caguirofie

哲学いろいろ

第十章b

全体のもくじ→序説・にほんご - caguirofie050805

§33 人とことばと愛と:
§34 その表現例(聖書1):以上→2005-09-21 - caguirofie050921
§35 聖書2:以下→本日
§36 聖書3:
§37 参考文献

§35 途中の歴史をすべて端折って 《詩編旧約聖書 詩篇 (岩波文庫 青 802-1)》に移ろう。
35−1 そこでこの詩篇の作者は 《 E-hweh / Ya-hweh 》という表現を承けて――すなわち 非人称の表現および社会規範ないし愛の問題をめぐって―― もはや新たに次のように表現してみせた。

ヤハウェ(《彼があらしめる》*1)は私に告げた。

お前はわたしの子
きょう わたしはお前を生んだ。
・・・

詩編旧約聖書 詩篇 (岩波文庫 青 802-1) 2:7)

35−2 《有り HWH 》という語は用いられていないが 《息子 BN / 生む YLD 》の語を用いて表現している。ヤハウェつまり《彼は存在せしめる》というのだから その彼によって生まれた子であると 詩篇作者は自らのことを語ってみせた。
35−3 ただしその言葉は なおヤハウェ自身が語ったという表現形式のもとにある。
35−4 これは まず一面として 単なる自同律であると見なさなければならない。《〈存在せしめる者〉が私を存在せしめた》というのは 《私は私である》という同語反復であるにすぎない。他面では ここで モーセの時の表現形式に比べて 新しいことが見られる。《きょう》という時間の特定が現われたことである。
35−5 そのこと(後者の一面)によって あたかもわれわれから分離したよそよそしい観念に常になりかねなかった《 E-hweh / Ya-hweh 》が 詩篇作者との間に つながりを持った。あたかも親と子との関係であると言うかのように。
この作者じしんにとっては 自らの精神=身体的な誕生のあとの 言語表現にかかわっての新しい誕生だというのである。そう言おうとしている。
両親から人間として生まれ育ったならば 社会に生きている限り 第一前提の愛のもとにある。しかも かつてモーセの残した《我有り E-hweh / 彼が有らしめる Ya-hweh 》を承けてその《今日》 この第一前提の愛(具体的な人称関係)に新たに生まれることが 第二前提(非人称のもとの普遍関係への志向)としての愛だと 語ったのだと思われる。
35−6 モーセが 非人称主体の名を E-hweh / Ya-hweh として表現した時にも 《私は〈存在せしめる者 Ya-hweh 〉の子である》という表現をもって呼応した人もいたかも知れない。いなかったかも知れないのだが そのことは この詩篇作者においてはっきりした。これは 虚構としては・そしてわかりやすく言えば 《私は〈規範〉の子である》と語っている。その意味で むしろ日常経験たる第一前提の愛に生まれたのであると。
35−7 けれども 具体的な個々の文が一つの法判断であるというとき この《法判断もしくは 法》は 一個の発話者の単なる主観意思であるとともに それとして文理解を通じて相互の関係了解を目指す規範(文法)でもあったと考えられる。論述(T3=P→C)= 用言の法活用 x 述格という形態が 文法規則である。
今日 わたしはお前を生んだ。
という一個の具体的な法判断が その《わたし》は《 Ya-hweh / E-hweh 》なる非人称であることから 結果的に 愛の法ないし社会規範であることを志向している。社会的な関係形成力としてはたらくことさえ 希望した結果となっている。
非人称は 非人称であること自体によってすでに普遍性志向があるとすれば 上の一文の表現ですでにその《イスラエルの人びと》なる枠を超えていくとさえ考えられるが 逆に言ってそのとき 結果的に成り立っているその志向や希望が どのように実際にはたらくのか これは 謎のままにとどまる。
35−8 第二前提としての愛の領域では――志向性が問題となっているのだから―― つねに謎をとどめている。その謎を とどめつつ 第一前提の愛が詩篇作者にとっては 非人称表現を通じて 規範にかかわって・そのようにして愛そのものとして 自らのもとに経験現実的であると ひとまず 宣言されている。
35−9 そのような宣言をなさずとも 広く愛は すでに経験現実的であると 言える。しかも 非人称表現を通じて かつそれを一個の全くの主観から出発して その愛の経験現実的であることを 明らかにしようとしたのである。
このことは 社会慣習とその法(法律)との関係にあたると言ってよいかどうか。この後者の関係は 前者の事態(詩篇作者にとっての一事件)を自らの基礎としていると思われる。
35−10 われわれの社会生活は 一つの出発点として このような事件から成り立ってきていると思われる。愛憎あるいはつきあいと諍いとは この基軸関係たる愛(第一前提+第二前提)の上に成り立っていると考える。人は 社会の子であると言っていいなら 人はこの愛の子である。
35−11 《〈今日わたしはお前を生んだ〉と〈彼は有らしめる(ヤハウェ)〉が私に告げた》といった自同律(同語反復)の表現によって開き直ってのように 人は 愛を愛として知り 社会規範を捉え ことばに表現していったものと思われる。もしくはすでにあったモーセの律法としての社会規範を おのおの自らにとって現実的な生きたものと捉えていったであろう。
現代の実定法はここに淵源を持つと思われるが 実定法じたいは 自らの根拠をまったく架空に自らが法であることじたいに置いているから――それによって法治社会が成り立つと共同に観念されているから―― 上の例のような非人称表現は もはや何の関係もないとすら主張するかも知れない。

