caguirofie

哲学いろいろ

#11

もくじ→2005-09-23 - caguirofie050923

蛇足の章

§11

最後にひじょうに長い蛇足を。
まず前章の論点をふたたび確認しつつ すすめていきたい。
それは ウェーバーが 《このようにして〔――すなわち 職業義務の遂行へのガリ勉には陥らない形で――〕 ルッターの場合 職業の観念は結局 伝統主義を脱するに至らなかった》(プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)§1・3 p.127)というふうに われわれの言う《アブラハムの系譜》を《伝統主義》と重なると見ていることも然ることながら このみづからの文章に 注釈をほどこして ルターの場合は 《トマス・アクィナスにおける伝統主義の定式化〔――つまりここでは 職業にかんする一つの同感理論として――〕とまったく一致する》(p.128)と言っているからである。この点 回り道ではありながら そして簡単に触れる程度ではあるものの 興味あることだと思われるので。
ウェーバーは 《ルッターの究極の立ち場を示すものはおそらく〈創世記講解〉のうちにみえるいくつかの註解であろう》と見る。

また自らの vocatio (職業)に従事し しかも余事に心をわずらわさずにいることは 決して小さくない試みであった。・・・身分相応の生活に満足するものは きわめて少ない。・・・
しかしわれらの務めは神の召しに従うことである。・・・
従って各自はその vocatio に止まり その賜物による生活に満足して余事に心をわざらわされることのないよう この掟にしたがうべきである。

これらのルターの見解が 《究極の立ち場を示すであろう》ということのようである。そして 上に触れたように 《これは 結果において 次のようなトマス・アクィナスにおける伝統主義の定式化とまったく一致する》とウェーバーは見る。
まず トマスを見てみる前に 上のルターの文章が 《伝統主義》に映ったのは おそらく 《各自の職業に留まり》《身分相応の生活に満足する》ことを ルターが主張したからだと思われる。これについては わざと弁護しようと思わないが――すなわち そういう時代の特色が あらわれているのであろうと考えられるから―― だが これは 《伝統主義》とは 基本的に別だとも言っておかなければならない。明らかに《神の召しに従うことが われらの務めであり / その賜物(恵み)による生活に満足する》ことが この同感理論の支柱なのであるから。かんたんに繰り返すなら 《基本主観のよろこび〔その理性的な予感〕によって 学問(僧職を含んでもよい)・労働・あるいは共同自治としての政治などなど 各自の賜物(才能)に応じて それとして職業また身分も持ち その限りで 通俗的に言って高い身分であれ低いそれであれ 相応の生活に 勤め 満足(和解)を得ていこう》と言っているのであるから。
《身分を固定せよ――そして特に〈低い〉身分の者は しかしながら その身分で満足せよ―― / その身分制を保守せよ / このような伝統を崩してはならない》と言っているのでは ないからである。微妙に違うはずである。
そこで 《トマスにおける〈伝統主義〉の定式化》とウェーバーが言うのは 次である。

従って それらに関して 人間の善は一定の度合で存することが必要である。すなわち 人が身分相応の生活に必要なだけ外的富を一定の度合で手に入れようと努める限り 善である。したがってその度合の超過(=むさぼり)が罪なのである。すなわち 或る人が適当の分量をこえてそれを取得し或いは保存せんと欲する限り 罪(基本主観の自乗過程からの逸脱)なのであり 貪欲に属する。(トマス th. V,2 gen.118 art. 1c)
プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫) §1・3 p.129)

