caguirofie

哲学いろいろ

#2

もくじ→2005-09-23 - caguirofie050923

§3

《精神の文化行為の持続性 これが 精神の常態になりうる》 いいかえると 《文化行為は 精神の自然本性の過程そのものだ》という見解をめぐっての議論である。
文化行為(たがやすこと)を 社会関係の側面から捉えるなら おそらく 倫理の問題であるはずだ。耕し方の関係として あるいは 他者との関係を耕し合うこととして 倫理の問題である。
だからそれは 文明であるし その次に後行する職業精神どうしの関係 これも 文明のことだと考えられる。ここで文明とは 付き合いの上で おとなしくなることを言う。市民となること 社会人となることである。
勤勉は 自然本性の場(つまり主体の精神過程)として営まれる文化行為の持続性であるから はじめの精神に属するということは ありうる。その社会関係的な側面が たしかに 倫理である。また その次に 職業上の義務(契約)履行であるとか交通規則の遵守であるとかとして 職業としての精神で 大いに ありうる。これらすべてを含むものとして 《エートス》と言って言えなくはない。
しかもここで問題となっているのは 倫理=職業観 これが そのままイコール初めの精神だという人間観=社会観=世界観である。そういうエートス論は いったいどんな内実を持ったものであるか。先行・後行の関係で結ぶばあいと 等号で結ぶばあいとで 《エートス》の意味するものは 異なってくる。
おそらく一般に ふつうの近代市民が 勤勉であったというとき アダム・スミスの考えるところによれば かれらは 利己的にさえ行動して――つまりここで 《さえ》というのは そのときにも この利己心に対する文化行為(判断)のあり方を問うところの同感の原理が 有効でなくなっているわけではないという意味だが―― そうして しかしながら そのことは 《社会公共の利益を 意識的に意思的に めざす》といった一つの倫理あるいはその意味での勤勉観に立ったことを じつは 意味しない。近代市民の勤勉(また文化行為)には 限度があった。逆に言いかえると この一個の自然本性の精神であることに 後行して過程され そのように限度を持った勤勉は これは その限りで 倫理とも各個人の職業遂行の精神とも 通底するものであった。等号関係が成り立つのは スミスにおいては 限度をもった勤勉(文化行為)としてである。つまり一般的には 等号関係は成り立たない。
勤勉は 倫理とかかわるものであるから――なぜなら ウェーバーが例示するところのフランクリンの勤勉の精神は 明らかに倫理的な要請を持ち 道徳的な内容を伴なっていた また そもそも 精神の文化行為は その持続性を おそらく 社会関係的にはたらかせるものでもあるから―― そして 倫理は 精神に先行せず後行するものだから スミスは 新しく起こり来るこの近代市民の 勤勉という広く文化行為について 怠惰という側面とはやや異なった利己心のはたらきに 譲歩しなければならなかったし つまり 博愛心という倫理を先行させなかったし かと言って この勤勉のいま言うとすればエートスが 社会全体にひろがって《勤勉の精神一般》となりうるかのような社会全体的で公共的な倫理=職業観を 個別的な個体の精神に そのまま押し付けることも しなかった。
各個人の同感にもとづく勤勉は その結果の社会全体から見て 個と全体とが 切れている。
ここで 個体的な勤勉の精神と 社会一般的な言うとすれば資本主義の精神とは 明らかに 切り離して捉えられた。個体の精神の 同感行為は あるいはさらに社会科学の精神は 社会全体の成り行きや仕組みを分析して認識し その限りで しかるべく――だから個人も――対処するわけだが そしてそのとき 全体的な仕組みを 文化行為(あるいは経済)の発展するにつれて たとえば資本主義の精神として 捉えることも とうぜん起こって来てよいわけではあるが この社会全体的な精神=エートスに対して 個体の同感は 直接にあるいは最終的な条件において 与り知らないと見たし これを客観分析して認識しようとする社会科学(そういう文化行為)も 最終的には・あるいは基本的には 個体のではない《見えざる手の導き》に任せているものであった。
社会全体を考察の対象とするばあいの社会科学も つまり社会科学的な勤勉も その一般状況を 資本主義の精神とたとえば命名したとしても その動きに 自己は道をゆづっていたし 自己の限界を見ていた。そしてこの限界をもった個体の精神が 逆にその勤勉なる倫理および職業行為をつうじてのみ 基本的には 自分たちの社会を 文化的に 形成していくことができるのだと捉えるようになったし 実際にもそうしていくのだということを 理論的に 明らかにしていった。

