caguirofie

哲学いろいろ

#17

もくじ→2005-09-23 - caguirofie050923

§15c

経験科学における足場の問題

経験科学は お天気のあいさつでコミュニケーションを始めるところのその足場では ない。同時に それは コミュニケーション本体ではなく その本体の中軸である相互理解を促進する・もしくは前提のかたちで支える補助装置であり だから それとしての足場でもある。さらには 自然科学では コミュニケーションの素材となるものを 特に物体として そしてその物体じたいの問題として 研究する。ここでは これを措いて 社会的な経験科学に限る。
言いかえると 自然科学では 物質と対応した補助装置である概念を用いるから その意味で すでに足場ではなく 建て前となっているものを 研究しコミュニケートしあうとも言えるが 逆に 補助装置は補助道具であって そのタテマエである概念は そこに まだ 人間の・主観の ホンネを 入れていない。つまり 自然科学においても 自然科学の概念だけで操作する議論は コミュニケーション本体ではなく やはりその足場である。研究者どうしの議論では 本体であるかに見えるが まだ 見えるだけである。
経験科学は コミュニケーションを その中軸となる概念を定義して 前提の領域で支え促進する補助作業である。
足場は ただしく・つまり足場であるとして 用いなければならない。つまり ゆうれいとしての足場であってはいけないし また この経験科学という有益な足場が コミュニケーション本体とみなされてはいけない。単純にこう言えるし 言わなければならない。
自己の主観のホンネがつねに 経験科学という領域のほかに あるし これを自己のタテマエにのせて コミュニケーション本体の過程を 展開する。

  • 《経験科学の領域のほかに》という言い方が 語弊があるかも知れない。ただしくは 主観が そのホンネをたずさえ タテマエにのせて伝えようとするとき 経験合理的に学ぶという迂回路をとおるのである。そういう三者――ホンネとタテマエと足場と――の位置関係。

経験科学の概念あるいは理論は 逆に考えると このホンネの方針たるタテマエになりうる。なりうるけれど タテマエだけ・つまり理論だけ(なにか 概念によって築いた体系的な理論そのものだけの場合)は ホンネそのものではない。一般に タテマエいこーるホンネ ではない。タテマエは ホンネを入れるべきうつわであって ホンネから発達したタテマエといったものとして考えられる場合にも ホンネに成り代わるものではない。このとき 経験科学は 《タテマエとホンネとのひと組み》で展開するコミュニケーション本体では まだ ない。

  • 理論を学んだり教えたりする行為(狭義の教育)に限るなら 教育の場に限ってのコミュニケーションの本体になるかも知れないが。

だから その足場である。タテマエへの足場であることによって 本体ぜんたいへの足場である。また ホンネは 実際にはつねにある。《思想》にかかわる経験科学は それが ホンネを除外していず むしろホンネを対象とせざるを得ないし ホンネによってこそ打ち立てられるとき コミュニケーション本体に 限りなく近い。
コミュニケーションという経験を 客観的に理解し明らかにする科学は もともと 足場であるといっても すでに このように コミュニケーション本体を迂回して推進していくための補助作業であるから ゆうれいとしての足場にはならないことをムネとすると考えられる。そして なおかつ それが供給するところの概念は 模型でもあるのだから この模型(つまり足場)が ただちに 本体とみなされるべきではない。そうみなされると じっさい ゆうれいとしての足場になってしまう。いや 幽霊としての本体となる。幽霊としての《ホンネとタテマエとのワンセット》となる。
卑近な例をあげるべきである。現代の自民党政府のやり方は コミュニケーション過程において 上からの妥協をはかっていると言われる。経験科学者が これを議論するのである。あるいは同じく 最近年の例では《いつか来た道》だと 認識されている。ところが これらの認識は まだ――正当にも経験科学的なそれであるからのように―― 足場でしかない。そこには ホンネが言われているかに見える。しかし 上に見てきたように 《雨が降っている》という模型のことばでも 《泣いている / 泣いているのではないか》というホンネを 綱渡りのごとく 含んでいて そもそもホンネは つねに存在するものなのである。この論理の限りでは 《いつか来た道》という認識と主張は ごく単純にも 実際には そうではなく すでに歴史は始まっているのであるから しかも いまだ その自己と政府自民党との間に コミュニケーションが成り立っていないことを物語るものなのである。タテマエがなかったか または 足場がタテマエと見なされているかなのである。
これが 経験科学における足場の問題にほかならない。
いや と言って 反論する人がいる。学者(ないし野党)は あくまで たしかに足場・導入として議論するのであって かれ自身が いまだコミュニケーション本体に参加していなくとも それは 社会的な分業の問題なのだと。しかも これが 自明のごとく 有効なタテマエをなくした 足場主義の問題なのだ。学問至上主義と言ってもよい。