だから おそらく こういうトマスの議論のしかたが 《基本主観におけるアブラハムのよろこび(そこにおいて 普通の勤勉でありうる)》と やや異なった調子をもっていると見られるのは 同じそのことを――同じその系譜における同感理論を―― トマスが 後行経験の具体的なことがらで かつ それを事後的に整理した認識のかたちで たしかに《定式化》して語ったからである。定式化された理論・またそこにおける理念 ましてやその文字 これらが 先行精神なのではなかったから。
《身分相応うんぬん》ということが ただちに《伝統主義》に陥るのでないことは したがって このように 同感理論を定式化しようとしたのみなのだ――まず ここに とどまる――ということによっても 証明されるはずである。トマスのことばが あたかもそのまま神のことばとして受け取られ さらにこれが 後生大事に念観されるなら(あるいは 呪文や念仏とされるなら) それは 停滞する伝統主義である。そのような固定された身分制秩序の保守へと傾く危険性はあるが なおそこには 距離がある。
ルターおよびトマスのこれらの議論に対して ウェーバーは言う。

営利の衝動が自己の身分に相応な欲求の限界を超える これこそが罪であることを基礎づけるために

  • すなわち 同感理論ないし経験科学的な認識としても 人びとが納得のいくようにするために

トマスは外的財の目的( ratio )のうちに現われている自然法を根幹とし ルッターは神の摂理を根拠としている。
プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)§1・3 p.129)

自然法》とは 《自然本性の・すなわち基本主観そのものの内における記憶の場――要するに 人間という主体の動態的な存在の・しかも或る秩序――》を言うのであるから そのなぞの部分に着目してみれば 《神の摂理》のことでもあって 要するに トマスもルターも かれらは わざわざ 経験行為のことがらで 定式化したり説明づけたりはしているものの その基本主観において《行け / あるいは おこなえ》との声を聞いて 自己の内に受け容れた(=信じた)ゆえ 語っているのである。あとで――ウェーバーの説明するように あとで―― それが 根拠であったと言われても 《はい そうです》と返して そのあとウェーバーが何を言うかを 耳を傾けて 待っていなければならないところなのである。
そして ただし すでに議論してきたように 実際には この《限界を超える〈むさぼり〉》がそのように判別されるか 言いかえると 《適当の分量》とはどこまでか これは この世で人間にとって 非常にあいまいである。だから このときには もういちど基本主観――つまり 個々の人の《わたし》――に帰って 判断を待つ以外にない。つまり 基本主観は この世の必然経験の流れの中で 無力にされえて 大変いわゆる主観的なものである。
そしてただし ふたたびただし 《無力にされている》ということ自体が 人びとに心で同意(同感)されるならば それは 無力にして有効な じっさい 先行する共同の主観だというわれわれの主張の骨子なのである。《無力にされ得たなら――欺かれるなら―― われわれは(その《わたし》は) 存在している》であろう。それに気づいたときに われに帰っているであろう。それが自己還帰である。(これが 《我れ考える》ということを含んでいるというのは 論を俟たない)。
ウェーバーは 《ガリ勉》が・すなわち《基本主観の――定義じょう・理論じょうの――無効が 必然経験の流れの中で 実効性を持ち さらに有力=支配的となった精神》が どのようにして《資本主義の精神》となったかを その研究課題とする。このガリ勉の資本主義の精神は 《先行精神が 勤勉からガリ勉へ超え出ようとするところのその適度というものは あいまいである》ことに つけこんで 自分も 先行する基本主観に立っていると思いなしたし 声高く叫んで人びとに同感を求めた 求めつつ 大いに《活躍》した。
そして 勤勉・じつはガリ勉の 原始的な・いな超時代的な 蓄積を築き上げたときには――言ってみれば 社会全体が その構造を帯び一種の装置となった状態のときには―― もはや はじめの――おそらくは 偽りの――基本主観たる支柱を みづから 剥ぎ取ってしまった。《職業義務の自己目的化》は残っても それが掲げていた世俗内的な禁欲・倫理またエートスは 単なる枠組み・外物となってしまった。あたかも 人格を脱ぎ捨ててしまった。着たり脱いだりすればよいものとさえ 考えられるようになった。倫理を一定の社会的な権力(――民主主義のもとでは 主権の存する市民ないし国民が 信託したものとされている――)のもとに《法律》としてうたったものは だからすでに外物であって ふたたび先行精神が 自由に――ある程度の自由に――これを解釈できると考えられるようになった。ふつうの近代市民は これらに譲歩し 無力の有効と社会科学の同感理論で これらに随ってきたし 闘っている。
倫理・法律は もともと後行経験の領域のものであるから 先行精神が自由に解釈できるというそのこと自体は 基本主観のよろこびのもとに 受け容れている。しかも 解釈の余地をもった外物たる法律や道徳が 権力の有力のもとに そのまま 先行精神のことだと ふたたび・みたび 見なされることを 受け容れていないし 警戒している。われわれは 譲歩する限りで このガリ勉の資本主義の精神に 好きなようにさせてきたし その発達に随ってきたし いまあらたな段階でも 主観基本の姿勢は 同じである。ウェーバーは あらたな段階で この資本主義の精神を《この無のもの》と言って けなし倒す。けれども その間の歴史的な経過 これは 《学問》の重要な研究課題であると言い 傍系のガリ勉の精神の系譜がその主役であると見て あるいは信じて これを訴えてやまない。あとで けなすためなら それは むさぼりの搾取である。
ウェーバーは 次のような議論を とうぜん 知っていたはずである。

