caguirofie

哲学いろいろ

第二部 歴史の誕生

全体のもくじ→2005-06-20 - caguirofie050620

第三十九章 X氏のウタを生け捕る

もし 人びとの間にウタの攻防という戦いがあるとしたなら その中には 特異な種類の人びとがいる。空気のような身体でウタを歌う人びとである。

山代に い及け い及け・・・

もっぱら日子の能力によって あたかも天使の能力を欲してのように 人びとのウタの内容を先取りし 常にその上を行き すべてを包もうとする精神である。これは 存在が 非存在を装うことでもある。隠れたところではたらくその精神を X氏と名づけた。
もし この種のX氏のウタのもとに馳せ参じる人びとがいたとするなら その人たちには おそらく 天使の能力を欲するのではなく 天使の存在を欲して 自らは 根子‐日子の連関なる主体でありつづけよとの声が あたかも対抗するウタの調べのごとく 聞こえて来たものと推し測られる。たとえば 広い意味に取って

山代に い及け 鳥山 い及け い及け

といった言葉での調べである。これは 実際に 言葉に出す場合にせよ 出していない場合にせよ 人びとの井戸端会議での発言だと考えられる。共同主観という。常識 common sense のことである。

善悪の木の規範を超えて

われわれは 事の善悪を言うのではない。ことの善悪をあげつらうものではない。その価値判断によって 裁こうというものではない。かつ 善悪の木による取り決め(法律)に違反すべきではない。ふつうに 人が 善悪の木の――日子としての――主体であることに 不都合はない。善悪の木の法律また慣習を用いるべき考え方を練り上げ 自由に用い得る社会の形態を――金の模像を銀の飾りをつけて――作ろうというのである。
実際 ゐや(礼)無きことを嫌いとがめるのは X氏のウタのほうである。タラシヒコなるウタの構造である。しかも イリヒコのウタの系譜も タラシ系と 深く複雑に入り組みあっている。善悪の木の規範(律法)がもたらされたのは そのこと自体 生命の木によってであると考えられた。したがって 応神ホムダワケから雄略ワカタケを経ての継体ヲホドの登場に到るX氏の奥の手は 離れ業であった。
ここで ミマキイリヒコ視点=オホタタネコ原点の復活が 実現されるということ これを議論してゆかなければならない。じじつ 実現されている。非存在のX氏は 存在としてのウタが存在していて絡むのでなければ 起こりえないからである。復活が捉えられていなければ 離れ業は為しえない。
神学的な観想としては われわれの有としての存在は 無から生じたと考えられる。ゆえに 存在の無なるX氏のウタに感染する。だから X氏のウタの主体も 存在は有であり善であり 基本的に 歴史の誕生に立ったイリヒコ主体である。そうでなければ もっぱらの日子としてのアマガケリも 為し得なかった。ゆえに X氏のウタを批判し そのX氏のウタを生け捕りにする。
雄略オホハツセワカタケに対して 三輪の老女・赤猪子は 生命の木に従って かつ自分の意志の自由選択によって 《山代に い及け い及け》と言ってのように 迫った。つまり 雄略ワカタケのX氏の部分を生け捕りにしようとした。直接 言わなかった・また言うべくもなかった ゆえ その結果についての解釈として そういうことになる。
このような社会資本(人間の諸関係 つまり 愛)の推進力は つまり生命の木は 人間に宿り 時として 見えないチカラとして はたらきたまう。ゆえに 人間の意志の自由選択と そして 神秘との両方を みとめなければならない。事前には 自由意志の意向があるか――そのとき 予期していなかったある種 別の意向が生じるときもある―― または 自己の確信が存在するかなのである。確信は見えない資本推進力が協働したまう時に起こるであろう。

言離(ことさか)の神・・・

雄略ワカタケが 葛城山に登ったとき 《その向かいの山の尾より 山に登る人が あった》のである。すべてワカタケと同じ恰好をしていた。かれが――その向かいの山を登る別の人が―― 

吾は 悪事(まがごと)も一言 善事(よごと)も一言 言放(ことさか)の神 葛城のヒトコトヌシ(一言主)のオホカミぞ。
古事記雄略天皇の段)

とイリ表現したのである。この場合は 直接 言ったのである。または 直接は言うべくもなく 何らかの会話がなされて それを後で ワカタケは こうだったと つまりヒトコトヌシのカミのことに当てて 観想して解釈した。《山代に い及け い及け》の推進力がはたらいたのである。すべてにわたって 雄略ワカタケその人の存在は善であった。善なるべき存在であった。X氏が問われ――だから ワカタケその人の意志も問われ―― これの生け捕りのチカラが はたらいて行った。

