caguirofie

哲学いろいろ

#3

もくじ→2005-09-23 - caguirofie050923

§4

だが もう少し迂回をおしすすめよう。
けれども じっさい勤勉の《倫理および職業気質》が 先行する個体の精神と同致されるということは つまり言いかえると 職業倫理たる勤勉が 精神の《自己目的》となるということは ガリ勉であり重商主義である。

  • ちなみに 職人気質というのは 勤勉で もちろん あるが 倫理的・道徳的な要請を受け その禁欲のために禁欲をとるのではない。好きでそうしているのである。それが自己の生き方に合っているというのである。

自己の自然本性 自然界および社会といった広く自然環境 これらを耕していく精神の文化行為は 持続的であるなら 勤勉とよばれ 人間関係のなかで 信用を得る。勤勉が 自然科学および社会科学の文化成果をもって 外界にはたらきかけるとき 産業を生み――生産手段をともなった協働組織的な勤勉関係またその制度的な形態を生み―― それは 経済学の一概念であるように 信用も そうである。
勤勉関係の 貨幣的な評価にも かかわる。重商主義(商業主義。また そういう商業の勤勉家が支配するところの生産主義)は 貿易差額を自己に有利なものへと導くことをもって その一つの倫理=職業精神とするように だから この場合は 一定の制度的な形態をとった社会全体――つまり国家――にとってのエートス=重商(帝国)主義の精神であるが あたかもこれと同じように 今度は ここから逆に 個体の次元に降りていって ガリ勉の倫理=職業精神は 信用の交換差額を自己に有利にみちびくことをもって 立つ。
人間どうしの勤勉関係からもたらされる信用は そこに貨幣的な価額をともなってでもよいかたちで 一般に 貸し借りの交通関係である。関係的な存在たる人間の 独立個体たる先行する精神にもとづく交通には――つまり 人格的なつきあいには―― もともと 貨幣経済的な評価をともなう・伴なわないを別として その後行する経験領域ではある種の仕方で 貸し借りの関係が生じている。または 古臭いことばで言えば 恩とか義理の関係が生じていると言ってよい。
この信用の殊に債権債務の関係を 重商主義的なガリ勉が 自己に有利にみちびくというとき それは 《先行する精神(人格)》どうしの貸し借り関係の過程ではなく その同じ社会的な交通過程の中にあって かつ 自己の側にとっては 貸し 貸し 貸し またまた貸しと続く人生である。このとき 《信用は貨幣である》(フランクリン)というのであるから 必ずしもそうは考えないところの普通の勤勉関係では 人間どうしの貸し借りが・つまり信用が 逆に ウェットな・そして しがらみの中に入り込む余地も出て来そうである。信用は貨幣であると割り切った勤勉の倫理のほうが そういった・時にいわゆる前近代市民的な身分固定的な人間の信用関係よりも はるかに自由な(つまり先行する)精神の所産であるとすら考えられる。
ここに ガリ勉および重商主義の精神の出て来うる余地があった。
もっとも ただちに言えることは スミスの勤勉の精神は 人間どうしの交通・その信用関係を 互いに 先行領域で同感しあって 身分制に拘束されるしがらみのそれから抜け出てきたところに成り立つのであって また かれ自身の文化行為(政治経済学)は 明らかに 重商主義に対抗するものであることを 基本としていた。《富とは貨幣である》という見解に反対した。
人間的な交通の中に 勤勉があって信用があり その中に 富があり貨幣を用いるという基本的な見解。つまり ガリ勉にならずに 勤勉であることをとおして 《精神の同感は 職業倫理に先行する》という命題(大前提)を 保持することができると考えた。
さらにすなわち この同感が利己心に譲歩し この利己心が ちょうどガリ勉の精神のように 貨幣的な信用の獲得の持続的な行為(価格的なモノの交換差額の蓄積)をもはやその内容としていたとしても したがって 同感の精神は そのときそのように無力になることを余儀なくされていたとしても 無力であると認識しうるそのものとしては やはり先行して存在すると考えたのである。

  • ちなみに ピュアリタンなどのプロテスタンティズムは 古い重商主義に反対する立ち場にも立ったし 貨幣なる富の所有も あるいはそもそも所有ということそのものからも 禁欲する職業倫理をかかげて 出発したということになっている。
  • この場合のちがいは だから 後行する職業倫理の領域そのものを 先行する精神にまで 持ってくるかどうかにかかっている。持ってきたゆえに つまり禁欲をかかげるゆえに 信用差額たる貨幣を蓄積し 富を所有しても なお禁欲精神を保てるかなどといった大前提への挑戦が生じた。大前提を二次的に(輪をかけて)発進させるその自己目的化を生じさせた。これが 新しいガリ勉の重商主義となったと われわれは――あらかじめながら――見る。ただし これは ウェーバーの見解と それほど 違わないのである。