聖書はなんと言っていますか。

アブラハムは神を信じた。それで 彼は正しい人とみなされた。(旧約聖書 創世記 (岩波文庫)15:6)

とあります。ところで 働く者に対する報酬は 〔基本主観の信仰にかんする〕恵み〔そのものとして〕ではなく 当然の〔経験必然の領域での また倫理や法律にもとづくところの〕報いとみなされています。・・・

アブラハムは信仰によって正しい人とみなされた。

のです。・・・
神はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束されましたが その約束は 律法(または理念)にもとづいてではなく 信仰によって正しい者とされるということに基づいてなされたのです。・・・彼は希望するすべもなかったときに なおも希望したし〔――ただし 《かたちあるものは希望ではない》(ローマ人への手紙 (新聖書講解シリーズ (6))8:24)すなわち 心のでも眼に見えるところの その理念であっても偶像視したもの つまりこれを念観するのは 希望ではなく 基本主観の・理念を持つ主体の動態である基本主観の停滞する同感つまり観念的な宗教です――〕 信じました。それで 《おまえの子孫はこのようになる》(旧約聖書 創世記 (岩波文庫)15:5)と言われていたとおりに 彼は多くの民の父(17:5)となりました。
そのころ彼はおよそ百歳になっていて すでに自分の体が衰えており そして妻サラの体ももはや子を宿せないことを知りながらも信仰が弱くなることはありませんでした。彼は不信仰に陥って神の約束(基本主観のよろこび)を疑うようなことはなく むしろ信仰によって強められ 神を讃美しました。(基本主観の自乗過程をたもちました。)
神は約束したことを実現させることもできるかただと 確信していたのです。だから 彼は正しい人と(共同主観者だと)みなされたのです。しかし この《彼が正しい人とみなされた》という言葉は アブラハムのためだけでなく わたしたちのためにも記されているのす。わたしたちも 主イエスを死者の中から(また 基本主観の無効という死の墓場の中から)復活させたかたを信じれば 同じく正しい者とみなされるのです。イエスは わたしたちの罪のために死に渡され わたしたちが正しい者とされるために復活させられたのです。
このように わたしたちは信仰によって正しい者とされ わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ています。
パウロローマ人への手紙 (新聖書講解シリーズ (6))4:3−5:1)

これを トマスやルターは言うに及ばず 当然ウェーバーも 読んでいたと思われ そうしてわたしたちは このパウロの伝えたアブラハムの道に立って 人間的な論法では 歴史を語る。だがウェーバーは 或る日或る時 つまり近代市民の時代になって その道からそれる・もしくはその道をむさぼるところの精神 の発達・栄光および衰退を 主役にして この書物では 語りたいと言うかのごとくである。
(つづく→2005-10-05 - caguirofie051005)