猪の唸(うた)き畏(かしこ)み・・・

別のある時 かれが葛城の山に登ると 大きな猪が出たと伝えている。赤猪子との関連がはたらいたと見てもよい。鳴り鏑の矢で射ると うなりつつ 迫って来た。

故 スメラミコト(雄略天皇) その唸(うた)きを畏(かしこ)みて 榛(はりのき)の上に登りましき。
古事記雄略天皇の段)

そこで こう うたったと言う、

やすみしし 我がおほきみの 遊ばしし
猪(しし)の病み猪の 唸き畏み
我が逃げ登りし 在丘(ありを)の 榛の木の枝
(記歌謡・98)

これは 従者の一人が 同様の体験をしてうたったものであるかも知れない*1。問題は 雄略オホハツセワカタケのかれ自身のイリ動態に《い及け い及け》と言ってのように迫って来る――直接には そうでないから そのように解釈されうる――チカラを このような経験をとおして かれ自身 感じたというのが 事の真相ではなかろうか。実際 もっぱらのアマガケル日子は かれ自身 生命の木に たとえ小部分でも 触れ得たのである。善悪の木を知っているだけではなく イリヒコ・オホタタネコを通して オホモノヌシつまりヒトコトヌシのことを 知っている。これをカミと知りつつ 自己の精神のアマガケリに頼む(もしくは 自己のアマガケリのためにそのカミを利用する) つまり 肉の下もしくは肉の上の上なる(空気のような身体の)X氏のウタの流れの中に走って入っていく。

媛女の い隠る岡を 鋤き撥(ば)ぬるもの

また天皇(雄略ワカタケ) 丸邇の佐都紀(さつき)の臣の女(むすめ) ヲドヒメ(袁杼比売)を婚(よば)ひに 春日に幸行(い)でましし時 媛女(をとめ) 道に逢ひき。すなはち幸行(いでまし)を見て 岡の辺(へ)に逃げ隠りき。故 御歌を作(よ)みたまひき。

媛女の い隠る岡を
金鉏(かなすき)も 五百箇(いほち)もがも 鉏き撥(ば)ぬるもの
〔金鋤の五百個で 岡を鋤き撥ねて〔探し出して〕みせるのに。〕
古事記歌謡・99)

ウタは――この歌じたいは―― 面白い。ただ 雄略ワカタケは ここで 実際に《岡を鋤き撥ね》て見せなければならなかった。X氏のウタの流れの中に走って行かないためである。岡の辺に逃げ隠れた或る乙女も これを――時に 図らずして――指摘したのであるかも知れない。だから この指摘する人を求めて 岡を鋤きはね 見つけ出さなければならなかった。

イリ表現の動態は 巡礼の旅である。

古事記作者は 淡々として このようにX氏のウタの生け捕りの作業を 物語の上においておこなったかのようである。それは 自己のイリ動態の巡礼の旅であったから。これを 道徳だと言う人は もはや いまい。もちろん 倫理が含まれていないということではない。だが 倫理を守るためではなく これをよくおこないうるためにである から これは 道徳ではない。善悪の木の規範を問題にするものではない。
誰も 人間の・自分のチカラによって このX氏のウタの生け捕りをなすことは出来ない。すべての人が いちど 墜落したのである。だから 為しうる者はいない。けれども 自己の意志の自由選択が 必要であり これを認めなければならない。そうして むしろ 三輪の赤猪子のように 生命の木(オホモノヌシ=ヒトコトヌシ)による予知をも認めなければならない。両方を認めなければならない。

  • 予知をも認めるというのは 日子の自由意志の世界を その世界だけにおいて 閉じてはいけないという意味である。予知など 人の能力に基本的に入っていない。
  • もちろん 予知と宿命とは 違う。また 宿命と言われる場合にすら 予知と自由意志の選択との両方が 認められることは ありうる。
  • その場合は 宿命とか 予定調和説とか 何とかかんとか言っても ただ 表現じょうの問題である。
  • ちなみに 用言および補充用言の 法活用は 話者の判断を表わすものとして この自由選択に関わってくるであろう。
三輪の赤猪子

