caguirofie

哲学いろいろ

#1

もくじ→2005-09-23 - caguirofie050923

序論 ウェーバー学派の倫理と学問至上主義の精神について

§1 関係(かかわり)は交通(まじわり)に先行する

ここで 学問至上主義というのは 職業としての学問が いわゆる近代市民の歴史的な社会のなかで それなりに独立して存在するというほどの意味を持たせます。表題全体の意味は ウェーバーを批判しますというものです。
ただちに議論に入るとすれば 職業として学問に従事することは 社会生活の中でいくつかある職業の一つである。人間がつまりわたしたちが 職業を選び持つのであるから 学問至上主義ということの精神はといえば 当然 人間の精神一般に従属している。知性一般あるいは意志の一般が先行しているその中で持たれる。社会生活としての精神に従属しているであろうし その部分概念であるしかない。
社会生活をいとなむわたしたちの人間という存在を精神というとすれば この精神が 個々の職業としての精神に 先行する。ただし このあとさきは 時間的な先後のことではないはずです。
そうすると 実際には 倫理とか精神とか あるいはエートスなどについては それらを議論するときに 一種の原理的な順序やその位置づけを 捉えておかなければならない。つまり こうである。マックス・ウェーバーというひとりの人間が まず 存在する。固有の意味での精神が 第一に存在する。存在が存在するといった同義反復であるけれど ここが 出発点であろう。身体なるその人の存在という意味で精神が 経験的に言っても 何ごとにも先行する。
つぎに 人間存在たる精神が つまりもう少し具体的には 個人の人格全体の知性あるいは意志 これが先行している と同時に かれは 社会生活をいとなんでおり 従ってのように 関係のうちにある。人間との関係として存在している。そうであれば 精神は 個体的なそして同時に関係的な存在として 先行する。
ゆえにそこでかれは 社会的な倫理を帯びている。仲間どうしのつきあいの決まりやその判断行為とともにある。倫理は――言いかえれば―― 精神の社会的な関係存在であることに発し しかも その関係の具体的な交わり・つきあいに関する決まりやおきてのことであるから きびしく言って それは 精神に後行する。
あるいは ひょっとして 関係存在としての精神と その社会的な倫理関係とは 同時であるかも知れない。ただ 存在は 社会的な個体存在と同時に社会的な関係存在である。もっと言えば 社会的な独立存在であると同時に社会的な関係存在である。その全体としての精神に おそらく 関係存在どうしの交わりは 先行し難いであろう。もしくは その交わりの歴史的な試行錯誤の過程としての倫理は 存在に先行するとは言い難いであろう。人びとが 生活し 思考しあって出来たものであるから 倫理は。すなわち ここでは 学問至上主義における倫理を取り上げるなら この倫理(その思想哲学)は 人間の存在に先行すると言うわけには行かない。
関係(かかわり)は 交通(まじわり)に先行する。と考える。
そのあと 第二段階として個別具体的に それぞれ分業する分野の職業のそれとしての精神 これが 経験的に付随して 現われてくる。
第一に ウェーバーの存在そのものという精神 第二に 社会一般におけるかれの交通経験と倫理 そして第三に 職業としての精神 つまりその場合には かれの学者としての精神 これが 順序だと考える。
だとすれば たとえば 一個の近代市民あるいは現代市民という精神が先行し つぎに一例として プロテスタンティズムの倫理が後行する。これらについての学問とその精神は プロテスタントらのその立ち場としての精神と いわば同列に位置し 市民一般の精神に後行するものである。
もし新しい職業とその精神が もしくは社会の中での一部分をなす職業とその精神が 新しい社会と時代とを切り拓くことがあるとすれば それは 具体的にその個別の職業遂行の精神やそれにまつわる倫理やが 社会全体にとっての推進力になったと捉えられるであろうけれど その場合にも すべては一般に先行する精神が 先行して 熟考し それとしての判断をくだした結果であるだろう。そこに――つまり社会の一般意志(!?)には――間違いがないということではなく この場合には 逆に 個別的な職業とその倫理とは 人間存在とその精神一般に対して 後行しているという実態を指し示していることになると思われる。新しい倫理を切り拓き得なかった分野の職業にかかわるその倫理は 古くて一般性を持ち得なかったことを物語るのだから。
むろん学問は 一般性・普遍性を求めて 思考するのであるゆえ その新しい倫理を提示する分野でありうるだろうけれど その志だけで ものごとを決め付けてもらっては困るというものである。一般性を求めて 現実の事態を一部は捨象するわけであるし いくつもの議論のための条件づけをおこなうのも ふつうである。
ところが 資本主義の精神とかあるいは学問独立の精神という場合――すなわち 前者は 一定の時代の社会一般的な倫理というのと それほど異ならないであろうし そしてまた後者も 経験科学の成立ということや それの社会生活における重要な役割ということを考えに入れるなら その意味では 一つの部分概念ながら 全体概念を 表現として 代理することができるほどである(実際 近代市民なる精神というとき経験科学の有効性ということは その基本である) こういった場合――それでも いままでの議論に基づく限りでは 両者とも 人間存在という精神に 後行して出来上がったものである。しちめんどうだけれども 大前提として そうである。と言わなければならない。
のであるのに――ところが―― 先行する人間の精神が じっさい歴史経験的に言って 後行して成立し過程されていくところの これら資本主義の精神や学問独立の精神に促されて いわば開花したとも言えるとしたなら 後者の二つの概念は あたかも ここで言う先行するものであるとさえ 考えられてくる。近代市民の時代になって初めて 人間精神は その自由な動きを取り戻したと言えるとしたなら 後行する倫理が先行する精神を 復活させたということになる。
つまり ここで エートスを持ち出すとするなら どうなるか。それは ふつうには 初めの一個の人間の存在たる《精神=知性=意志》に後行する倫理を言うとしたほうがよいと思われるが 逆に 上の資本主義の精神また学問独立の精神をも含めて 言うとする場合も 起こるのであって しかも このばあい じっさいもんだいとして 先行する精神のことをも 回りまわって 含むことができる。そういう見方が 生じうる。形而上学的な表現においては この見方によって エートスが 世界のすべてを含み すべてがこのエートスによって 説明されうるとさえ 考えられてくるはずである。
ここまでが 前提としての導入としての議論である。

