caguirofie

哲学いろいろ

#13

もくじ→2005-09-23 - caguirofie050923

§13

こういうわけで 《第二章》の批判も 同じ論点を繰り返すことになる。

禁欲的プロテスタンティズムの文化的意義の限度・・・
プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 下 (岩波文庫 白 209-4)§2・2p.249)

ウェーバーも 書物の最後の締めくくりの箇所で 言い これを認めている。
わたしたちの定義からいけば 《文化》は 先行する内的な基本主観の自己同感(自然本性の耕作・確立)にかかわるが 《文化的意義》というときには 内的に心理経験の 外的に文明という社会的な人間関係の それぞれ経験的な同感行為(文化科学)のことを言っていると考える。そして この後行する理論形態としての同感(文化行為)は わたしたちの定義から言って もともと 《限度》を持っているものであった。
だが ここでウェーバーが《限度》というのは もっと具体的な経験推移に即して 端的に 《禁欲的合理主義の 純粋な功利主義への解体》(プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 下 (岩波文庫 白 209-4)§2・2p.249)のことである。解体しうること せざるを得なかったという限度のこと。《禁欲》という概念=現実で われわれの《先行する精神》のことを代理させて 同感理論するところの その《支柱》が解体してしまったことを言っている。

〔神の恩恵によって与えられ〕 委託された財産に対して《義務》を負っているとの思想は 人間をむしろ管理する僕 あるいはまさに《営利機械》として財産に仕える者となしつつ われわれの生活の上に冷ややかな圧力をもってのしかかっている。

財産が大きければ大きいほど――もし禁欲的な生活態度(《基本主観のよろこび》)がこの試練に堪えるなら――神の栄光のためにそれをどこまでも維持し 不断の労働によって増加しようとする責任感もますます重きを加えるのである。

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 下 (岩波文庫 白 209-4)§2・2p.219)

これは じっさいには 二角関係協働のふつうの勤勉の結果として 合理的に そのような財産を 増加させ管理していけばよいのである と考えられるが ウェーバーがこのように見るところの必然的な結果として――あるいは むしろ原因そのものの中の矛盾の現われとして――

まさしく この点において 禁欲は《つねに善を欲しつつ つねに悪を》――禁欲の立場に立った意味での悪 つまり所有とその誘惑を――《作り出す》力であった。何故というに 彼らは旧約聖書にならい また《善き業》の倫理的評価からの類推をもって 目的として富の追求を邪悪の極致としながらも 職業労働の結果としての富の獲得をも神の恩恵と考えたばかりではない。

  • ただし この場合の富の獲得は 《当然の報い》であったのに《神の恩恵と考えた》という。 

これはさらに重要な点であるが たゆみない 不断の 組織的な(=同感理論を持続的に実践する)世俗的職業労働を およそ最高の禁欲的手段として また再生者(死からの基本主観の再生)とその信仰の正しさについてのもっとも確実かつ明確な証明として 《宗教的》に尊重する立場は われわれがいままで資本主義の《精神》とよんできた人生観の蔓延にとってこの上もなく強力な槓杆とならずにはいなかったのである。
プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 下 (岩波文庫 白 209-4)§2・2pp.224−225)

