caguirofie

哲学いろいろ

第十章a

全体のもくじ→序説・にほんご - caguirofie050805

第十章a 余論――非人称による表現――

§33 人とことばと愛と:
§34 その表現例(聖書1):以上→本日

§35 聖書2:以下→2005-09-22 - caguirofie050922
§36 聖書3:
§37 参考文献

§33 ここでは ごく簡単に 言語表現が 人間にとって どういう関係にあるか これを 愛という一視点から考えておこうと思う。
33−1 ここでの《愛》は まったく中立の視点に立った概念である。
33−2 言語類型を一般に 文生成の始原相に近いと考えたAハBガC基本文型の観点から捉えたとすれば そこから必然的に導き出される一つの問題である。言語表現の社会関係における位置づけといった課題である。決して別論ではなく 本論であるはずだが 簡単な議論にとどまるという意味で 余論とする。
33−3 中立的な《愛》を一視点とするという意味は 次のようである。一般的なふつうの法判断文 これを通しての表現が 人間にとって人間どうしの関係〔過程〕じたいであるということ これをそのまま《愛》とよぶ。ごく中立的にこの時間的な・動態的な過程としての社会関係 または時にその関係形成力 これらを《愛》とする。
33−4 要するに上のように定義するよりは われわれにとって認識しうる愛は このごく普通の日常生活における社会的な人間関係のことにほかならないと考えるからである。
わづかにその関係を形成する力としては  それをもし想定するとすれば 一種の公理として前提すべき愛だということになる。
33−5 そしてその想定に立つ限り 関係形成力としての愛は われわれにとって 認識しえないところがあるか あるいは事後的にしか認識しえないか または一個の人間が自己の能力では意志しえないと言うべきものであるか だと思われる。そのようにも前提として確認しておかなければならないはずだ。
33−6 しかもこのような前提のもとに 関係および関係形成力としての愛を想定することは 一般に人間にとって 了解しうるものだとも考える。その限り 愛の問題を 言語表現をめぐって 考えておきたい。
33−7 さらに 同じく前提的な事項としては 関係形成力というときの愛は 一般に慣習や成文法としての社会規範にもかかわると思われる。またそのように仮説する。
33−8 この社会規範にかかわる愛としては 言語表現をめぐっては いわゆる非人称表現が 問題になってくるのだと思われる。
33−9 この余論は このような出で立ちである。
33−10 中立的な愛について再度 確認しておこう。確かに愛ということばには 定義し尽くせぬ・そして考え尽くせぬ内容と幅とがあるかも知れない。とは考えられるものの 反面で そこまで究極のことがらを考えなくてもよいとも思える。その究極を考えることというのは 同時に 人間の想像あるいは想像力の問題である部分が非常に強いとも思われる。それゆえ自由な想像やまた思想によって 幅広く自由で 豊かな・奇蹟にも近い愛が一般的にも了解されうるとしても むしろそれゆえにも すべては 生活日常として経験的な人間と人間との関係過程において・つまりそこに収斂してのように 人びとに了解されうるという愛に注目したい というのが ここでの仮説である。
33−11 具体的に言いかえるなら 社会関係には 愛情と憎悪 和平と争闘 あるいは誤解を誤解として了解しうる場合を含めた互いの理解があると見られ こういった正負の内容を引きくるめたその人間関係 これを 基本的に・また基軸となる概念として 愛とよぶことにしたい。
33−12 この愛をめぐって ここでは 言語表現における人称構造の問題・しかもそれを全般的に扱うのではなく もっぱらそこにおける非人称表現の問題 これに絞って 考えていこうと思う。
33−13 なおこの種の議論としては 橋爪大三郎氏にすでに正面から取り上げた所論のあることを 今年(1995年)知った。