  • ただし 《見える手》を言うばあいにも 個と全体との一定の距離を言わなくなったのではない。

これで 迂回の道がいくらか内容としても はっきりしてきたものと考える。
ちなみにもう一点 迂回しておこうと思えば マルクスは スミスよりも時代があとのマルクスは 精神に後行してともかく限度をもった勤勉が しかしそれなりに 社会全体としても制度的にいよいよ確立されてきた段階にあって したがって 社会全体の勤勉関係が その中の自由な一精神(近代市民)にとって自分ひとりが勤勉たろうとしても容易にそうすることができないほど その意味で固定された情況(階級関係)を呈するようになっていたのを見て 《先行する精神(知性・意志)》をうったえたのである。
かれは この階級的な勤勉関係の――そういう文化行為の結果としての一文明情況の――枠組みを取り払うことができるし 人間の精神(また身体自然)のもとに 意識的に計画的に この文明情況を 文化(社会科学)の名において 操作することができると説いたはずである。おそらく 勤勉という後行する領域を 絶対視(全能視)したわけではないであろうが 限度を超えて社会全体としてそれを意識的に管理できると言ったのだとしたなら それは ウェーバーの理解するフランクリンのエートスと ある意味で 通底して 先のスミスの勤勉観(産業観・産業社会観)に 反対したことになる。すなわちこの場合は 中央集権的な国家政府のもとにあるか それとも《敬虔》な個体の《精神=倫理=エートス》そのものの下にあるかの 違いである。

  • ちなみにウェーバーは 《禁欲》という勤勉な文化行為が ヨーロッパのキリスト教世界に特徴的な《精神=倫理=職業労働》として貫かれたものだと言っている。すなわち 

自然の地位を克服し 人間を非合理的な衝動の力と現世および自然への依存から引き離して計画的意志の支配に服せしめ その行為を不断の自己審査と倫理的意義の熟慮のもとにおくことを目的とする合理的な生活態度の組織的に完成された方法
プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 下 (岩波文庫 白 209-4)§2・1 p.74)

として すでにそれは 中世の修道僧によって 形成・実践されていたと。

  • これは確かに 理念型として言えるのであろう。ただ 修道僧も この禁欲じたいを目的としたのではないと考えられる。そして 生活態度とか方法とかの概念で捉えるときには この禁欲は 先行する精神の同感行為のことに きわめて近い。けっきょく《限度》の問題であろう。
  • つまり マルクスには レトリックだけとしても この限度を超えうる・超えていこうと主張した一面がある。
  • そしてこのマルクスについては 《レトリックだけとしても》という条件をつけて言えるそのわけは たとえ革命のみが唯一の手段だと言っていたとしても 事は そこでは すべて 後行する経験行為の領域の問題であるからである。
  • 先行する精神の同感行為としては 《自己還帰》とか《自然主義人間主義》などと表現して言っていた。先行領域には――マルクスがそう言ったかどうかを別としてさえも―― 限度があるが 後行する領域には もっと限度がある。
  • 個体の勤勉だけを言って 中央集権的な計画管理を説かない禁欲的な生活態度 合理的職業遂行のエートス論のほうが 限度を超えうると言ったか 限度をあいまいに見て がむしゃらに突っ走るかである。

いまはマルクスも さらにこの中央集権的な国家の段階から次の段階を 見通してそう理論づけたということをもって ウェーバーエートス論とは別だと考えておきたい。次の段階とは 単純に スミスの近代市民的な勤勉関係のゆたかに実現されていった社会の情況である。
そういう歴史の段階的な展望では弱いけれども そしてスミスはかれ自身の場合は 勤勉関係の制度的な確立という段階を見ていなかったのであり それに対して必ずしも触れることはなかったけれども 経験科学の有効性=学問独立の精神は 個体の精神に――《自己還帰》による《同感》行為に――先行するものではないと考えたとして 議論をすすめよう。