したがってこのように ウェーバーの締めくくりの議論を読んでみると かれは それまでにおいて 巧みにまちがったか もしくは むしろわれわれと同じ同感行為に立って しかも これらピューリタンたちの歴史行為の軌跡を 自己の学問形成に 搾取して用いたか どちらかである。
われわれは 強引にとみえるほど わざわざ議論のそのつど むしろ主観判断を 差し挟んできた。ここでも 同じように それを あらためて 差し挟むとしたなら このピューリタンたちの考えは やはりもともと 本来 限度を持つというだけではなく――かれらは ルターがこの限度の内にとどまったのとは違って この限度に挑戦した つまり むさぼりの境界に挑戦したのだから―― それは 無効であるという確かに超越的に見える断定になる。
これが 超越的な判断ではないという所以は 上に引用した文章と同じ文脈からさらに引けば かれらは 次のように考えていたからである。《純粋に衝動的な物欲を敵として闘》い 《所有それ自体〔を〕〔敵からの〕誘惑》と見なした。《まさしくこの点において 禁欲は〈つねに善を欲しつつ つねに悪を作り出す〉力であった》とウェーバーも 理解するところが それである。同じピューリタンが そのことを認めていたのである。あるいは ある程度ゆたかになったとき その段階では そのように認めざるを得なかった――じっさい そのようなジョン・ウェズリーのことばを ウェーバーは引用している(§2・2pp.232−233)。
すなわち 平たく言って 《まんじゅう こわい》と言いつつ これを所望し はてはお茶まで手に入れた――ただし ピューリタンたちの場合は その饅頭などを ともかく自分の手で 労働して 獲得したのであるが――というのだから すなわち何故なら 個人の労働の成果はこれも 基本的には 二角関係の協働過程の産物であるのだから やはり孤立した個人主義のその職業や所有やにかんする考えは 善意であれば盲目的にひたむきな勤勉から 悪意であれば無効から 出発したと言わなければならないであろうから。
《基本主観のよろこび》は 禁欲を倫理要請としないほど 限度の内にとどまっている そうして《共同主観》でありえている。ここに 《誘惑や試練》がないわけではないが その《恐れ》を 心理的には 知らない。あるいは 《主観》が共同主観であることには なぞが伴なっているから 一種の賭けをもって基本主観の同感行為をおこなうとき 快活なおそれを 持っている。
このきよらかな恐れは 心理的な恐れを知らない。しかも 欺かれるなら 我れ存在すと言う。誘惑や試練の必然経験の世界で 欺かれ無力にされたなら その誘惑に負けたということを認識する基本主観――つまり《わたし》――は まだ 欺かれていないし きよらかな恐れをもって 有効である。ピューリタンたちは この有効な基本主観が 後行経験の領域で持つ限度に 挑戦したわけである。職業労働の 禁欲倫理に従う自己目的化をもって。
心理的に恐れているから 何ものをもおそれなくなったとも言えるし 《饅頭 恐い》とあからさまに表明しつつ その恐怖・孤独を 《心理的な起動力》としたとも言いうる。その人生観は 負けたくない・負けないと宣言したし じっさい 勤勉を敢行し 経済的な信用関係において 貸し(または勝ち)が 加速度をもって つづく人生であろうとした。同じく平たく これは 《自転車操業》とも言われている。
わたしたちは 個人の限度を知っているが その具体的なむさぼりの境界を 規定して管理(説教)することはできないから そしてむしろ このゆえをもって はじめの考え(かれらの同感理論)に まちがいがあったと主張する。無効であったのではないかと見る。だから それは こんどはむしろ動態である。そしてさらに これゆえをもって わたしたちは 《まんじゅうが こわい》と訴える人には まんじゅうもお茶も提供してやり――ひとまず 好きなようにさせてあげ―― 《自転車操業》には 自由に随って来たのである。心理的な恐れは なかったし かつ きよらかな恐れをもっていた。
試練がいよいよ厳しくなるとき たとえばマルクスの共同主観にかんする主張を 聞いたし その一面における具体経験的な同感理論にはかんたんに言って 行きすぎもあるのではないかと考えてきた。またそれは おのおの民族社会(そこでは 人間の文化は普遍的であろうが 文明には一応 伝統が作用して 多様性がある)の段階と方式の問題でもあると 考えてきている。