§2 先行する精神とその推進力 および後行する心理とその起動力

次に問題となるのは 一方で《精神(存在)→倫理→職業精神》といった先行・後行の順序で捉えられるわたしたちの一連の社会行為の関係と 他方で それら全体を総括して捉えるときの《資本主義の精神 / 学問独立の精神(経験科学の有効性) / あるいは エートス》との これら両者の内実的なつながり具合いを 捉えることである。
ウェーバーが 著書《プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (ワイド版岩波文庫)》の中で明らかにしたところによると まず その導入部で例示的に主張したこととしては あのベンジャミン・フランクリンの《エートス》・つまりこの場合その《精神=倫理=職業観》 これは 《資本主義の精神》の出発点を物語りうるということであった。一つの歴史経験として――また 現代社会のその出発点として―― エートスが先行したのだという一つの見方を明らかにして 問うた。または 歴史の転轍機のはたらきをしてのような推進力として エートスが重要であったのだと。
もう一度 確認すれば したがって 一方でわたしたちが前提的に議論したところの《精神の先行性 および 倫理(その意味で エートス)の後行性》といった命題 これを 必ずしも排除するのではなく ちょうどそれと両立しうるというかのように 他方で 《エートスは すべてを含む つまり 先行する精神――先行するというからには 一つの推進力である人間の精神――をも含みうる》といった内容の広がりを持たせて かれの歴史観の一端をあらわした。表現の問題で争うべきではないだろうから おそらく 議論の基本的な出発点として こう要約して 理解することができるものと思われる。そして問題が残るとすれば それは 《人間の精神一般》と《一つのエートスたる資本主義の精神》との異同あるいはつながり具合い如何 ここにあると考えられる。
ここでは 議論――本体としての議論――を迂回させなければならない。
なおウェーバーにおいても おそらく 《人間の精神一般》は 一般と言っても つねに個体としての概念であり 《エートス》は これを含み さらに外化して倫理や職業観に広がり また 社会一般的な概念としての《資本主義の精神》をも含むか もしくは その要素である。こういったつながり具合いは まずこうだとして すでに わかっていることがらである。はじめの前提からすればそのような話となる。