  • ウェーバーエートス論とは 先の《世俗外的な修道僧的禁欲から 世俗内的な職業禁欲へと 連続的に移行した》(下巻p.76)そのエートスが やがて資本主義の精神となったというものであるから マルクスの社会全体に対する計画管理による共産主義の精神への発達過程を見ようとするそういうような一面での議論に対しては 革命という手段やあるいは具体的な政策論を別にすれば そういったマルクシズムに対して かれウェーバーは 拍手を送っても よさそうなものである。
  • いづれにしても 問題は ウェーバーが 学問として――あくまで学問という文化行為として―― 世界や歴史をそのまま見ているということにあるのではないか。主観判断を禁欲する学問としてという意味である。
  • もっとも プロテスタンティズムの倫理の成れの果てともいうべき――ウェーバーじしんの論理からして そう言うべき――資本主義の精神に対して 価値判断をしていないのではない。(また そもそも 価値判断をまったくするなと言っているのでもない。)
  • ということは われわれの批判点の一つとして この《修道僧の禁欲の精神から 職業労働の禁欲の精神へ 移行したものが さらに ここで 職業としての学問の禁欲精神へ 成り変わった》と見ることを あらかじめ 主張したい。いうところは わたしたちも まだ――というか ここでは――実践をどうのこうのと言わないとしても 《中世の世俗外的な――といっても 同じ現世でのだが――修道僧たちの禁欲》に対しては そのかれらにも 精神が先行したし だから 経験的な禁欲の生活は その意味で 後行したし 同じくこの意味で 中世の世界を この修道僧の部分社会のみで 代表させようとは思わない。ふつうの世俗人に 先行する同感は 無力であっても 有効にはたらいたと 理念型のごとく見ることができるのだと考えたい。これは 議論をすすめるに際して 貫かれる前提としての糸である。
  • ウェーバーは この大前提を 経験行為として強調し さらにはそのように後行領域で 自己目的化するところの思想・エートスを 取り出し 強調している。学者としての自己も この大前提を 後行領域で=つまり 第二次的に紡いだ(Weber)糸の線に 位置づけているようである。

勤勉関係のなかで 倫理が先行するに到り あるいは もともと先行するところの個体精神と同致されるに到り 職業や学問の精神も その同致されたところに連なるというエートスの理論を説く〔結果となった〕ウェーバーの倫理および学問の精神が ここでの考察の対象である。
(つづく→2005-09-26 - caguirofie050926)

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鑑定結果

  1. あなたの精神年齢は33歳です
    • あなたの精神はそろそろ『中年』になろうかというところです。あまり若々しさは感じ取れなくなりましたが、人生経験を積んで、一人前の大人になりました。もう『若者』ではありません。
  2. 実際の年齢との差 -26歳
    • あなたは実際の年齢よりかなり幼稚です。これは『若い』のではありません。『幼稚』なのです。もっと大人になる努力をしないと、これから先苦労しますよ。
  3. 幼稚度20%
    • あなたは中学生並みの幼稚さを持っています。時々親の手助けが必要になったりします。
  4. 大人度71%
    • あなたはもう立派な大人です。十分に精神が発達していると思われます。
  5. ご老人度22%
    • あなたからは少し『おじいちゃんっ気』が感じられます。このままでは確実におじいちゃん色に染まってゆくでしょう。
  6. あなたとお友達になれそうな人
  7. 総合的な精神年齢を詳しく見てみると、幼稚度、大人度、ご老人度にわけることができます。例えば、幼稚度と大人度がともに高かったりすることがあります。これは、幼さも持ち合わせていてしかも大人っぽい一面もある人、ということになります。精神年齢は年寄りなのに幼稚度が高いということもあります。これは頑固でワガママなおじいちゃんに当てはまります。大人度は高ければ高いほどよく、逆にご老人度は低ければ低いほどよく、幼稚度は15%前後なのが、活発で頼りになる理想的な人です。
    • また、『お友達になれそうな人』とは、精神年齢や幼稚度などがあなたと似ている人です。

これを期に、自分を見直してみてはいかがでしょうか?

  • 特に言うべきことないなぁぁ。
  • 〔以下 第二考。〕初めてだった。id:kuonkizunaさんの結果を見てびっくり!!精神年齢の高い人は高い人でいるんだなぁ。
  • 幼稚度の高いところは ある程度予測していた。幼稚度という見方かどうか分からなかったが こちらを選ぶと 社会的な適応性や社交性が低く見られるのだろうなとの予測はあった。が 頓着せずに選んだ。
  • あとは どうなんだろう?何人かの結果を知りたいという気持ちはある。全体的な捉え方がまだ分からない。