caguirofie

哲学いろいろ

#15

もくじ→2005-09-23 - caguirofie050923

コミュニケーションについて――coffee break――

§15a

《タテマエとホンネ》というタテマエについて

日本語には センミツという嫌なことばがありますが もともとは――不動産屋の名誉のためにも――その土地や建物の仲介をするとき 千口のうち三口ほどしか契約の成立に至らないことを言ったものだそうです。したがって このことばは 千のうち三つしかほんとうのことを言わないという意味で 使われる場合にも 十分の三パーセントは 真実を述べるわけで しかも それでは あとの九十九点七パーセントは うそかと言うと ただちに そう言い切ってしまっておくべきではないと まず思われたのです。
契約を交わしたい つまり商売を成り立たせたいという利己心から出たものであれ 不動産屋のことばは かれにとっては まず百パーセントが 真実であろうと――われわれにとっては 譲歩してでありながら―― 思われるし そう言わなければならない。
つまりここで言いたいことは――事実とは違うことばは 明らかに うそであって うそは 糾弾されるし つつしむべきであるという前提で――むしろ うそであった場合も そのうそをついたことじたいをも含めて すべてが まず ホンネであるということです。

  • ウソが――つまり内容としてのウソが――ただちにホンネ(本心から出たもの)であるかどうかは 争われるべきです。ここでは 内容がどうであれ ウソをついたというその行動 これは ある種の仕方で ホンネであったろうという見方を前提としました。

そしてしかも 同じくすべてが そういうタテマエなのです。
ただちに 誤解をふせぐために付け加えなければならないことは したがって 百パーセントがホンネであり同時にタテマエであるというこの見方が成り立つためには その中のウソが 事実と違っていては だめなのであって それは論外なのだけれども 事実を捉え自分のことばで表現し・また評価するその意思が ある種のしかたで その事実にもとづいて・それにまつわるところの 努力目標といったような方向(意志の方向)を語ったというウソであった場合を その条件とする。その意味での作り話ということになります。

  • なにもここで ウソを推奨しようとするわけではないのだから 言いかえるとつまり 《虚構をもってのように同時にホンネであり同時にタテマエである》ところの一つの主観 これの存在を言おうと思うし 検討したいと思う。

これは あいまいな主観であり それは 虚偽であってはいけないけれど 虚言ではあっても その主観の表現は 反文化的で無価値なウソだと わたしたちは 決め付けてしまっておくわけには行かないだろうと考えました。
これは 反面教師といった問題とは違います。正面からの一主観のあいまいな部分のことになります。
ホンネとは 本心から出たことばのことだそうで 虚偽のウソの場合を除外するならば――これの除外には 例外はありません―― 虚言も おおきくは まずこのホンネのことであります。そして同時に これは タテマエとなっているものと考えるものです。少なくとも このように問題提起します。
メフィストーフェレスは つねに否定する精神であり あらゆるものを死にみちびく精神であって 悪魔は 本心からウソをつくと言われます。これは 虚偽のウソであり そのことばは すべて無効なのだと考えられます。もちろん――というか いちおう――無効のばあいも それ自身から発して コミュニケーションが展開されることを わたしたちは知っていますが これが無効とわかったときには 初めから何事もなかったことになるわけですから 一般に除外しなければならないし ここでも 論外とします。
ところが 日本語で タテマエとホンネと言われるとき これは まず第一に 上のように あいまいであり だから そのあいまいな主観として会話が成り立っていく場合もあるのですが 第二に――問題となる点は―― これら二つのものを 第一の場合のように あいまいに両者をひっくるめて《ホンネとタテマエの同時一体》とは言わずに 明確に 分離してしまっている場合が それだと思われたのです。
言いかえると タテマエとは じっさい 建物の構造のことであって ホンネと――つまりこの場合には 建物の中に住むことであり その住むことと――連動したその主義とか方針とかのことであるはずなのに そうしなくなる。すなわち おなじく建築に比喩をとるなら 建物が完成したときには要らなくなるあの足場のようなものとして 〔タテマエが〕捉えられている場合 これがそうだ つまり問題のものだと思われたのです。