精神をもった人間が生きるとき――知性をはたらかせ 意志をもってその成果を実現させようとして 生きるとき―― 価値判断を含めているはずではある。知性の成果は 思想である。だが いまは この価値判断をも 価値自由的に捉えて ただ 人間精神の自然を耕すという意味で 文化行為とよぶとしよう。こうだとするとき この文化的により良く生きるということが 持続的であるなら 人間は 《勤勉》であると言われる。こういう事態がある。
知解行為(つまり勉強)の持続も 意志によるその文化成果の実現への行為の持続も そして 政治的・経済的に《産業》の発展に到るまで それらの生きる過程が――持続的であるなら―― 勤勉だと言われる。
つまり 《精神》が先行し これが 歴史の推進力となっているはずである。殊更いう必要はないであろうが 大前提として そうである。文化は われわれがこの文化行為を 人間の自然本性にも 環界の自然にも あるいは 環境としての第二の自然と言われる社会関係の場にも はたらかせるわけであるから ここで 哲学思想とかあるいは自然科学やその技術 さらにあるいは萌芽的にしろ社会科学を この勤勉は 出発点として 含んでいる。
ただし ここでも 勤勉と精神とは 同時一体であるだろうが――すなわち ある種の仕方で 怠惰をも含めて それらは 経験行為として 同時一体であるだろうが―― それでも 勤勉が先行したのではなく 精神(もしくは わたしとその主観)が 勤勉や怠惰に先行していると見るべきである。

  • 仮りに 勤勉という習慣を 他者から・外から 与えられた形で身につけたという場合を考えても その身につけた勤勉に関して それでよいと判断してさらに持続するのも あるいは 止めたいと言って棄ててしまうのも それは わたしである。存在あるいは主観としての精神が やはり先行していると言うべきである。

ここまでの段階で ただちに迂回を終えようと思えば じっさい資本主義の精神という一つの勤勉は 精神一般に 先行したのではないと言うことができる。
ただしこれは まだまったく 個体概念と一般(全体)概念との問題だし そして論理のみによる詭弁くさいしするから もう少し迂回路を掘り下げなければならない。詭弁くさいというのは あたかもヘーゲルのように 一般精神が 現象して 資本主義の精神という一つの具体的な形態を採ったというような抽象的な論理のものでしかないようになるからである。
また この資本主義の精神というものは ウェーバーも 学問独立の精神が 経験的に 有効であるのと同じようには 有効だとは見ていない。(つまり 少なくとも 資本主義の精神の結末については――価値自由的な見方を突き抜けて―― 軽蔑したように批判的である。)そういったものと対比させて 先行・後行を議論することも おかしい。そして じっさいわたしたちが 《ウェーバー学派の倫理と学問至上主義の精神》と皮肉って批判しようとするのは 単にこのように迂回しただけで明らかになる《精神の先行と勤勉の後行》の問題ではないと言わなければならない。
ウェーバーの方法は フランクリンのエートスを例示することによって 確かに実際のところ 勤勉(ないし倫理)を 初めの先行する精神の中に 見ている。さらに 勤勉を 精神の中に組み込んだとも言えるし 精神じたいが――その文化行為じたいが―― 勤勉のことだとも見ているはずである。つまり わたしたちが 勤勉というときには 文化行為の持続性をもって そう言っており このとき そうでない場合・つまり精神の怠惰を もし有効だと言わないとすれば きびしく無効のものとして捉え この無効のものとしては ありうるであろうと捉えていた。怠惰とは たとえば 過去の文化行為の結果への《伝統主義的》な態度を言うと極論しておくのがよいと考える。すなわち 有効な勤勉の中に この怠惰という無効への傾斜可能性を含めたかたちで 捉える。そうだとすれば わざわざ命題の形にしようというときには 《精神が 勤勉に先行するものとして存在する》となるはずである。

