caguirofie

哲学いろいろ

#8

もくじ→2005-09-23 - caguirofie050923

深追い記

§9

批判というものは 徹底的にやらなければいけない。雲の上にいるようでいて じつは 墓場の蜃気楼の城から かれらは叫びに叫んでいるゆえ。
職業( Beruf / calling )が 先行する基本主観において 《自己自身を知りなさい / 自己自身であれ》との呼びかけを聞いた人の 倫理一般における勤勉に後行して 社会の中の経済的な役割分担としての使命――ただし 職務としては変わりうる――で ないことはない。ところが 二段階を経て後行する職業・そこにおける労働――二角関係協働と言うよりも個人的な労働そのもの――が 自己目的とされるとき いかにそこで 聖なるものを捉え禁欲的に勤勉であろうとも これは この職業そのものからの 人びとへの 呼びかけにしかならない。
基本主観は 社会的にまた二角協働関係をとって 独立主観であるとともに 互いに同等の関係をもって共同主観であるとき そういった人間であることの召命・使命が 互いに職業における勤勉へとも 呼びかけあっている。ウェーバーの・あるいはウェーバープロテスタントらのエートスの中に捉える職業観は やはり確かに 上に言う先行・後行を 逆にしている。よく言えば 逆の方向をも含めて 同感理論をうちたてようとはしている。同じくよく言えば 逆の方向の流れにおける・したがって心理的な力による喚起とか促進とかの面をも 忘れずに取り上げ また 強調している。そしてともかく その今 強調したいという側面では だからその職業人が 巧みなるわざをもって有能で 信用差額の蓄積に功を奏し有力であると同時に そのような世俗内的禁欲によって築いた自分の城から しかしながら なお叫びをかけあう。これを 怠らない。

  • 自分の城を築くことじたいは さほど問題ではない。つまり後行領域でのそういう一個の出来事であるにすぎない。ただ それだけに終わらないところがある。保守・増殖・肥大へ向かう。

だから 悪く言えば――元に戻って 先行・後行の逆立に立って―― つねに叫んでいなければ その職業観が成り立たなかった。叫ぶ必要のなくなったとき エートスの外枠が出来ていた。もともと 内枠と見なされていた起動力の装置が その一定の・もしくは相当の結果をもたらしたところから やがて外枠となっていったものである。つまり 後行領域の起動力であったのだから もともと外の要因であり 外側の問題であったものである。
勤勉つまりこの場合はガリ勉の枠組み――だから こんどは すなわち階級関係――が出来上がったとき 叫ぶ必要もなくなっていた。

  • 社会福祉とか後進国援助とかを 博愛心による禁欲の代わりに 叫ぶようにもなった。

禁欲という支柱は 僧坊から世俗的な経験世界一般へ移り さらにここで そういったエートス論を研究し説きあげる象牙の塔の中へ移った。これは スミスの系譜の一傍系である。鬼っ子である。
職業という意味での《 Beruf 》 召命・使命という意味での職業の語は 《ルッターによって作り出された》(§1・3 p.109)ということを ウェーバーは かなり詳細に論証している。われわれの関心は しかしながら 職業活動への呼びかけ合いにあっても 職業観念からのそれには ない。いうところは あのアブラム(のちのアブラハム)が かれの基本主観の内において 《行け》という声を聞いたのである。心理 倫理 職業は これに後行する。基本主観の文化行為の持続である勤勉は 信用の徳を生んで 職業倫理をも 経験的に 普及させていく。

あなたは国を出て 親族に別れ 父の家を離れ わたしが示す地に行きなさい。
旧約聖書 創世記 (岩波文庫)12:1)

というのは 個体的な基本主観における《 Beruf (召命)》である。これを受け取り 実践していくことが 個体の 主観の 動態である。つづけて 

わたしはあなたを大いなる国民とし あなたを祝福し あなたの名を大きくしよう。
あなたは祝福の基いとなるであろう。
(ibid.12:2)

