうであったと考える。
ガッサンディについてその《哲学は 倫理の領域において主観的観念論に転化する》(《市民が・・・》§19)と言い パスカルについては 簡単にたとえば 《デカルトの〔理性=比例=合理というカードによる〕論証に逆もどりするのである》(§20)と。デカルトについては

合理主義的オプティミズムは 大衆道徳(ふつうの生活態度 の倫理の側面)のすべての問題を幻想的な仕方でおしのけること 国家理論を排除することを意味し 自然科学の領域では 質量概念を曖昧にして 物理学の発展をふかく傷つけること 幾何学的方法の発展に重大な妨害を加えることを意味する。こうして デカルトは その青年時代の神秘的危機から死にいたるまで 体系と方法とのあいだを動揺したのであった。
封建的世界像から市民的世界像へ §5・〓〓 p.462)

と言う。ここまでひとまず捉える。すなわち これらの論点は まだ模索の部分である。
(つづく→2005-10-16 - caguirofie051016)