  • この細かい定義のような作業は 次のようにも捉えられる。おそらく 精神と勤勉とは 同時一体であろうが それでも《わたしとは勤勉である》と言うのではなく 《わたしは勤勉という過程にある》と表現したいし それでなくてはいけないと考えているところがあるのだと思われる。その《わたし》とは ここでほぼ《精神》と同義である。

ところがウェーバーは――いま先走りして議論するなら―― 近代市民の資本主義の精神という歴史的な一段階では 少なくとも出発点として 精神イコール勤勉 勤勉イコール先行するもの という見方が実現したと言ったわけである。これが 推進力となって 資本主義の精神なるわたしを 社会的に普及させたのだと。そのままではなく 自己を屈折させ あるいは別のものへ転化させるといった段階を通ってだとしてもである。

  • なおウェーバーは この推進力のことを 《心理的な起動力》と言っている。《心理》は 精神の内なるものだが 後行する倫理をかたちづくるものであって 先行する精神と 同じものではない。もしくは倫理と対応するものであって やはり先行する精神と 同じものではない。
  • 精神とは 存在と同義である。存在に 心の動きが起こるのである。
  • たとえば《殺すなかれ》という一つの倫理規範(また法律でもある)に 心理は 心の内でだが ただ対応し反応する動きであるにすぎない。精神は これに先行して その判断をおこなっている。(スミスの《同感》行為と言うのがよい。)そういう形で 先行する推進力である。
  • そして誰もが経験しているように 心理の動きが 一時的にであれ 精神を凌駕してしまう場合が見られる。
  • ウェーバーは この著書の全般にわたって 《心理的な起動力としてのプロテスタンティズムの倫理とその影響のあり方と やがて それが大きく資本主義の精神となっていく推移》を 研究して明らかにしたと言っているのだから 勤勉(倫理)イコール先行する精神とは言わなかったかも知れない。いまは そういう響きが聞かれるし 響きとしては その基調Leitmotivをも形作っているかに見えるとして このように先走りつつ 議論をすすめていく。
  • すなわち もし すべてが 《後行する心理的な起動力》の問題であるとすれば われわれの議論は はじめの前提でおしまいである。そのときには ウェーバーのこの著作は ちょうど《資本主義の精神》を作り上げた犯人の心理的な犯行動機を 調査したものとなって かんたんに言えば 先行する精神の同感理論を説くスミスの議論(学問)の一従者となるはずである。まだ 熟さないけれども ここでは このように。


この先走った一議論とも関連して 迂回路の一端として言えることは 第一に おそらく 文化行為を含むところの人間の自然本性のあり方として 《精神の先行と勤勉の後行》は 一つの一般理論だとまず考えられる。第二に しかも《後行する勤勉が 先行する精神の中に組み込まれる》ことが起こるのではないかということ これをめぐってでなければならない。
実際には 起こりえない――起こるとすれば 無効として――だから もしこのウェーバー批判を なおも継ぐとすれば それは 表現の問題で争わないという一条件のもとにのみである。《心理的な起動力》は 同感の主体たる精神に後行する勤勉・またこれにまつわるものであるとわたしたちは 考えるが 定義と表現の問題で争うことだけでは らちが開かないゆえである。勤勉が自己目的となるなら それは いわゆるガリ勉である。これも 心理的な起動力の問題なのであって 精神は それらに先行して存在しており 勤勉やガリ勉について《わたし》自身の判断を下す主体である。むろん ガリ勉や勤勉べったりとなる精神の状態もありうるわけである。
言いかえると われわれのこの批判は これよりのちは ウェーバーがこの《心理的な起動力》ということを わたしたちの定義とまったく同じかたちで 用いたということを 証明して終えることになるというものである。ここでは むしろ批判者であるわれわれ自身のほうが こころぐるしいのであるが 手続きは踏まなければならない。
(つづく→2005-09-25 - caguirofie050925)