  • 橋爪理論ではこれは 《実定法的顚倒》と呼んでいる。

35−12 次には 言語表現ということにかんする限り 非人称( E-hweh / Ya-hweh )と人間とのからみ合いが つねに謎を秘める愛の問題をめぐって 展開されていくと考えられる。非人称は 名の問題( E-hweh / Ya-hweh )から誕生の問題(時間過程としての愛)へ展開し さらには 揚げて棄てられるかも知れない。

§36 話は――聖書の系譜としては―― イエス・キリストの時に飛ぶ。
36−1 非人称( E-hweh / Ya-hweh )とのつながりが 《道》だと表現しうるとすれば かれは こう語ったという。イエスは 経験具体的な人称関係にある人である。

《わたしは道であり 真理であり 生命である。わたしを通らなければ 誰も父(ヤハヱ)のもとに行くことができない。・・・》
日本語対訳 ギリシア語新約聖書〈4〉 ヨハネによる福音書14:6)

36−2 まずこれも 一つの極限の表現可能性として捉えたい。虚構を大前提としているということである。中で《真理》はこれも 非人称の代理表現として出て来ていると捉えよう。わざわざ代理表現しなくともよいという意味である。
36−3 けれども 《道》と《生命》とは 経験上のものごとであり概念である。そして詩篇作者における親(ヤハウェ)と子との関係が《道》であり ほとんどそのまま《生命》であるのだから 問題は その詩篇の一節での表現が より一層 経験現実的となったと考えられる。しかも じつは――じつに――このイエスの表現によって 非人称主体として立てられていたヤハヱ / エフヱなる言葉と観念とは むしろここで揚げて棄てられたと言ってよいように思われる。
36−4 《私は私である / 私が私である》という一個の単純な文表現の中にすでに 非人称は 収められたと言ってよいからである。イエスの言葉(§36−1)を そのように解する。
36−5 ただし ナザレのイエスとしてではなく キリストとして もしその《わたし》は《 E-hweh / Ya-hweh 》のことであるとするのならば それは 一個の人間が《私は道である》と言うのではなく いわゆる神のほうから 《わたし( E-hweh / Ya-hweh )は道である》と語ったことにもなっている。これは 信仰の問題として ここでは保留しなければならない。
36−6 社会的な規範・関係形成力なる愛にかんして いま簡略に言って 人が《私は愛である》と言うのは まちがいである。