  • 《〈言語〉派社会学》のもとに ごくかんたんな説明に絞っての《言語一元論》を打ち出し 言語表現をめぐる《規範》および経験具体的な《社会規範》を捉えて 議論を試みている。
  • 言語表現をめぐる基礎的な《規範》 これは われわれのことばで 関係形成力としての愛のことである。社会規範については その関係形成作用としての愛と言えばよいかも知れない。→《橋爪大三郎コレクション Ⅰ身体論 (橋爪大三郎コレクション)性空間論 (橋爪大三郎コレクション)制度論 (橋爪大三郎コレクション)》1993
  • また 《〈言語〉派法理論 要綱〉(1978未公刊)においては 人称構造論を展開し 〈言語事象としての法〉を捉え この社会規範にかんして実定法の段階にある現代としては その実定法の性格内容ないし それとしての司法=権力論にまで及ぶ。

ここでの愛の議論は 非人称 / 規範(関係形成〔力〕)をめぐる言語表現にかんして 同じ趣旨であると考えるのだが ただ素材を別とし(または 具体的な素材を扱っており) その意味での観点を一度明らかにしておきたいと思っている。思ってのことである。
橋爪氏の議論に関しては 行論のなかで必要と思われる事項に触れていくはずである。また 触れなければならないであろう。考え方としてはすでに私自身のもとにあったものだが すでに発表されている橋爪理論に対して私は 賛同しているからである。それゆえ 微妙なところでは きちんと触れておかねばならない。
33−14 さて 言語表現には 人称構造というものがある。基礎として文表現をめぐる発話者と受話者の関係である。
33−15 一般的に言って法判断文には 発話者が その文の統括者・判断主体として控えている。具体的な個々の文をめぐっては当然の如く ほかの誰でもない一人の発話者が 関係過程的に存在している。この限りで 一個の表現主体を想定する。二人や三人が集まって発話者となるわけではないから しかも言語表現が過程的な関係にあるほかないからには この表現主体は 社会的な独立存在であると同時に社会的な関係存在であると考える。ここには 文表現をめぐって 人称構造が成り立っている。
33−16 具体的な発話者も そして具体的な相手たる受話者も未来にもそうでありうる仮想の受話者も いづれも人として それぞれ表現主体であるとするならば 互いに対等の人称関係が同じく想定される。
33−17 表現にかんする人称関係・そしてこれにもとづく存在(存在者)としての愛(社会関係)にとってその単位体は 二人の人の対(つい)関係ないし二角関係である。もう一まわり拡がった単位体は 第三者(他称・三人称)を容れた三角関係である。
33−18 表現主体としての人間存在が 有限で時間的であるとするなら・すなわち言いかえると ことばの表現(文)が 人称関係の社会的な構造のすべてを覆い尽くすことはできないとするなら 二角関係ないし三角関係という単位体は 一方でその限りある相対的な単位体関係であることに甘んじなければならないとともに 他方で その関係の基軸となる要因を 愛として 抽象化もすれば ある種の仕方で普遍化して捉えようともする こう思われる。

  • 視角と内容にずれがあると思われるが 橋爪理論では 現実が《局所》と《全域》との二重から成ると見る。――上の愛は もともと局所における社会現実のことであり 《全域》という視点に必ずしも一致させようとするのではなく 全域にまで拡がりうる・拡げて捉えうる傾向を持つというほどの内容である。

33−19 これは 文(言語表現)が 互いに理解されうるということ・または 人称関係が対等で自由であるということ・そして これらの理解可能性の共有や互いの自由対等性のやはり共有を――そう想定される限りでは―― 単なる前提としてだけではなく その前提内容を実現させようとする志向性が人にはあるということを物語るはずである。これらに基づいて 特殊個別的な経験でしかない愛にかんして これを普遍的な事象としてさらに(=自同律の如く)想定するものと思われる。
33−20 ここまでの議論をまとめるならば 言語表現にかんして まず愛(関係過程)が存在すると前提される とともに この愛の社会的な(その意味での普遍的な)現実性を前提してよいと思われることを確認したい。後者の前提にもし色をつけるならば 抽象的な関係形成力としての愛(またそのように公理として立てる規範)にまで 発展(?)するかも知れない。
かも知れないということの意味は 規範たる愛が現実だと無条件に言うのではなく 日常現実的な人称関係たる愛にどこかで 規範たる愛につながる部分が存在するであろうということである。
どこかでというのは その部分的なつながりに関して実現するかどうか されているかどうかを 問わないし 問うてもわからないし むしろそのわからないまま 個別相対的な愛がなおもなおも さらにさらに 推移していくのであろうという意味だ。
33−21 要するにわれわれは互いに――社会関係的に(≒試行錯誤の過程の中に)―― 文表現を通じて 理解しあおうとする。
33−22 これが 愛である。
33−23 ということは 具体的な人称関係・すなわち特定の二角ないし三角関係における文表現は それじたいが 第一前提たる愛(関係過程)であると同時に 相互理解への志向性たる第二前提としての愛(関係形成力)をも なにがしか どこかに 伴なっていると言える。