  • 実際の政策提案を 隠して または ことさら言わないで まず足場だけ という場合があるかも知れない。ならば その足場主義におちいらないように 政策を提案するという議論本体もさることながら 足場主義に陥らないようにするところの新しい有効な足場を なぜ 持ち出して来ないのか。と言うよりも 導入ばかりを もう それほど おこなう必要もないのではないだろうか。

そして上に言う分業というのは 一人ひとりがコミュニケーション本体に参加していて 社会的な役割を分担するというにすぎないと見るべきであって ホンネとタテマエと足場とをそれぞれ分けて分担・分業することではない。また与党と野党とが分業すると言うとすれば それは 両者にタテマエは一つの共通のものであることになる。それならば 足場主義も それなりに活きている。
足場主義・学問至上主義は 主義をいうからには そのもとに まずホンネ=主観があるだろうし その主義=方針として タテマエを持っているかに見える。しかも それは 足場主義――足場が有効なタテマエと見なされたもの――なのだ。至上主義というのは 足場が建て前よりも何よりも最高のものと考えられているのである。ここには コミュニケーションは 存在せず あるとしたなら ユウレイである。そらぞらしい主観どうしが 互いに半永久的に いがみあっているか もしくは つるんでいるかである。悪いことに つるむということは 結婚というタテマエに似ている。
《戦前回帰 / 歴史を逆行する》というとするなら それは 《いつか来た道》という認識の足場のあいまいさを いくらか明確にしたものである。このように主張したほうが 現在では――どういうわけか―― 科学的で客観的な 有効なるコミュニケーションを展開できると 考えられている。いな 信じられている。
防衛費のGNP一%枠規制の撤廃であるとか 内閣の靖国神社への公式参拝の実現であるとか これらの事態にかんして さらに 上のような一般的な認識による反応に もちろん とどまらず 確かに安全保障の問題 靖国神社の歴史や戦争犠牲者の慰霊の問題 これらについて 経験科学によって 認識と理解と主張との足場をつくる。しかも 現在では ただその足場がそのまま 足場だけがそのまま コミュニケーションの過程に提出される。しばしばそうである。だから ここでも 足場がすでに本体だと見なされているとしたなら じっさいこれは――古いことばを用いるとすれば そしてわたしたちもタテマエをなくして ホンネをぶちまけるかのように言うとすれば―― ゆゆしき問題である。
ちがう意見の人もあるかと思うが つまり自民党政府の政策をそのまま支持するという意見もあろうかと思われるが いまの議論をつづけようと思えば ここでは まったくコミュニケーションが成立しておらず どこまでも そらぞらしい主観が まかりとおっていると考えられる。

  • 経験科学の研究成果そのものは 有効な資料として 蓄積される。

わたしも いまは そのそらぞらしい主観と同じように ずるい議論をしている。つまり 自民党政府のやり方が まだ 悪いとかよいとかということは 表明しておらず そのやり方の批判者たちの 問題のあるコミュニケーションに代わる有効なタテマエを 明らかにしていない。わたしも 足場だけで議論している。
ところが 経験科学の有効性を言った段階で それは足場だけに限られず そういう一つのタテマエは 述べたはずである。これは コミュニケーションにおいて 経験科学の成果が前提のかたちで可能にする民主主義としての有効性であるはずだ。政策の問題として まだ何も言っていないけれど 政策形成のコミュニケーションの場としての 議論――この主張が 一つのホンネであり それに対しては 民主主義がタテマエである――を 提出している。また それでも たしかに足場なのだから これは 足場であるとことわって議論する。
こういったコミュニケーションの約束事が――つまり この約束事の実践のほうを 民主主義と言いたいわけで―― じっさい いまでは一般に 抜け落ちているのではないだろうか。結婚というタテマエ コミュニケーション過程たる関係(場)への愛というタテマエ これが そっくり抜け落ちていはしないだろうか。これは もしそうだとしたなら 経験科学の――その目的に有効性の側面を持つにもかかわらずの――足場主義 すなわち学問至上主義の 弊害であると言うことができる。足場が愛されている。いったい いつまで足場 また足場なのだろう。

だから 政治と学問

だから 政治はこれを 共同自治と言いかえるなら じっさい コミュニケーション過程のことである。そこには ホンネとタテマエがある。また足場もあって それは 迂回路たる学問である。《有効な足場》のことを《基礎》と言いかえるなら 経験科学の有効性に立って 学問は基礎である。政治が コミュニケーション本体である。本体のなかで その主体である人間の 身体(その維持)に注目するならば 経済活動が 基礎である。この場合は 足場ではなく 場――本体の場――のうちにある基礎である。つまり 学ぶことは 経済の基礎でもある。この場合は それの有効な足場である。
ここでは コミュニケーション本体を 政治にあてて その基礎たる学問と そして政治との関係について議論した。
(つづく→2005-10-11 - caguirofie051011)