  • 言えば おもしろいであろうが。

第二前提に 謎が残っているから。と同時に 断定的に言って その〔虚構〕表現をもって非人称〔主体〕の問題を解決し 非人称の愛・法を社会的に生きていることになると考える。
すなわちどういうことかといえば ここで用いて来ている《愛》ということばを使って表現するなら いささか乱暴にしかし大胆に ひとりの表現主体たる人が《私は愛である》と言うことが――つまりはその意味で《わたしは道である》と語ってみることが―― 非人称問題の経験論法での言説なのである。
謎を保ちつつ 第二前提(普遍への志向)をどこかには保ちつつ しかももはや経験生活での言説は その第一前提に基礎をおきつつ 《私は愛である》という新しい宣言を獲得することになる。これが 言語表現の問題から見た上のイエスの言葉なのだと考える。
36−7 《愛》をめぐって《非人称》の問題に出会い モーセは《我は有る E-hweh /彼は有らしめる Ya-hweh 》というその名の問題のもとに捉え 詩篇作者はそのヤハヱを親(父)とし自らを子とする。そのような《〈言語表現〉への誕生》という問題のもとに捉え継ぎ さらにこの系譜を承けて イエスは 《わたしは道である》と語るを得た。私の考えでは これを承けて私たちが一人ひとり 《私は愛である》という表現を得ることだと解される。そこに ヤハヱなる非人称は 実際のことばとしては触れられずに 保たれ おさめられ さらには生きることになると考えている。
エスが《わたしを通らなければ 誰も父(ヤハヱ)のもとに行くことができない》(§36−1)と言うのは その《わたし》を 《私は愛である》と宣言するときの《私》と解することができるのではあるまいか。言いかえると イエスはたとえばこのような表現をもって 詩篇作者以来のそれ以上の革命をおこなったのではあるまいか。
36−8 詩篇作者の《誕生》が《誕生》となった。モーセにおける非人称の名が 止揚された。第二前提としての愛にかかわりつつ その普遍性への可能性を捉えつつ 誰もにとって誕生が誕生となった。ヤハヱの《我有り E-hweh 》が 人間たる一個の表現主体の《我有り je suis.》となっていく。《存在》の問題が それとして=経験思考のもとに 追及されていく。社会規範ないし法=権力の問題も それとして=経験科学のもとに 考えられていく。現代では 実定法にもとづく法治社会という共同自治の制度を持つにいたる。――これらは イエスの革命(《私が私である / 私が私する》)を経てのことだと考える。
36−9 ここで――現代社会における言語表現の問題として―― なお課題があるとするなら それはたとえば 《実定法的顚倒》という情況であり 科学信仰とその反措定との対立情況であり あるいは存在論をめぐる形而上学とその反措定との対立情況などなどであるだろう。
36−10 実定法は 自らに根拠(正当性)を持たせることはできない。そうしようと思えば それの法律としての淵源へと無限後退せざるをえないはめになる。法=権力ないし社会規範は それに対して愛が先行するのであり 愛がその基礎であり基盤であるはずである。それゆえにも 《私は愛である》と宣言する一人ひとりの市民が 先行しているのでなければならない。この事情は 科学や存在をめぐる相い対立する議論や思想にかんしても 同じだと考えられる。
36−11 なるほど第一前提たる愛・その社会生活にもとづく人間や経験思考の時代を切り開いてきて われわれは たとえば神なる非人称主体の問題を解決してきたかに見える。だけれども イエスの革命は 非人称を無視し放擲することによって成り立ったわけではない。単に第二前提たる愛をいわゆる理想として 保てということではなく その関係形成力たる愛に とどめられつつ揚げられたのである。
このような事情をめぐって現代の課題は 残されているのかも知れない。
36−12 そしてしかも現代社会の総体的なもろもろの力は 個人を凌駕しているという経験現実がある。かんたんに言うとするなら ここでは このような経験現実を引き受けつつ 一方で 上の《私は愛である》という宣言の消えゆくことを捉えており なおかつ他方では それに代えて 愛は その無力のうちに有効である――つまり非人称じたいが 死滅したわけではない / むしろ経験的な愛としての人称構造のあるところに 非人称は死滅しえない――と 了解しているはずである。これが 掛け値なしの人間現実であるだろう。
36−13 かくなる上は 人はもはや――法律や権力の改善なり政策的な社会問題の対応なり また経験科学の進展なりをいま別とすれば―― ふつうに個人としてその互いの関係として 個々の法判断文を表現しつつ 生きていくことになる。そこでは AハBガC文型/ あるいは能格構文/ あるいはS-V-O構文などなどそれぞれの文法に則って さまざまな表現形態で 進めていってよいと考えられる。そのとき 愛は 社会における中立的な関係形成の作用であってよいはずだし それは歴史経験的に 時として実際に有効となって現われるかも知れない。全く単純にそこでは 主題と論述との発展的な循環の過程になるのだと思う。
36−14 以上のような展望を 橋爪理論では次のように表現している。と捉えた。