というのは 基本主観が 人びとに普遍的な共同の主観であることを示そうとしたものである。勤勉の報酬が信用であるように この基本主観の《祝福》は 経済的なゆたかさをも含むはずである。含むことに不都合はないはずである。基本主観は 共同主観として 人びとのあいだに 同感行為を得せしめ その二角関係の協働は 職業活動への献身を可能にする。
さらにアブラムが あるとき聞いた声は 言った。

あなたを祝福する者をわたしは祝福し あなたをのろう者をわたしはのろう。
地のすべてのやからは あなたによって祝福される。
(ibid.12:3)

後半の文章は 基本主観が――その理性のみによってはついぞ判別しかねるところの――なぞをもっているということ そして このなぞを持ってながら 基本的に 自由で有効だということ これを語ろうとしたものである。前半では スミスが利己心に譲歩したのと同じように 後行する経験領域で人びとが 心理的な動きをともないあれこれの判断(――信用への評価――)を持つゆえに この経験的な信用判断のあることに譲歩して 語ったことばである。
倫理規範やその形成であるとか 後行する法秩序の過程の問題としてである。《あなたを祝福する者をわたしは祝福し あなたをのろう者をわたしはのろう》ということが 歴史的(経験的)な社会過程としていとなまれる人びとの同感による具体的な判断関係に むしろ譲歩して 言われている。その概念(祝福とかのろうとか)が用いられているということである。 
ゆえに 新約聖書使徒パウロが 

唯おのおの主の召し給ふ( berufen )ところに循(したが)ひて歩むべし。
コリント人への第一の手紙 (聖書の使信 私訳・注釈・説教)7:17)

と述べたとき 共同主観に立つ人びとの――あるいはスミスに焦点をあてるなら そういう同感行為を自己展開する近代市民たちの――広い意味の《 Beruf 》を語って示した。そこに――その社会に――おのおのの職業が後行していとなまれていることは 明らかである。スミスは アブラムの系譜の人である。と考えられる。つまり アブラムは祝福され その名が大きくされ アブラハム(つまり 人びとの父)と のちに呼ばれるようになっていた(旧約聖書 創世記 (岩波文庫)17:5)。
ゆえに《コリント人への第一の手紙 (聖書の使信 私訳・注釈・説教)七・十七の〈 κλησις 〉( berufen )は決して〈職業〉すなわち一定の領域の仕事を指すものではない》(§1・3 p.108)とウェーバーが言うのは そのとおりである。と同時に そのように《召された(声を聞いた)》人びとが おのおの職業をいとなむことも 火を見るより明らかである。
もしこのようにルターが 《 Beruf 》という語を用いて聖書を翻訳し それがウェーバーの説くように 《語義の場合と同じく その思想も新しいものであり 宗教改革の産物であった》(§1・3 p.110)というのなら それは一方で おそらく 後行する経験領域が いわゆる聖(聖職)と俗とに分けて捉えられていたとき 人間の先行する精神は互いに平等で まして だから その後行領域におけるいろんな区別(聖と俗 あるいは 所有の有無)は 後行領域のもの(どうでもよいもの)でしかないと主張して示したのであり――そしてこれは 新しいものではない―― 他方で 後行する職業領域を先行する精神に直結させたことを意味する。後者の意味するところは 微妙であって 一つに 価値自由的な解釈としては その後行領域の経験行為が 生活の勤勉・その倫理的な内容・またその報酬としての信用・そしてさらにこの信用の 職業活動の結果としての 経済価値の所有 といった一定の基準によって 便宜的にはそれが容易であり分かりやすいゆえ 判別されていくことを 明らかにしようとした。
二つに さらには これらの便宜的な判別基準が 先行する同感行為そのものと 直結され はては このように作り上げられた職業倫理こそが 先行する基本主観のことだと 考えられ もしくは 信じられようとしたことだと思われる。これは 《思想としても新しいもの》であるが すでに自明のように 短絡的である。