  • もし仮りに人間にとっては 相互理解の不可能であることが明らかに普遍的に確定したとすれば こんどはその前提に立って 社会生活をいとなむという別種の意味での関係形成が しかも愛として 想定されることになろう。

33−24 後者(第二前提)としての愛は 端的に言って 普遍性を目指しており 具体特殊の三角関係の範囲を超えようとしている。または 特定の人称関係を超えているかに想定している側面がある。あるいは そう信じている側面である。
このような一側面が 不安定ながら 不安定なものとして過程することじたいは つねに明確に 存在するという前提である。
33−25 前提にかんする話が長引いているけれども 人は第一前提たる個別経験的な愛に甘んじざるをえないということは 普遍的な愛が実現されうる現実だと考えていないことを意味すると同時に その普遍的な愛を一人ひとりが志向してもいることだと考える。
すべての人と個別経験的な愛の関係に入りうると言わなければならないからである。
この第二前提のほうは 一般に人称関係を超えて――すなわち より精確には 三角関係のすべての集合をさえ超えて―― 普遍性を志向することだと考えられる。
33−26 言語表現としては これら二つの内容の前提が 経験現実的だと思われ それらを合わせて 愛とする。
33−27 この愛が 社会生活じたいであり そこに社会秩序を成り立たせているちからがあると想定し これに着目するなら 愛を社会的な規範であると言ってもよい。
33−28 この社会規範は 言語表現にかんして 特には非人称の問題だと考える。人称構造に《非人称》が生成しているのだと思われる。
33−29 この非人称なる愛は 三角関係を超えて普遍的であろうとしていると同時に その具体的な三角関係じたいの中にはたらく と想定される。
33−30 要するに 言語表現は 愛の問題として その表現過程じたいの中に 非人称〔をめぐる関係〕を もたらしていると考えられる。要するに――従って――愛の問題を 言語表現にかんして 非人称の問題として 考えてみようというにすぎない。そしてただし 第二前提のようであるならば この非人称表現は 社会的な関係や秩序の形成力として 何がしか かかわっているであろうということになる。

§34 言語表現の可能性を たとえばこの非人称の問題にもかかわって よく追究しているのは 聖書の表現である。
34−1 たとえば神ということばは 非人称の問題である。二角関係のどちらでもなく 三角関係のいづれにもあてはまらない それにもかかわらず 人間の言語表現に現われる。
34−2 たとえば《モーセは神に尋ねた》などという結構=虚構のもとに 表現が展開される。人称ではありえないものが 人称として表わされる。人称ではあらざるものと モーセは話をしたという表現形式である。《私は今 イスラエルの人びとのところへ参ります。彼らに 〈あなたたちの先祖の神が 私をここに遣わしたのです〉と言えば 彼らは〈その名は一体何か〉と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。》(旧約聖書 出エジプト記 (岩波文庫 青 801-2)3:13) 

神はモーセに 《わたしはある。わたしはあるという者だ。》(〔6-JPN〕)と言われ また 《イスラエルの人々にこう言うがよい。〈わたしはある〉という方が私をあなたたちに遣わされたのだと。》
旧約聖書 出エジプト記 (岩波文庫 青 801-2) 3;14)

