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もくじ→2005-09-23 - caguirofie050923
§5
だから ウェーバー批判は 微妙であって かつ 明確である。おそらく先走って言えば このような フランクリンが表わしたかに見えるところの 資本主義の精神の出発点 われわれが捉えるところのガリ勉の重商主義なる精神――さらにすなわち ふつうの勤勉から出たものであるとすれば 骨格として・骸骨としてでも 先行する精神に立っているこの交換差額至上主義の精神―― これに対してウェーバーは 一言で言って 《ウェーバー学派の倫理と学問至上主義の精神》で対処するということである。これが かれの欠陥である。
無効の骸骨の精神は 心理的な起動力を持ちうるが もともと 先行精神なる推進力ではありえない。ウェーバーはおそらく このことをわかっていて なおかつ 学問研究の対象としては成り立つと言ったわけである。われわれの批判点は 成り立たないというところにではなく 先行する有効の精神は 心理的な起動力とは別なものとしてあるのだから それを知っているのだから つまり 知っているのに 肥大する無効の精神の歴史的な展開を 研究して いわばこの研究をむさぼったというところにある。これは 言うなれば第三の 学問における ガリ勉重商主義である。
この批判内容を敷衍することをあとまわしにしよう。
上に引用した文章のあと さらにつづけてかれウェーバーは 述べる。つまり次には 肥大に向けて《宗教化》が起こると見るか ウェーバー自身があとで宗教的な意味あいをそれに覆いかぶせて見るかである。もう一度つまり 《骸骨》として捉えた《先行の精神》に わざわざ――狂気にも――同感の《魂》を入れるというわけである。せっかく研究したから 一旦 その対象を揚げておかなければならないとでも思ったのだろうか。
それとともに それがたたえている雰囲気は一定の宗教的な観念と密接な関連をもっている。ベンジャミン・フランクリンは自叙伝の中で 彼はどの教派にも属しない理神論者
- スミスも理神論者だと言われている。
であるにもかかわらず 聖書の句を引用しながら答えて云うのである
汝その業(わざ) Beruf に巧みな人を見るか かかる人は王の前に立たん。
(箴言 (デイリー・スタディー・バイブル 15)22:29)と。貨幣の獲得は――それが合法的に行なわれるかぎり―― 近代の経済組織の中では 職業 Beruf における有能さの結果であり また現われであって こうした有能さこそが すでに容易に知られるごとく フランクリンの前掲の文章(《時は貨幣であるうんぬん》)のみではなく全著作に一貫してみられるように 彼の道徳のまさしくアルファとなりオメガとなっているのである。
(§1・2承前p.47)
《道徳――すなわち=倫理=職業意識――のアルファとなりオメガとなっている》ものが ここでは 聖書の句を引合いに出すことによって 《先行する同感の精神》と同致されたか そこにまで貫かれると言おうとしたか あるいは そのようにして《空気もしくはエートス》自体はアルファでありオメガであるものとなって世界のすべてを覆うと見るか いづれかである。《宗教》の《雰囲気》にものを言わせている。
同感の精神は その経験世界のすべてに先行して まさしく――無力となっていても 有効かつ自由に―― そのすべてを 同感行為して判断を 自己のもとに留保している。これは あたりまえのことだと思われる。経験的に言ってあたりまえとしてよいと思われる。
ところが それでは――つまり無力の自由では――いけないと見たのかどうか ここでウェーバーは フランクリンに例をとって 職業精神の有能さとそれによって貨幣を獲得できるという倫理の有力さという《後行する経験領域》の側から 先行する同感の精神の領域に戻って来て それに 魂を入れるというのである。
《王の前に立つ》のは まだ 後行する倫理の問題である。《その業に巧みなる》ことは 職業精神であり同じく後行する。《箴言》は 先行する精神に立ち その同感行為の 具体的な結果(文明)内容を――あるいは内容で―― 例示的に語っている。
フランクリンのエートスは 《資本主義の無条件の基調》であって その《空気》がエートスのいっさいを覆っていたとしても それはまだ 後行する領域にかんして言われている。そこでは 《人間は職業だ》《仕事こそわたしだ》が先行していることに 変わりはない。ほんとうは そうではないはずだ。
つまり 先行する精神が 経験世界の無条件の基調であり推進力なのである。無力となっていても 無力となったものとして まだ 先行して有効(自由)である。《それがたたえている雰囲気》は どこまでいっても 後行領域の問題であって すでにそれには 同感の精神が 先行している。その雰囲気にわざと水をささなくとも そうであって つねにそういう社会行為(生活態度)の全体――過程の全体・構造の全体――が 実際である。だから この《雰囲気》が《密接な関連をもつ》のは 隠れて先行する同感行為であるとは言えても それを《一定の宗教的観念》だとすり替えることはできない。つまり逆に 《一定の宗教的〔であろうとなかろうと〕観念》は むしろ《雰囲気・空気》そのものである。