だから――だから―― ここでのウェーバーとの違いは ピューリタンたちの《精神=勤勉倫理=職業労働》といった等号関係での出発点に対して われわれは これじたいも 無効だと見るが(ただし 無効が実効性をもって 有力にさえなるとも見るが) ウェーバーは この初発の考え方じたいは よしとするか それとも これをやはり無効としつつも その点は隠して(主観判断を控えて) ただ 後行する心理的な起動力はこれを持ちえたのだから それによる生活態度やエートス全般への影響の過程を見てとって 叙述するというか である。

  • これは 前もって言うと 犯罪調書であるか 二流の民俗学であるかだと われわれは考えた。資本主義の精神を その普及したあとの段階では ウェーバーはけなした。

そしてつまりスミスは 利己心の勤勉と 個体的な重商主義ガリ勉とは ちがうと考えたはずである。無力となった精神でも その存在を言う限りでは 前者・利己心の勤勉には その同感の精神が ふつうに先行しており したがって この勤勉には 限度がある。利己主義は じっさいガリ勉みたいなものであるから 限度を超えているかも知れない。ただ わたしたちは このような利己主義に対して 寛容でいることは 比較的たやすい。そういう意味でも 利己心の勤勉には 限度があると表現していられる。この限度は 個体の精神と勤勉と職業意識とが 最終的な条件においては管理することのできない社会全体の公共的な 勤勉関係の歴史的な推移過程の問題でもある。
だから 無力となった同感の精神が この過程で 有力とはならずとも 無力ではあるが先行するものとして存在する限り その自由は 有効であろうと スミスは考えている。

  • 利己心のほうに傾きかけたと同時に 大前提の先行する同感精神のことをつらぬいた。

これは あるいは単純には その利己心の勤勉家が 社会的に 自己のその同じ心において矛盾や限界にぶつかるといったことでもあろうし――だから 前もって考えられることは 後者の重商主義ガリ勉では この心理的な意味での矛盾や葛藤は すでに のり越えたところから 出発しているのでもあろう(そういう心理的な起動力を持ち始めた)―― そして基本的には 社会科学という経験的な文化行為の有効性のことでもあろうし その意味で それとして歴史の推移に人間は 対処していくであろうと見たであろうし 一般に抽象的に言っても 同じく人間は 無力の有効として 勤勉=産業社会の やはり 推進力であり続けると考えたはずである。
だから ちなみに ガリ重商主義の精神は 先行精神がこの推進力でありつづけることを いいことにして 利己心を超えつつ(禁欲倫理をかかげつつ) 心理的な起動力にうったえた。つまり ガリ勉心理の起動力も 先行精神の推進力と同じものであるはずなのだと。先行とか後行とか言うが そんなことは証明できないではないかと。
だから 重商主義(そのスミス以後の新しいかたちとしては帝国主義)のガリ勉は この無力の同感の精神を 取っ払ったのである。そして確かに 《資本主義以前》の利己心・営利原則とは 質を異にする。または 従って 無力の有効となった個体の精神の位置に 勤勉の持続性として自己が 入り込んだ。勤勉という文化行為の持続性として自己が入り込んだ。かんたんに言って 《精神》が《観念》となった。
《同感の原理》が 精神の判断行為(その過程)ではなくなり そのものとして心理の領域で念観されるようになった。念仏のごとくなった。また禁欲といった宗教的な色彩を再び帯びさせられるようになった。
貿易差額・交換差額の有利性の持続 貨幣的な貸し・貸し・またまた貸しと続く人生および国家の運営。いわく 

  • 時間――広く文化行為の経験過程の(引用者)――は 貨幣である。
  • 信用は貨幣である。
  • 勤勉と質素とを別にすれば すべての仕事で時間の正確と公平を守ることほど 青年が世の中で成功するために必要なものはない。それゆえ 借りた貨幣の支払いは約束の時間より一刻も遅れないようにしたまえ。

(B・フランクリン)

そして これらの主張内容は 個体の精神に後行する勤勉・倫理の内容それじたいとしては首肯しうるものである。利己心をのり越えても いるはずである。

そればかりか この《倫理》の《最高善 summum bonum 》

  • 《最高善》というからには 《先行する推進力たる同感精神》のことを言うはずである。(引用者。以下同様。)

ともいうべき 一切の自然の享楽を厳しく拒けてひたむきに貨幣を獲得しようとする努力

  • とすでに すり替えられている。つまり 《同感の精神》に 《貨幣獲得の勤勉を至上とするガリ勉》が入り込んでいるのだが すり替えられたか もしくは そのことを ウェーバーは 何ら問おうとしない。《最高善》というのだから やはり すり替えたままである。

〔努力〕は 幸福主義や快楽主義などの外衣を全然帯びていず 純粋に自己目的と考えられているために 各個人の《幸福》

  • これは 《精神(存在)》のである。

や《利益》に対立して つねに まったく超越的なものまたおよそ非合理なものとして立ち現われている。営利は人生の目的と考えられ 人間が これによって物質的生活の要求を充たすための手段とは考えられていない。
プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)§1・2上巻p.46−47)