三輪の赤猪子の話を あらためて 読んでおこう。妻に召すから 結婚しないでいなさいと言われて 八十年待ったというのである。

また一時(あるとき) 天皇(雄略ワカタケ)遊び行(い)でまして 美和(三輪)河に到りましし時 河の辺に衣(きぬ)洗へる童女(をとめ)ありき。その容姿(かたち)甚(いと)麗しくありき。天皇その童女に問ひたまひしく
――汝は誰が子ぞ。
ととひたまへば 答へて曰ししく
――己が名は引田部(ひけたべ)の赤猪子と謂ふぞ。
とまをしき。ここに詔らしめたまひしく
―汝は夫(を)に嫁(あ)はざれ。今喚(め)してむ。
とのらしめたまひて 宮に還りましき。
故 その赤猪子 天皇の命(みこと)を仰ぎ待ちて 既に八十歳(やそとせ)を経き。ここに赤猪子以為(おも)ひけらく 命を望(おふ)ぎし間に 已(すで)に多(まね)き年を経て 姿体(すがた)痩せ萎みて 更に恃(たの)む所無し。然れども待ちし情(こころ)を顕(あらは)さずては 悒(いぶせ)きに忍びず とおもひて・・・
古事記雄略天皇段)

いちばんの問題は 自己の同一にとどまるという動態である。ときに 八十年も その事態が必要であったということも起こると知られる。良心のためである。むろん 言い続けているように 相手の良心のためにである。

吉野の 弾く琴に舞する女 そして腕に喰いつく虻を喰う蜻蛉(あきづ)

吉野にちなんでの話が 雄略ワカタケに 語られている。まず麗しき童女に恋した話。

呉床座(あぐらゐ)の 神の御手もち 弾く琴に 舞する女(をみな) 常世(とこよ)にもがも
(記歌謡・96)

雄略ワカタケが胡坐にて琴を弾いている。その場面についてのうたである。
同じ行幸の時 アキヅ野に狩りをした。同じくワカタケが胡坐のかたちでいたところ 

ここに 虻(あむ) 御腕(みただむき)を咋(く)ふ 即ち 蜻蛉(あきづ)来て その虻を咋(く)ひて飛びき。・・・
古事記雄略天皇の段)

という。ヤマトの国は 蜻蛉島(あきづしま)というし その野を阿岐豆野(あきづの)と名づけたという話である。
必ずしも この物語りは イリ表現の動態にかんして どういう意味なのか わからない。

悪事(まがごと)も一言 善事(よごと)も一言・・・

あらためて ヒトコトヌシの物語。

また一時 天皇葛城山に登り幸(い)でましし時 百官(ももつかさ)の人等(ひとたち) 悉に紅き紐著けし青摺りの衣服を給はりき。その時その向へる山の尾より 山の上に登る人ありき。既に天皇の鹵簿(みゆきのつら=行列)に等しく またその装束(よそひ)の状(さま) また人衆(ひとかず) 相い似て傾(かたよ)らざりき。
ここに天皇望(みさ)けまして 問はしめて曰(の)りたまひしき
――この倭の国に 吾を除(お)きてまた王(きみ)は無きを 今誰しの人ぞかくて行く。
とのりたまへば すなはち答へて曰(まを)す状(さま)もまた天皇の命(みこと)の如くなりき。
ここに天皇大(いた)く忿(いか)りて矢刺したまひ 百官の人等悉に矢刺しき。ここにその人等(ども)もまた皆矢刺しき。
故 天皇また問ひて曰(の)りたまひしく
――然らばその名を告(の)れ。ここに各(おのおの)名を告りて矢弾(はな)たむ。
とのりたまひき。ここに答へて曰(まを)しけらく
――吾れ先きに問はえき。故 吾れ先きに名告りをせむ。吾は悪事(まがごと)も一言(ひとこと) 善事(よごと)も一言 言ひ離つ神 葛城の一言主の大神ぞ。
とまをしき。
天皇ここに惶畏(かしこ)みて曰したまひしく
――恐(かしこ)し 我が大神 現(うつ)しおみあらむとは覚(さと)らざりき。
古事記雄略天皇の段)

ある意味で 姿かたちをともなったこだまの如く ヒトコトヌシが振る舞っている。
雄略ワカタケは 英雄大王であり 現人神でさえあるゆえ 初めて 一言主の大神に 現実経験として 出会ったという解釈もあるので この経験をどう捉えるか あとは 皆さんの判断にゆだねたい。
(つづく)

*1:猪の唸き畏み 榛の木に登ったのは 日本書紀では 従者の舎人である。雄略ワカタケは 矢で射て 足で踏みつけて殺した。逃げた舎人をも殺そうとすると 舎人がこのうたで弁明したということになっている。