同感行為に理論づけられた思想は たとえばここで 箴言のことばを――解釈してももちろんよいが――そのまま実践するところに 生活態度として過程されているはずだが 箴言のことばを念観して(また念仏・呪文として)これを利用し 後行する経験領域で作り上げる雰囲気では ありえない。魂はまだ 入れられていない。
もっともフランクリン自身は もともと魂を入れられたところから出発して 自分の生きてきた道を ただ振り返ってそう説明したにすぎない。ということであるかも知れない。あとから その心理的な領域に着目して その雰囲気・一定の宗教的な観念も 捉えられるということ自体も 起こりうるかも知れない。だが このあとのものは まだ魂を入れることにはならないし フランクリン自身においては もともと魂の入ったものとして出発していたのかも知れない。
そして それではというので ウェーバーが使った奥の手は その《学派の倫理と学問至上主義の精神》によるところの方法の巧みさ・倫理の有力さ・その雰囲気の広がりの大きさによってなのである。アルファでありオメガである同感の精神(《基本主観》)にまで到達するであろうと踏んだわけである。経済倫理だけではいけないなら 学問(経験科学の文化行為)の倫理でおおえばよいであろうと。基本的に有効ではあっても 後行する経験領域では無力にされている主観精神に こんどは 魂が入ったであろうと。いたづらに 観念の宗教を創設しようとしているにすぎない。
- もしくは内容は われわれの見解と同じものだともしするなら さらにそれに化粧をほどこそうとやっきになっている。
《一切の自然の享楽を厳しく拒けてひたむきに〔貨幣を獲得しようと あるいは〕学問を確立しようとする努力》は 《最高善》そのものではない。それは お化粧である。文化行為の勤勉は 最高善たる基本主観に 後行する。基本主観は 《一切の自然の享楽を拒ける・しりぞけない》とは 無縁のところにいる。しかも 後行する倫理領域と同時一体であるから――時間的な先行・後行ではないのだから―― 同感行為によって しりぞけている場合もあるし 斥けず譲歩している場合もある。先行して無縁であるということは 無関心でもなければ無感動なのでもない。勤勉やその倫理には 限度があることを知っているということだ。そういう生活態度のことである。合理性とか禁欲とかは 後行する勤勉の倫理内容である。
すなわち ここからが ややこしいことになるのであるが ウェーバーは かれ自身 フランリンその人と同じなのではない。資本主義の精神の人でもなければ これに賛同を寄せているのでもない。ウェーバーは スミスの同感の精神を知っているし その先行性によって 勤勉には限度があって また 社会科学等の経験的な文化行為にも限度があることを じゅうぶん承知している人である。承知していないのは 先行する基本主観たる同感の精神が この世で――経験倫理の必然の世界で その必然の有力によって――無力にされることである。いや それも 先刻承知のことであるかも知れない。マルクスは 無力にされているが基本的に有効な主観同感をうったえた。
- 経験的な行動としては 革命にまで訴えてよいと主張した。これは 時代と民族の問題でもある。一般には間違いである。
ウェーバーは これではいかんと考えた。あせったのである。あるいは がまんがならなかったのである。しかも フランクリンの禁欲的な営利人生でも必ずしもよいとは言えない。特にその古くなったもの・二番煎じでは そしてまた資本主義の精神でも いけないと考えた。
そして学問という文化行為に訴えたのである。
経験科学の勤勉 そしてそれが自己目的になるならガリ勉 これで一切を研究しつくし その文化成果でもって一切を覆い尽くそうと訴えた。
- 実際にはかれは 自己目的とならないように 自己目的に一旦なった文化行為の成果を 批判しつつ解体しつつ その批判的な解体の過程が 学問じしんのいわば先行する領域であると方法した。後半の部分で やはりあせっているし 間違っている。
これが まさしくウェーバー学派の倫理のアルファとなりオメガとなっていて 巧みな学問至上主義の精神の発揮されるところとなっている。
かれは 一切を学問の対象とすることによって その文化成果の真実をもって 一切を覆う。この覆われた世界の雰囲気が 先行する同感主観をも覆い その無力化を救おうとさえ言うのである。もともと有効であるのに 経験後行のことがらと同じく 有力としなければならないと錯乱したのである。経験科学であること 殊に価値自由の文化行為であること これをもって さらにこのような錯乱に発する学問を 自ら救おうとしている。
歴史の経験事実を どれだけ取り出し どれだけその倫理=職業精神で覆っても 罪はないと考えた。まさしく こんどは 《その業に巧みなる人は 王の前に立たん》としんじていたかも知れない。このばあいの《王》は 先行する人間精神にさらに先行する(?)王のことであるだろう。ところが
また わたしはすべての労苦と すべての巧みなわざを見たが これは人が互いにねたみあってなすものである。これもまた空であって 風を捕まえるようである。
(伝道の書―コヘレトの言葉 (TeTコンパクト聖書注解)4:4)
とも言われるのであって 《多くの書を作れば際限がない。多く学べばからだが疲れる》(ISBN:476421833:title12:12)とも言われるのは 倫理および職業精神の領域は 後行する文化行為に属するということだ。
あたかも労働が絶対的な自己目的――《職業》すなわち《使命》――であるかのように励むという心理が一般に必要となるのである。
(プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (ワイド版岩波文庫)§1・2p.67)
とウェーバー自身が言うとき 《心理》は 《精神》ではない。心理は 後行する経験倫理の領域であって 心理の現象に 先行する精神は あれこれしかるべく同感(批判を含む)を及ぼすのである。と知っているウェーバーが この心理をもって精神に代えるようなガリ勉の重商主義の精神に注目し これをもって いわゆる資本主義の以前と以後の時代を画する出発点と なぜ見なしたか 理解に苦しむ。
同感の精神によるふつうの勤勉 これによる社会形成とその結果たる文明情況 これが 画期的な新しい基軸である。さらにここから出たガリ勉の新しい重商主義としての資本主義の精神は だから 勤勉の観念化に発し それを心理的に号令のような呪文とし それによる(もしくは それ以前の)同感精神の形骸化によっており これは 無効である。先行する精神が後行する倫理領域に対して 判断するという同感行為を 一定の職業精神ということの一点に 縮約して固定した。また この無効の精神が そうして しかしながら実効性を持ち 後行する経験必然の世界で 有力となったものである。しかも のちにウェーバーは この資本主義の精神を弾劾してもいるのだから このことは 分かりきっていたはずである。混乱している。
ただし かれの 資本主義への批判は なお微妙であって かれが 出発点と見たところの《キリスト教的禁欲の精神》(下巻§2・2p.244)そのものへの批判ではなく だからこのフランクリンあるいはピューリタンたちの《禁欲的な職業観念の上に立った合理的生活態度》は 出発点として《有効》であったとの説を保持しながら しかも その後の発展において資本主義の精神は 《禁欲》の部分を――つまりこれが 《同感の精神》に当てられているのであろう これの部分を―― 必要としなくなるかたちで 失っていき 再びと言うかのように 《外枠》=骸骨だけになってしまった という観点からのものである。
いま わたしたちは ひととおりの締めくくりをしようとしている。
ピュアリタンは職業人たらんと欲した――われわれは職業人たらざるをえない。何故というに 禁欲は僧坊から職業生活のただ中へ移され 世俗内的道徳を支配しはじめるとともに こんどは 機械的生産の技術的・経済的条件に縛りつけられている近代的経済組織の あの強力な世界秩序 Kosmos を作り上げるのに力を添えることになった。が この世界秩序たるや 圧倒的な力をもって 現在その歯車装置の中に入りこんでくる一切の諸個人――直接に経済的営利にたずさわる人々のみではなく――の生活を決定しており 将来もおそらく 化石化した燃料の最後の一片が燃えつきるまで それを決定するであろう。バックスターの見解によれば 外物についての配慮は ただ《いつでも脱ぐことのできる薄い外衣》のように聖徒の肩にかかるに止めねばならなかった。
- 飛躍すると 《心理的な起動力》たるにとどめれば すべては 有効に進むはずであったと言おうとしている。
それなのに 運命は不幸にも この外衣を鋼鉄のように堅い外枠と化さしめた。禁欲は世俗を改造し 世俗の内部で成果をあげようと試みたが そのために世俗の外物はかつて歴史にその比を見ないほど強力となり ついには逃れえない力を人間の上に揮うにいたった。今日では禁欲の精神は――最終的にか否か 誰も知らない――この外枠から抜け出てしまっている。ともかく勝利をとげた資本主義は 機械の基礎の上に立って以来 この支柱をもう必要としない。
(プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (ワイド版岩波文庫)§2・2pp.245−246)
だから われわれの見解では ウェーバーの言おうとしていること それは 《もともと 骸骨〔と化してしまったと考えられる場合の同感の精神〕に 外から 倫理=エートス=職業観念の魂を入れたものが ふたたび その支柱たる魂をなくし もとの骸骨に戻り かつ 社会制度としては 外物たる枠組みとなって しまった》と言っているにすぎないということである。
すなわちこのウェーバーのやり方は 通俗的に言わば マッチ・ポンプの方式である。いや それより もっとたちが悪い。通常のマッチ・ポンプのやり方は マッチを擦って火をつけるべき問題が それとして あったのであるのに ウェーバーのは 何もないところへ 火をつけ 架空の問題を設定し あとでこれを自ら消そうというものである。ガリ勉の重商主義は もともと 無効だったのだから。
後行する経験領域の心理や倫理――これらじたいを指して 先行同感の有効・無効を論定することはできない――にかんする二流の(もしくは基礎資料としてのような)民俗学的調査にすぎないと ウェーバーははっきり言うべきであったし もし 確かにこうはっきり言っていたのだとしたなら かれの使徒たちにも責任がある。けれどもウェーバーは その反面でもはっきりと この書物で 経済的なガリ勉の重商主義で わざと火を放ち しかるべく後に 水をかけた恰好である。
この無のものは かつて達せられたことのない人間性の段階にまですでに登りつめた と自惚れるのだ。
とまで批判するのは わたしの単なるいらだちである。
(つづく→2005-09-28 - caguirofie050928)