そもそもコミュニケーションは たがいの主観の交通のことです。客観事実にもとづき――だから 繰り返せば これに基づかないところの虚偽の主観は もうすでに論外であるけれど―― そして 自己の主観(また主観判断)をも 〔主観のなしうる限りで〕客観的に 述べ合うことであるはずです。
つまりここには 奨励されるべきではないけれども 客観的であろうとした結果まだあいまいな主観として残ってしまいそのまま述べられた部分があるとしなければならないだろうし したがってこの限りで それが含むかも知れないところの虚言は ある種の仕方で 入り来る。そして このとき この主観を 自己の本心としてのホンネを中心とするのと同時に そのホンネの骨格である方針すなわちタテマエに載せて――主観をタテマエに載せて―― わたしたちは 対話をおこなっている。
自分のホンネを譲り あるいはさらに殺して ただ社会的な共同のホンネといったものの 組み立て構造であるタテマエに まったく従わなければならない場合も あるかも知れない。あるいは もっと単純に ひとりの目の前の相手(そのホンネ)に わたしは ゆづらなければならないかも知れない。そしてこの一対一のばあいでも 相手のホンネにゆづることが ゆづるわたしのタテマエであるか それとも 社会の慣習的なタテマエであるか となっている。
しかも これらの場合でも ころす必要はないであろうけれど そういったタテマエに(または タテマエとして)ゆづることは むしろ 自己のホンネである。自己のホンネの少なくとも 一部であるだろうし その一つのホンネの全体じたいが 社会のタテマエの一部であると 言わなければならないときも ある。社会のタテマエも もともと人びとのそれぞれ個人的なホンネから出発して つくられていないものではない。

  • わたしたちは ここで いわば負のタテマエとしてのように すでに少なからず・相当の程度 ゆづってしまった恰好なのではあるが。ここまでゆづらなければコミュニケーションが成立しない場合 つまり人は つねに最悪をおそれるという場合を場合として議論するのが ひとつの常であるから そういった最悪にちかい場合に 立とうとしてなのである。

ところが タテマエがホンネから分離されることが起こる。または タテマエが古くなってしまう。自己個人のものであれ社会共同のであれ タテマエが ホンネから――この場合も 自己個人のであれ あるいは一般抽象的に人間のであれ ホンネから――離れて そらぞらしくなってしまい つまり建物本体ではなくなり その外の足場のようなものとなって しかも 依然として 《ホンネとタテマエとの同時一体》と両者ひっくるめて言った場合の一つのコミュニケーションのタテマエのみが 大手を振って歩きうる。
これは 論内の一つの重要な問題だと考えられる。足場は 建て前とまったく無関係ではなく それも 方針や主義やの一部であるとみなされるかも知れない。ウソを含みうる主観のあいまいさが 虚偽(無効である)と虚言(有効を保つ)とに分岐する地点が ここに捉えられる。
これは 譲歩する・しないとは 別の問題となる。しかし 足場が 《タテマエとホンネという同時一体》の一つのタテマエに 入ってくるときには 注意を要する。なぜかと言って 足場は 建物の実質的な構造そのものではない。棟上げには 要らなくなっているものであり 人間にたとえても そのムネ(胸)とかホネ(骨)を形作るものではないから。足場は 必要であるにもかかわらず そらぞらしい。か または それぞらしいものでありうる。また 雰囲気とかムードとかの問題でもある。雰囲気がよそよそしいゆえに それゆえにこそ おつきあいしなければならない場合がある。そして これは 一たん相手が何を言おうとしているのか 待って 注意をはらわなければならないとしても 基本的に言って それに譲歩するとか・しないとかの問題ではなくなっている。
言いかえると 人間の存在にたとえて ホンネは ムネ(胸→旨・宗)またはココロであり タテマエはホネグミであり 両者は 一般に 同時一体である。《ホンネとタテマエ》という一つのタテマエである。また 経験の上で 人間の主観は そのような虚構をもって いづれもみな 互いに相対的である。ある虚構をとおして 一つの自己の真実を述べきるか(これが おとなしくなくなるものではない) それとも さらにそうでない場合には やはり一般にコミュニケーションというものは まったく支配の社会学いづれかの類型になってしまっていて じっさい 支配のための話し合いということの別名であると考えられる場合もあるでしょう。
ごく親しい者どうしの限られた場合を別にすれば ホンネのみを語るのも じっさい必ずしも わたしの真実なのでもないし また タテマエのみを語るのでも 同じであろうし しかも これらいづれの場合でも それぞれにおいて《ホンネとタテマエ》といった一つのコミュニケーションのルールにのっとっていると 言い張ることが起こりうる。これは 主観には違いないだろうけれど まったく支配のためのそれであって 詐欺とか脅迫に変わりがない。足場が 支配(わがまま)のために 築かれ利用される。ひらたく言って 話し合いは ここで だましあいの別名となる。つまり このときには この世の人生ことごとく 飲めや歌えやでいいじゃないかということが われわれのホンネでありタテマエであると言わなければならないことになる。

  • 支配の社会学の三つの類型は いづれもすでに その主体の主観が よそよそしくなったところから出発している。すなわち 《合法的な支配》の場合でも そういうタテマエだけとして 切り離されていることがありうる。

(つづく→2005-10-09 - caguirofie051009)