これは おそらく 聖と俗――人間の勤勉の結果としての信用関係の社会的な地位としての 従って あくまで後行領域での 二つの区分――が 《聖職者と世俗的な労働者》という一定の観念の区分から 《世俗内の労働における 聖と俗》といったやはり後行経験の観念的な分類把握として 書き換えられたことを意味する。
《労働=職業における勤勉の結果》は 観念的なものでなく 客観的な――少なくとも客体そのモノに即する限りでの――特に経済基礎にかんする 明白な事実である。この事実結果が じつは 二角関係協働の動態としてではなく 一つの確定された関係情況(階級関係)として捉えられ これが 先行する精神と直結されたなら 観念化するであろう。そして 宗教を持ち出していたから 《聖とか俗とか》の概念で 位置づけられうる。
かつて《聖職》につくことが 精神と直結されたなら 観念化したはずであり この共同観念が崩されたあと 《聖と俗と》を言わないでいたところへ 《職業労働が 精神の領域と直結された》なら その精神は 観念となりうるし なおそこで ふたたび 《聖と俗と》の区分が もちあがりうる。これが 同感行為の問題として 整理され理論づけられうる。つまりもはや《聖》とは言わないとしても フランクリンのように 職業倫理をまっとうする人こそが それじたいとして 道徳的にすぐれているというだけではなく 《先行する基本主観動態》の完全なすがたであると――その意味で《聖》であると―― 同感されることが ありえた。
ルターは その伝統的な古い観念共同を打ち破り さらには それによって打ち破ったところの《思想》の中で あらたな観念化をうむ結果となった。少なくとも そうあとから 非連続の継承関係においてとしても 捉えられた。とウェーバーは 主張する。すなわち 職業=労働の自己目的化である。概念(理念)を念観するということは ナルシスのように 観念のまゆの中に入っていくことである。つまりしかも そこには 先行する精神にうったえ 一個の基本主観として叫ぶところの 同感理論が 味付けされた。
禁欲的に職業労働にいそしむことが 《きわめて幸福でありうること》つまり神による救いの証しであると。合理主義的であって かつ 自分は 禁欲をむねとするところの 聖なる共同主観に そのようにして 立つのだと。少なくともウェーバーは そう理解した。

  • あるいは 人びとに 理解すべきだと説くことを試みた。その試みを行なうかれの精神は 《学問至上主義》の主義にある。

じっさい 勤勉の倫理は その煮詰めた規範内容として 《盗むな・貪るな・殺すな》などの法則をもっている。これは 後行する経験領域の事象・ことばで 表現したものである。そうして 先行する基本主観の内実――理念――を表わすことも出来 出来ると同時に その基本主観の自乗過程(=自由動態)に対する違反を指し示すのだが そう指し示すにすぎないものでもある。《盗むな・殺すな》というとき その勤勉の倫理またその信用関係は 形而下においても形而上学的にも 明確である。禁止規定としてだけとしてでも明確である。
だが 《貪るな》という規範は じっさい禁止規定としてばかりでなく その勤勉のかたち・信用のかたちを表象しようとするとき あいまいである。先行する精神の同感行為は むしろそのこと(同感)じたいを 抑制するべきではない。それは 存在(その過程)そのものであり これを抑制しないとき 存在は いよいよ耕されつつ はじめの自然本性を じゅうぶんに実現していくことができる。
後行する経験領域では 事情がちがう。先行する基本主観の同感行為の持続性なる勤勉によって その後行領域での二角協働関係を 自由なものに・そしていっそう豊かなものに 実現していく。二角関係協働の勤勉は そこにおこなわれていく。この後行するほうの勤勉は 自己目的化しない。なぜなら もしするとしたなら それは 単位的に言って 二角協働関係のその過程じたいである。その過程じたいが するのみである。《むさぼるな》という倫理は ここに もたれている。そして そうであるなら しかし 事は微妙である。つまり あいまいである。
ところが 後行する職業――また 個人的な労働 そしてともかく個人的な信用の獲得――じたいが 自己目的とされるということは そこで 《むさぼるな》の勤勉倫理に 反を唱え 居直ったのである。ただし 倫理規範が それは 先行する精神そのものではなく 先行精神への違反というそのことを示すにすぎないものであるときには まだ ただ 後行領域は後行領域であるにすぎないと 語ったのみである。