だから いまさら ウェーバーのように あとになって《この無のもの》と言って 非難することもしない。そして このような主観判断の差し挟み方を ウェーバーとわたしたちとで 異にするということを別にすると あるいはこのウェーバーも その締めくくりを読んで見るに われわれと同じ共同主観に立ったと 言わなければならないかも知れない。そして 《しかし ここにいたれば われわれはもはや価値判断と信仰批判の領域に入り込むことになるが それはこの(=ウェーバーの)純粋に歴史的な対象たるべきものではない》(§2・2p.248)がゆえに わたしたちの学問(ふつうの文化行為)の 対象ではある。しかも その判断主体たる基本主観は 動態であった。一人ひとりの自由にゆだねられているわけである。
各人の自由にゆだねられているゆえにまた わたしも その一人として 自由に価値判断して すでにわたし個人の意見はこれも じゅうぶんに述べてきた。ウェーバーの気をもたせた《歴史叙述》には たとえかれが われわれと同じ文化行為の原点に立っていたとしても だから あとでその理論内容にもそれとして同感したとしても その叙述過程の経過において 一方では 考察対象となったもの(ここではピューリタニズム)の搾取があったし 他方では 読者たるわれわれへの搾取もあったと言い これを《ウェーバー学派の倫理と学問至上主義の精神》と名づけて いばって批判したのである。
文化行為の開発の限度は つまり搾取となるべきその具体的な境界は じっさいには 一人ひとりの主観真実に俟つ以外にない。けれども 禁欲的プロテスタンティズムの倫理には やがて後にでも 無効となるべきむさぼりがあったと見るのは ウェーバー自身であり むさぼりの矛盾の目に見えて現われていないときには 学問の対象として開発できると言い張るのは 信用関係において 自己の田に有利に水を引く勤勉である。それは 搾取である。普通の開発は 初発にも矛盾が感知され 無効のうたがいが濃いときには その場で そうだと指摘し 開発をとどまることである。無力となって その開発に随わなければならないかも知れない。無効でないと見える部分にだけ目をつけ まずその部分を どんどん開発していくことは その開発の対象となっている人びと〔を 開発者たる自己が 自分の内に受け取ったところのもの〕が すでに のちに無効がわかった段階では 自己を保持しえなくならしめるものである。立つ瀬がなくなるであろう。
吸血鬼――鬼というのは 偶像崇拝の 観念・念観である――は ゆるされない。スミスは 利己心に譲歩して――その境界を規定して説教することなく―― 好きなようにさせたのである。二角関係の協働過程が 開発の主体をそこに持って 開発の対象でもあるからだ。そして いま言う開発(文化行為)のむさぼり――つまり 搾取――は ウェーバーにおいて 学問として 起こりえているのである。じっさい 学問は 脱構築であり 自己解体であるという一理論が出てきたのである。相手を搾り取るのは 関係協働において 自己を搾り取ることにほかならないから その認識じたいとしては――ただし ウェーバー学派の無効の 徹底的な展開としてであるが―― あやまっていない。文化人類学は 文化行為の未熟を残す《未開社会》を対象として 少なくとも開発 しかし残らず開発 しようとする勤勉であり倫理である。
これは 逆に見ると 文化行為の未熟という意味での無効を――文化の未熟は 罪を犯す主体になれない そういった無効を―― 無効でない部分(もしくは そういう自分たち)に目をつけ しぼり取っておこうという動きだとも 考えられる。けれども 未熟という意味での無効は 有効の潜在を 内包しているから やはり 有効の搾取なのである。未開社会とも 文化交流するというのなら 個人の資格での交通にとどめればよいのである。またその意味では――その意味では―― むしろ大いに開発・相互開発をすすめていけばよい。
ウェーバーは もうそれ以上すすめると明らかにむさぼりの搾取となる領域では――だから 自分の側にとっては 搾取したものを披露することは 詐欺となる領域では―― 踏みとどまったが 取れるところは すべて取って 自分の学問の栄養としたのである。踏みとどまったというよりは 引き倒して棄てたと言うべきかもしれないほどなのだが。