34−3 ここでは 《イスラエルの人々》というかたちで 人間一般の社会的な関係が問われている。このような表現を通しての愛の問題であり またここでは エヂプトの国に隷属する身分としてそのイスラエルの共同の境遇や利害が やはり問われている情況である。そのとき――もう少し言えば―― このような非人称の表現を通して 彼らの具体的な人間関係の形成が 問われている。
34−4 ここでこの神の名として 人間の言葉で表現された部分は 次のようにいくつかの言語に訳されている。この名を明らかにするかどうか どのように明らかにするか これに 人びとのあいだの愛がかかっているというわけである 物語にかんする限りで。
(a)

〔6-HBR〕: אֶהְיֶה אֲשֶׁר אֶהְיֶה *1
E-hweh aŝer e-hweh.
逐語英訳: I-am who I-am.
〔6-FR〕: Je suis qui je suis.
〔6-ENG〕: I AM; that is who I am.

(b)

〔6-GER〕: Ich bin der Ich-bin-da.
〔6-GRK〕: 'Εγω ειμι ′ο ων.
Egō eimi ho ōn.
〔6-RUS〕: Я есм' Суши.
Ya esm' Suŝi.
逐語英訳: I am Being.

(c)

〔6-CHN〕: 自有永有的。
shì zì yŏu yŏng yŏu de.
〔6-KOR〕: 스스로 있는 자니라。
na -nün süsüro issnün ja-nira.
逐語和訳: オノヅカラ有ル者-ナリ

34−5 (a / b / c)の三つの種類に分けたのであるが まず(a)類は そこに日本文訳(§34−2)も入ってきて その特徴は 《〈わたし〉の存在すること》を無条件に一般的に表わしていることである。それに対して (b)類は 無条件なる存在一般というよりは どちらかといえば《いま・ここなる現前》を示そうとしており (c)類は 中国文例での《自有 / 永有》なる表現が示すように 《存在》の性格内容をそのように意訳している。

  • (b)類の訳にも 永続性が示されていると言うべきか?

34−6 原文である〔6-HBR〕の e-hweh は先に見た yi-hweh (= he is )に対応する《 I am 》の形態である。用言( -hweh < HWH 〔有リ・存在スル〕)の不完了相であるゆえ (b)類のような現前相(〔6-GER〕 Ich-bin-da )やいわゆる現在分詞での継続相(〔6-GRK / RUS〕 ōn / Suŝi =《 being 》)も 表わしうる。
34−7 問題は そのように神が名のったとモーセが人間の言葉で表現していることである。神と語りあって(?) その時の神の発したことばとして表現された文は ふつうの法判断文であるはずだが そう見るだけでよいのかどうか。
34−8 いまは非人称を用いる表現を問題にしているのだから 確かにその意味では 単なる一つの法判断文である以上の意味あいが 第二前提たる普遍志向性にもかかわって出て来ていると言えるはずだが 焦点は必ずしもそこにはない。
34−9 ただしこの焦点となる問題は必ずしも取り扱いに厄介なものではなく けっきょくそれは――つまり想像上の表現主体ないし啓示主体が語ったという一問題は―― 人間にとっての言語表現の一つの可能性を示すものとして 考え扱っていけばよいと思われる。
可能性としては 一つの極北であるように思われる。従って この極限の一可能性をそれとして捉え これをめぐって 言語とわれわれとの関係を考えていくことができる。もっと具体的にいえば モーセイスラエルの人びとにとっての団結や共同行動といった社会性やその経験現実に 焦点をあてていけばよい。
34−10 非人称(これを表現に表わし提示すること)は 確かに愛の第二前提たる普遍性への志向にかかわると思われるのだが もう一度ひるがえって それではここで イスラエルの人びとは / そしてあるいは一般にわれわれ自身は 《〈わたしはある〉が私をあなたたちのもとへ遣わした》と言われて 一体どう了解することになるのであろうか。通常の文理解がそこに成立して 社会的な愛の関係が われわれのあいだに形成されると言ってよいものなのかどうか。
34−11 このように翻って問うてみたばあいにも やはり考えられることは むしろ表現一般が個別経験的な愛に限定されるという第一前提に確かに基づきつつ そもそもいわゆる虚構・比喩の上に成り立ち その形態のもとに普遍性志向をも試みるところの言語表現が その理解可能性へ向けて追究されている ということであるだろう。
このような一つの了解に立つならば このいまの非人称表現は 一般的に捉えてわれわれに対しても 愛や社会規範の問題が 問われているということであるだろう。憲法や法律に必ずしも神や仏が表現されるわけでは 現代では ないであろうが。
34−12 別の見方に立って こう考えられる。われわれ自身の《存在》について考え これを追究していったら 《我有り》という存在・しかもそのようにあたかも発言する存在 これに出会ったと モーセは――あるいは この聖書の文章は―― 語っているようであると。ここには 不合理な神秘はない。
私は何もいわゆる哲学として考えたいのではなく――なぜなら 社会的な三角関係である経験的な愛に 話としても現実としても 基礎をおいている―― その愛と言語表現との関係をめぐっては 《我有り》という表現形式が しかも非人称の問題として 持ち上がってよいはずだと考える。モーセはここで――イスラエルの人びとという一定の範囲を前提としつつ―― 社会的な関係形成力を問題としている。
34−13 非人称を一個の主体として立て さらにこれが語るという表現の形式は 現代において一般に古いと言わなければならない。そしてそのことを別にすれば そこで――ある意味では そこでこそ――愛の問題が始まっている。社会的な規範は このような非人称問題から出発すると考えられる。