実定的な法秩序(ないし 権力状況)をこえる構図を提示できるかどうかは いまのところ ひとつの思想(ないし 言語表現)の課題である。社会が完璧な表現の空間となり 各人が 記号的生の自立をとげたとき こうした法秩序は かろうじて無化されるだろう とわれわれは考えてみたい。《記号空間論》(=《〈言語〉派社会学》)という作業は そうした予想に 充分な根拠を与えることを 目標としている。
橋爪大三郎:《〈言語〉派法理論 要綱》p.92=結語の部分)

この課題にちなんで言えば 実定法的な社会秩序 / 権力情況 / 学問・思想の情況 / あるいはいわゆる宗教をめぐる情況 これらにおいては 法律条文や権力関係やあるいは理論や教義やが あたかも再びモーセの時代に戻ってのように しかも一般に通俗的な《非人称》やその律法・道徳とみなされてしまっているのではないか ということだと考える。ただし中で宗教にかんしては・またそれをめぐる学問や社会思潮にかんしては むしろモーセ以前の・あるいはアブラハム以前の まったく混沌とした情況(ポスト・モダン?)にあると言うべきかも知れない。
36−15 けれども
《私は愛である》
という出発点。このやや挑発的な言説をもって 序説・にほんごの全体の結語としたい。



§37 参考文献
37−1 日本語全般について 次を基礎知識とした。
大野晋・佐竹昭・前田金五郎:岩波 古語辞典 補訂版1990

  • 〈用語〉について(上代特殊仮名遣の甲類・乙類――奈良時代の発音―― / 同根・同源 / ク語法 / 母音交替・子音交替)
  • 辞典本編
  • 基本助動詞解説
  • 基本助詞解説

大野晋 全著書大野晋とは - はてなキーワード
37−2 具体的な論点の一つである用言の活用組織の生成については やはり次を参照して考えている。ただし 内容はかなり違うはずである。
大野晋1978:〈動詞活用形の起源〉――日本語の文法を考える (岩波新書 黄版 53)の〈付〉
ごく最近 次を読んだ。議論の内容は違っているが 比較対照しうる。
)松本克己1994:〈日本語における動詞活用の起源〉――日本語語源研究会編:語源探求〈4〉 pp.102−126
37−3 文章を引用した聖書。書店の書棚にて入手可能。
)JPN : 小型聖書 - 新共同訳1987日本聖書協会
)KOR : 성경聖経全書1983大韓聖書公会
)CHN : 聖経1983 The HongKong Bible Society
)IN(Indonesian) : ALKITAB 1984 Lembaga ALKITAB Indonesia(はまぞうにあったもの:Alkitab
)HBR : Hebrew Old Testament(発行年不詳)The British&Foreign Bible Society(はまぞうにあったもの:Interlinear Hebrew English Old Testament;web→Hebrew - English Bible / Mechon-Mamre
10)GRK : Septuaginta1979Deutsche Bibelgesellschaft Stuttgart
11)RUS : Библия1968 Москва(はまぞうにあったもの:Russian Bible Holy Synod Version
(1)GER : Die Bibel (Standardausgabe schwarz): Mit Apokryphen, in alter Rechtschreibung1982D.B.Gesellschaft
13)ENG : Bible: New English Bible1971N.Y.Oxford.U.P.
14)FR : La Bible Ancien Testament I  1956Gallimard
web→BibleGateway.com: A searchable online Bible in over 150 versions and 50 languages.:各言語
http://ebible.echurch-jp.com/:日本文
kidok.info -&nbspkidok リソースおよび情報:韓国文
http://septuagint.org/LXX/
http://www.topchretien.com/topbible/lireLaBible.php?traduction=LSG
37−4 文例を引用した文献
15)ウラルトゥ文 : Меликишвили,Г.А.:Урартский Язык 1964НАУКА
16カフカース諸語(グルヂア文の概説) : Климов,Г.А.: Кавказкие Языки1965НАУКА
17)アラスカ・エスキモー文 : 宮岡伯人1978:エスキモーの言語と文化 弘文堂→http://item.rakuten.co.jp/book/8666/
18)〃:〃 : 1987エスキモー―極北の文化誌 (岩波新書)岩波新書
19)〃:〃 : 2002「語」とはなにか―エスキモー語から日本語をみる三省堂
20)アジア・エスキモー文 : Меновщиков,Г.А. :Грамматика Языка Азиатских Эскимосов1962МОСКВА
21バスク文 :下宮忠雄:バスク語入門―言語・民族・文化―知られざるバスクの全貌1979大修館書店
22)ナーナイ文(トゥングース系): Аврорин,В.А.:Грамматика Нанайсково Языка(二巻)1959НАУКА
37−5 言語表現と非人称の問題(§10余論)
23橋爪大三郎 :1978〈《言語》派法理論 要綱〉→http://www.valdes.titech.ac.jp/~hashizm/text/hamp/index.html
24)〃 :1993橋爪大三郎コレクション?身体論 (橋爪大三郎コレクション)・?性空間論 (橋爪大三郎コレクション)・?制度論 (橋爪大三郎コレクション)(三巻)勁草書房
37−6 すべて最小限にとどめた。理由として
? 他の所説の紹介・批評を控え ここでの考え方を中心に述べた。
? その意味では逆に 関連する諸説の文献を挙げるべきだが そうすると間接的に参考とした書物を含めてそのすべてを挙げなければならなくなる。