したがって このように 《重商主義の禁欲的なガリ勉》は 一方で 《利己心にのみ頼りそのままある意味で盲目的に進む営利主義》でもなければ 他方で 《利己心に譲歩し その個体的なそれぞれ営利行為と それらの社会全体的な展開を 少なくとも見守っていく社会科学的な認識と判断との 無力で有効な同感の精神(それとしての勤勉関係)》でもなく それは 《勤勉の倫理じたいを 同感の精神に格上げした結果の 禁欲的な営利人生》である。
そして それでも 《重商主義》だとわれわれが言うのは 勤勉による信用関係の社会的な展開ではなくして 信用差額のガリ勉による個人的な獲得展開をやはり その倫理として――いわば歴史的に全く新しく そう皆で取り決め合おうと訴えているところの倫理として―― 内容に持っているからである。勝手に個人的に 利己的な勤勉となっているだけではない。断定的に言うと 心理的に――ねたみや憎しみや対抗の心理の動きとして――対処し なんとかして この対処を思想として整え 自己の(あるいは人間の)一つの同感理論なのだと 訴えたものである。スミスの以前に すでにそうしたとも考えられ スミスの以前ゆえに 宗教改革の線から出て来たとも考えられる。
《幸福主義や快楽主義の外衣を全然 帯びていない》というのは 《同感の精神》主義でもなく――《主義》としては一種の神がかりのごとく 経験倫理を排除する・もしくは劣視するものでもなく―― 《利己主義》一辺倒でもないということだ。すなわち この個体的な重商主義ガリ勉禁欲は その内容をどう捉えているかを別として われわれの言う《先行する精神》の存在そのことには 同感している。ただし その内容として 裏表を反対にしたかたち――内と外 先行と後行とを逆にしたかたち――を採ったということではあるまいか。
これに対して ウェーバーは つづけて批評する。

これは公平に見れば 《自然〔本性〕の》事態を倒錯した

  • =裏表を逆にした

およそ無意味なことではあるが また明白に資本主義の

基調 Leitmotiv であって その空気に触れない人には理解しえないものである。
(承前p.47)

冗談ではない。前半で わたしたちと同じ意見であり 後半で違う。《その空気に触れない》わたしたち・あるいはスミス――あるいはウェーバー自身――は しかしながら それを《理解しえ》たであろうから。そして 近代市民の社会の《基調》は スミスにあると われわれは見た。フランクリンのは 肥大した第二ヴァイオリンなどではあるまいか。

  • フランクリン自身は 試行錯誤の中から 同感主体たる近代市民として生きようとしたかも知れない。しかも 肥大した契機を持っていたと同時に考えられる。

すでに 本論の核心に入りつつあるが ウェーバーの見方に われわれが反論するのは だから微妙であって かつ 明確である。
(つづく→2005-09-27 - caguirofie050927)

[序説・にほんご]の

誤字脱字を修正。[市民が社会をつくる]は いましばらく再開に時間がかかる。

¸_”N—îŠÓ’èver.4.0(top)

昨日につづいてやってみた。悲惨というべきか 散々である。
鑑定結果

あなたの精神年齢は29歳です

  • あなたの精神年齢は、大人になりたてです。若々しさがあり、時には子供っぽくなることもありますが、世間一般に認められる程の常識を持ち合わせています。ただ、大人の年季というものは微塵も感じ取れません。

実際の年齢との差-30歳

  • あなたは実際の年齢よりかなり幼稚です。これは『若い』のではありません。『幼稚』なのです。もっと大人になる努力をしないと、これから先苦労しますよ。

幼稚度24%

  • あなたは中学生並みの幼稚さを持っています。時々親の手助けが必要になったりします。

大人度64%

  • あなたはなかなかたいした大人です。精神もかなり発達しています。

ご老人度17%

  • あなたはほんのわずかですが『おじいちゃんっ気』が感じられます。注意しましょう。

あなたとお友達になれそうな人

総合的な精神年齢を詳しく見てみると、幼稚度、大人度、ご老人度にわけることができます。例えば、幼稚度と大人度がともに高かったりすることがあります。これは、幼さも持ち合わせていてしかも大人っぽい一面もある人、ということになります。精神年齢は年寄りなのに幼稚度が高いということもあります。これは頑固でワガママなおじいちゃんに当てはまります。大人度は高ければ高いほどよく、逆にご老人度は低ければ低いほどよく、幼稚度は15%前後なのが、活発で頼りになる理想的な人です。
また、『お友達になれそうな人』とは、精神年齢や幼稚度などがあなたと似ている人です。
これを期に、自分を見直してみてはいかがでしょうか?

id:kuonkizunaさんのところで 皆さんの結果をみせてもらった。(浦木さん ありがとう。)一定の傾向を表わしているのかも知れない。幼稚度は高くても 精神年齢のほうは 上げなくっちゃ。ということになる。