  • 神や仏という非人称の主体を言説の中に用いるという言語表現の問題 つまりは要するにいわゆる宗教の問題 これが不必要な問題となったところで 規範もしくは愛としての非人称の問題が なおもそのまま 問われている。
  • 橋爪氏の理解では 次のようである。

人は 自己の言語的な想念を 《聴く》ことがありうる。(あるいは むしろ 自己に帰属すべくもないような 自身の言語的営為(思為)を 《聞く》しかないはめになるのだと言うほうが よいのだろうか?)
そうした場合 人は その虚像たる発話主体に 非人称の位置を与える以外に 己れの了解の完結性を保つすべは ないだろう。このような人称構造をたてることで 自/他の分称と自己了解の構図は それなりに安定に維持されることができるかもしれない。
真理――自己自身を包みこんでありあまるほどの言語――が人におとずれるのは このような仕方においてである(と当人に感じられるしかない)のが ふつうであるといえようが その限りでは それは (啓示とよばれようとも あるいは憑依とよばれようとも)少しも《異常》なことがらではない。
橋爪大三郎:《〈言語〉派法理論 要綱》p.44。段落に分けたのは引用者。括弧内は原文。)

私の理解では わづかに その《非人称の位置が与えられる虚像の発話主体》を 《我有り》やそれにかかわる了解内容に限るということ つまり私自身が実際に主観としては それに限定しているということ ここにのみ ちがいがある。ただししこの違いにかかわる問題は 一般に議論になじまないことがらである。つまり信仰の問題にまで行き着く。
34−14 非人称問題は 素朴単純にそして端的にいえば 文の生成の問題にからんでいると思われる。具体的な受話者を前にした特定の人称関係においてではなく さらには社会一般的な人称構造の中ででもなく それらを超えてやって来ることばの受容とそれの自己表出が 文表現の生成形式であるとも考えられるから。つまり非人称からのことばは 絶対提示としての或る一つの主題であってよいと思うから。
そしてそれは たとえば どこから来てどこへ行くのかなどの問いにかかわった《我有り》の命題だとは考えられる。そこには 愛の第二前提たる普遍性志向がかかわっているであろう。おそらくは無条件にはかなわないながらの関係形成力たる規範の問題であるだろう。
ということは――ということは―― 中立的な関係形成じたいは 第一前提として あるのだから 非人称の表現とそれにからむ志向性は ほかならぬ個別的な特定の人称関係の場における文表現じたいの中に 宿るものでなければならないはずだ。初めの文生成のちからが その後の具体的な文表現において まったくなくなってしまったとは考えられないから。
発話者は 一個の表現主体として 文の生成とその後の表現過程とにおいても または非人称にかかわろうとも具体人称にかかわろうとも 同じ存在でありつづけると思われるから。
34−15 さて その後モーセは 引き返して――イスラエルの人びととの間には 単純に言って 話が成立したあと―― ファラオのもとに出かけて行った。この彼らにとって異国の地であるエヂプトの国から 我が民を去らせよと交渉する。ファラオの頑なな態度(当然?)に出会っていたところへ 神が再びモーセに語ったという。すなわちそこで すでに取り上げていた一文が現われる。