  • 中で§37−2については そこでの(4)松本克己1994に 文献紹介がある。

? すなわち――?の文献を除けば―― ここでの論点や見解あるいはその基礎知識とも直接にはつながらないけれど さまざまに一般的に学んだ書物をすべて挙げなければならない。ここでのいささか突飛な所説は そのような方面とのつながりのほうが 大きいかも知れない。たとえば日本古代にかんする文献がかかわっている。この分野一つをとってみてもその歴史・文学そして言語の研究書が 読んだものはすべて入ることになる。
? ここで述べた日本語についての自説は 基礎知識にかんする内容(§37−1〜4)を別とすれば これまでの研究成果としての所論の上にもとづいて またそれらを摂り入れて さらにその先を一歩二歩と進めるというたぐいの内容ではないと思っている。
たとえば生成日本語文法の立ち場で概説した
25井上和子編 :1989日本文法小事典大修館書店
についてみても その立ち場つまり出発点が わたしの議論と違っていると思うので これを一つひとつ批評したり そこから発展させたりすることは いま一つ別の仕事になると考えた。
? このような事情から 文献提示は控えることとした。
? §37−5の文献(橋爪理論)は別である。言語表現論として議論はかみ合っていると思う。というよりも 橋爪氏の理論は 私の自説に先行している。学びつつ さらに自己の考え方を展開していきたい。
その意味は たとえば一例として 橋爪理論が ソシュールの言語記号の恣意性やチョムスキーに発する生成文法の理論を摂り入れていると思われることにある。私のばあい 基本的にソシュールには批判的な立ち場であり チョムスキー理論は摂り入れていない。
しかもただし 非人称論では 橋爪説は 私のここでの説と同趣旨であるというか すでに先行している。――これらに関して もし違いもあるとすれば それは今後に残したかたちになったと思われる。

  • 言いかえると 私の言説としては 非人称論にあっては むしろ積極的に結論部分にも謎を残すかたちにしている。そのような違いも生じているのではないか。

参考文献として さらに
26橋爪大三郎全著作→楽天ブックス: 橋爪大三郎 の検索結果 1/5 ページ
を追加して締めとしよう。


(補遺)トルコ語に触れた箇所があった。次を参看した。
27)Lewis, G.L. : Turkish1978(同じTeachYourselfBooksで次がはまぞうにあった。:Teach Yourself Turkish Complete Course Package (Book + 2CDs) (TY: Complete Courses)

  • 初稿1995.12.10 
  • 掲載終わる2005.09.22
  • 校正見直し完了2005.09.28 

 

h + circon. under it: ĥ ou Ĥ
s circon: ŝ
א
a accent grave: à
a accent aigu: á
a accent circonflex reverse: ă
a accent bar: ā
e accent grave: è
e aigu: é
e circon: ĕ
e bar: ē
i accent grave: ì
i aigu: í
i cir: ĭ
i bar: ī
o grave: ò
o aigu: ó
o cir: ŏ
o bar: ō
u grave: ù
u aigu: ú
u cir: ŭ
u bar: ū

u Umlaut :ü ü ü ü ü ü ü

*1:この使役相での解釈は 残念ながら定説ではない。→CATHOLIC ENCYCLOPEDIA: Jehovah (Yahweh)