これは――わたしには思われるのだが―― 搾取によって自己肥大した学問である。
《まんじゅう こわい》と言い続けて 衝動的な物欲を敵とし 所有ということそのものを 敵からの誘惑と見なすような《禁欲的な合理主義》――なぜなら かれらは 社会的な勤勉と信用との関係において 自己の保身ということについては 用意周到である―― これは 《その生成》じたいにおいて 実際《自己の純粋な功利主義への解体》を 用意してしまっている。二角協働の関係から 自己ひとりを 貴び 合理主義的に特別に 切り離し その自己の《禁欲的なエートス(雰囲気。念観する呪文の放射線の磁場)》を 輸出し そして輸入は極力 抑えるという生活態度。また このエートスで相手をまず煙に巻いておいて そのあと なんとかして 相手のエートスを最大限に輸入し これを自分の滋養として膨れ上がっていき その輸出はもはや絶対おこなわないという 人格的な交換――人格の交換!?――の差額を 自己に有利にみちびくところの ガリ勉の重商主義の狂気の精神。これが 学問の名において 起こるに至った。
《主観判断はこわい》と言い続ける没価値主義。客観的な歴史叙述に徹底するという経験科学。自分の主観(意見)は あたかも治外法権をもってのように 価値判断の対象とはならない ならせないという純粋ガリ勉の城。そこから発射される主観の放射線が 客観知に従えというところの学問の威厳に満ちた雰囲気(しんきろう)を築き上げ しかもこの主観は 輸出(表現)など これっぽっちも していないから この学問的な禁欲が 信用を獲ち取り得ないとしたなら 人びとは 堕落していると その本音で叫び続ける経験科学という文化行為。それに対して わたしたちは 好きなように させておけないのである。
基本主観が無力にされ とりあえずその必然の流れに従っていることと 自己(基本主観)の放棄とは 別である。前者は 経済的なガリ勉の登場によって起こったが ウェーバー学派の倫理と学問至上主義の精神の 生成と普及とによって わたしたちは 生活の全体で(人格の全体で) その後者の自己放棄の問題が 誰もが避けられないかたちで 問われている。
そこでは  《主観判断は こわい》と 声高に 学問研究の肥大をもって 叫び続ける人たち この人たちこそ 主観判断が自由にできて 自由な主観判断は この学者たちだけに可能なのだということになるからである。しかし ガリ重商主義(=帝国主義)の経験科学は もうじゅうぶんに はびこっている。われわれの人生は すべてがドラマであって われわれは わづかに いづれの社会生活の分野・舞台にあっても みな演技者として ふるまうしかないし ふるまうべきであるし それは 《べきである》ことを超えて 自然本性の摂理であると エートスされていく。世はパーフォーマンスの時代なのだと。
これは 文化行為( -formance )の持続( per- )のことではなくなり 一幕一場ごとに 人格を着せ替え 台詞をその情況に合わせて その有能さにおいて勤勉たらんとする演技としての職業なのである。我々は かくして 死につつある。
わたしは この学問至上主義の精神の文明の場での普及にかんして 《さしずめ その影響と事実のあり方を 〈ウェーバー学の倫理という一点で〉(引用者註) その心理的動機に遡源させてみようとしたのである》(§2・2p.249)。そうでなければ ウェーバーその人を取り上げる動機もないし 理由もない。しかも――わたしは言うが―― このように かれに影響されているとしたなら じっさい その倫理によってわれわれは死につつあるのだから その倫理に対してもわれわれは 死んだ 死ぬことが出来た すなわち われわれは かれの影響を まったく受けていないのである。対岸の火事と言った所以である。
禁欲的プロテスタンティズムの倫理に対して われわれは〔というほどに〕 好きなようにさせた これと同じように 対岸の火事としては ウェーバー社会科学に対しても 好きなようにしてもらった。と同時に つねに一瞬たりとも わたしたちは これを ゆるして来てはいない。
(つづく→2005-10-07 - caguirofie051007)