  • 〔2-HBR〕:Anī Yahweh.(我はヤハウェなり。)

やはり神が語ったというのである。ここでは先の《我有り E-hweh 》とは別に しかも同じくその名を《Yahweh》であると語る。こう表現されたところに 焦点がある。
34−16 この Yahweh も《我有り E-hweh 》と同じように -hweh が現われている如く 《存在 HWH 》の表現をめぐる問題である。と言ってよい。つまり同じく非人称の問題であり それをどう表現するかのそれである。
34−17 《 E-hweh 我有り》あるいは 《 yi-hweh 彼(其れ)有り》〔3-HBR〕が 《存在》を表わす用言( HWH または HYH )のふつうの一つの法活用形態であるのにに対して ya-hweh は 一説として 使役相を帯びて 《彼は有らしめる》を意味するといわれる。

  • 以下 この使役形という仮定での議論である。ただ 別の考えとしては このような仮定が――事実でなくとも――起こりうるという可能性(自由度)が 世界のものであるように考えられる。 

34−18 神は ふつうの体言として
神 El; hā Elōah; hā Elōhīm

  • イスラームの アッラーハ Allāh < Al-Ilāh と ヘブル語のhā Elōahとは 江戸弁と関西弁の違いよりも近い。( hā は定冠詞 ← hal → al。hā Elōhīm は 敬語としての複数形。)

であるが そこで 《 E-hweh 我有り》とは別様に こんどは 《 Ya-hweh 彼は有らしめる》と名のった。とモーセは聞いた。そう表現して伝えられた。
34−19 だがこのことは 言語表現における非人称の問題を むしろよく説明してくれると思われる。非人称を虚構としてあたかも人間と同じような表現主体として立てる問題を別とすれば 神の自己紹介としてのことばが 一方で 《 E-hweh 我有り》であり 他方で同時に《 Ya-hweh 彼が有らしめる》であると表現されたことに その説明の力が その内容が あると考えられる。
34−20 単純に考えて 三人称(彼)で表わされれば余計に 非人称の有り方に近づくとまず思われる。と同時に 一人称での《我は有る》という表現をも合わせて捉えるなら これは 非人称の語りが まったく単純に言って 第三者(三人称)であると同時に われわれ一人ひとりの自称でもあるということにつながると言ってよい。
図式的には それは 関係形成力たる愛や規範に関わっている。
34−21 しかも図式に終わらない(終わらせない)とするなら ここでの一つの特徴としても課題となることは 愛がこの非人称の主体またはその名として あたかも別個に 具体的な人間関係から離れてのように 捉えられてしまったことである。モーセがそのように表現しそのように扱っていることである。
つまりその目で見てしまうなら 意味を有するとはいえ なにか呪文のごとく 受け取られかねない。関係形成力ないし社会規範は このようなあたかも常に呪文とも見なされる恐れのある言葉じたいではないであろうと考えられる。あるいは 愛や社会規範は 概念ないし観念 つまりは E-hweh / Ya-hweh というその発音そのことではないであろうからである。
34−22 ただ ここではまず ともかく 虚構としての一つの極北の表現の試みがなされたと理解しておこう。モーセをめぐるこのような一つの歴史があったのだと了解しておこう。
34−23 このような言語表現の可能性を試みたのは 人類とその歴史広しといえども ユダヤ民族ぐらいであるのだから さらにもう少し この系譜につらなる聖書の文章表現を追ってみよう。