  • 律法は 罪(共同主観=同感からの逸脱)という事態を示し その自覚を促すものである。

だから その居直りには 特にその後で(あるいは その居直りと同時に) 先行精神の同感理論を自己に味付けするなら なお われわれは その事の可否・当否の判別に いくらか苦しむ。つまり《むさぼるなかれ》のおきては あいまいである。また あいまいであっていい。

  • 《盗み》とて 合法的な盗みがあると説かれたり じっさいの《殺人》を犯さなくとも 人を自殺や他殺に追いやっていく《巧みなわざ》がなかったとは言えない。つまり それらにも いくらかの曖昧さがある。

けれども ガリ勉は 《むさぼった》とわれわれは考える。そうでなくて なんであろう。しかしながら そうは言いつつも われわれはスミスと同じように このむさぼりの精神にも 譲歩しているであろう。問題は 《そんなにむさぼっては いけない》と説教するところにはなく ふつうの勤勉の生活展開 また 二角協働の関係過程の歴史的な展開に 経験的に言わば 存在する。むさぼり・ガリ勉・重商主義の精神に そういった共同主観の社会形成そのものの過程で 対処すべきは対処していく。
そしてこのとき ガリ勉の精神は やがて築いた信用差額の蓄積成った城の上から または この城をきづく前々からすでに 自分たちに人びとよ 同感を寄せてくれたまえと言うかのように 叫んでいる。だから問題は むさぼりの排除――階級関係の その直接のかたちでおこなう 除去――にあるのではなく われわれの・そして重商主義の精神の おのおのにおける初めの基本共同主観 これの回復・確立にある。ちなみに 《聖 sanctus 》というのは 《確立 sancire された》という意味である。
ちなみにウェーバーは 《〔自己の学問が〕歴史的真理のために役立つ》ことを その目的とすると言って(書物の最終の文章) じつは この基本の共同主観の回復・確立のことを知っている。理念を実践する同感行為は 人間の真実であり この基本主観の真実にさらに先行するものは たしかに《真理》のことであるから。
だから その学問の過程が じっさい自分の城なのだと 言ったことにもなる。さらには こういった各自の城も継続的に批判しあいつつ 解体させつつ たしかにやはり歴史的真理のために役立つことを 学問の目的とするのだと。そうするならば むさぼってもいないし たとえその研究過程が 発表されたかたちとしては 一編の夢・もしくは〔わたしたちが見るところの〕悪夢であったとしても 自分たちはその職業に勤勉であり 人びとから同感を寄せられ 信用をかちとるであろうと のたまうたことになる。
文化行為の研究業績は 批判しあえるし 批判するのであるが 逆に わざと解体させる必要もあるまい。もともと 具体経験にかんするものとしては 後行領域のものであるし それは さらに理屈をいえば そういう文化同感の行為として 真理の声を聞いた(そして受け取った)ゆえに 勤勉に真実におこなっていたものではあっても これらの勤勉と真実との文化行為でもって ただちに 真理の国へ上昇していこうとするためのものでもないし するからである。ただちに もしくはそれを唯一の手段として人間の思うように 上昇していこうとするものではないし そうはわれわれは思わないし また それは できないことであるだろう。
ウェーバーは あとで解体して欲しいと言って そのことを期待して かれの文化行為をおこなったのであるのだろうか。そして同時に 城は しんきろうのなのだが これを 保守すると言って聞かない。この今の書物では かれは 批判に対する反批判として 長い註をつけている。まだ 持ちこたえるとでも 思ったのだろうか。このエートスの普遍的に実現されることや 人間の祝福であり 共同主観の国だと――そうあってほしいと――信じたのであろうか。《あなたを大いなる国民とし あなたを祝福し あなたの名を大きくしよう》との声を アブラハムと同じく 聞いたと言い張ったわけである。そして ここでも《むさぼるなかれ》は その判別にあたって あいまいである。ふつうの精神の勤勉とそしてガリ勉の精神とは この世で 互いに入り組み合い混同しあっている。
(つづく→2005-10-02 - caguirofie051002)