caguirofie

哲学いろいろ

人として重要なものが欠けている人は、人ですか?

この種の疑問が出て来て 普通だと考える。
この種の疑問をきちんと受け止めて ゼロから議論をして行かなければ おそらく何も始まらないであろう。日本人の社会というのは そういう状態にある段階だと思う。
日本人は 人生いろいろ 人もいろいろで 互いに話し合いをして四つに組もうということがない。互いに別々の土俵にいて 話をしている。話をはぐらかすという段階どころではない。でかい声でおれの言うことを聞けという人が 幅を効かせている。
問題が起きて 危機が迫るというとき その解決に向けて 話し合いを繰り広げるとは思われる。自然科学的な・技術的な課題に取り組むというときの意思疎通も 十分に行なわれるであろうとは思われる。

  • 回答は 定義だけにとどめた。けれども 公理ではあるから 理由を述べる必要を感じなかった。

意思疎通・コミュニケーション・要するに問いかけと答えとの話し合いが欠けている存在は 人として生まれて来た存在ですが 人であることを放棄している状態にあると思います。
簡略に言えば 人として重要なものが欠けている人は 人ではありません。
意思表示ができない人は 人間以前の状態にある人です。
岩井克人氏が《ある意味で人間以前の存在》という表現を用いて 上のような議論をしています。終りなき世界―90年代の論理(p.131)→関連記事:2005-04-11 - caguirofie050411

回答#27(id:isawo)を読んで・・・。
〓 《「ヒトとしてエッセンシャルなものが欠けている人」はヒトではないです。》
〓 《ヒトとしてもっともエッセンシャルなものは、ヒトでないものの存在、ということになると考えています。》
〓 〓の《ヒトとしてもっともエッセンシャルなもの》を〓の《ヒトとしてエッセンシャルなもの》と同じだと見うるならば 〓の定義にある《ヒトでないものの存在》を〓に入れ替えれば
《ヒトでないものの存在が欠けている人は ヒトではない》が得られます。
〓 ということは 《ヒトでないものの存在》をわたしが 想定しないならば わたしはそれが欠けている人になりますから わたしは ヒトではないと言えるようですね。
〓 《ヒトでないものの存在》をわたしが想定する場合には わたしにそれが欠けていることにはなりませんが だからと言って そのわたしが ヒトであるかどうかは まだ決められないというのでしょうか。
〓 ほかに《ヒトとして重要なもの》も出ていますので 事態と議論はもっと複雑になるのでしょうが 上の解釈では すべては 相対的なもので 一人ひとりの主観の問題だと言っているようにも見えます。
そしてそれは id:isawoさんの結論でもあるようです。→禅問答?  
  質問一覧 - 人力検索はてな