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哲学いろいろ

第一部 第三の種類の誤謬について

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付録五 それでは共同観念夢は どこから来て何故あるのか

40  すべては 主観夢から発する

この観念共同夢の由来については 前節にかんたんに触れている。これに肉付けしていきたい。
ここでも しばらく振りだが 吉本隆明の登場である。

心的現象論序説 改訂新版

心的現象論序説 改訂新版

  • ここに所収の《心的現象論序説》によって引用する。

第Ⅰ章〈心的世界の叙述〉の中で心的現象(このばあい 共同主観夢)の存在を論証しようと試み――われわれはこれをかれが果たしたと考えるが―― しかも この論証された存在の中から 観念共同夢が 或る時ふっとやって来るという構造と過程を・そのような性格を かれの試みじたいの中で みづから論証する結果となったと思われる。これをかれの文章に即して 摘出してみたい。言いかえれば 広く《アマテラス予備軍》性の論証である。やしろの新しい形態への移行の問題が ここにあると考えるからである。ほかに意図はない。

観念論か唯物論かの二元的問題の立て方を超えて

吉本が試みる共同主観夢(たしかに 《心的現象》一般をかれは 対象とするわけだが ここでは 不都合でなければ 共同主観夢を主にあつかうかたちとする)の存在の論証は 第Ⅰ章のはじめの二つの節 すなわち〈1.心的現象は自体としてあつかいうるか〉および〈2.心的な内容〉の両者において 基本的に成し遂げられたように思われる。かれはわづかにこの十余ページの中で きわめて精緻な論理の運びで たとえば《〈観念論か唯物論か〉の二元的な問題のたて方を超えて》 共同主観夢の世界――ないし正確に言えば それの成立する場――の尋究に到達しているように思われる。
この尋究における文章の運びを 要約して紹介することは 難しい作業であるという以上に 原文の論理を曲げてしまう恐れもあるということより 躊躇しなければならなかったが この必要はこれを避けて通れないものでもある。以下 まずこれを試みる。

心的現象の論証の試み

すべての思考Thoughtsの根源(オリジナル)は われわれが《感覚 SENSE》とよぶものである。(なぜならば 人間の《心》のなかの概念はすべて さいしょは 感覚の諸機関に 全部一時にあるいは一部ずつ生じたものだからである。)残余のものはこの根源からひきだされる。
ホッブズリヴァイアサン〈1〉 (岩波文庫) 第一部〈人間について〉一章〈感覚について〉――短い〈序説〉のあとの冒頭の部分に見出される。)

という命題は トマス・ホッブズのものである。われわれも これに同意する。ただしそうすると一見それは 質料主義 materialismないしその純化された形態である唯物論に くみするように思われるかもしれない。が そのとき そう言うよりは――そうではなくて―― こういう命題(認識)を持ち表明することの行為は 人間の能力によって成る人間の有であり それはむしろ 《心》の相対的な独立 ないしは 《感覚》と《心(心的世界)》との全体を捉えてこれを 愛し導く主体は 主観(主観夢)であると言おうとしているのである。この意味でわれわれは このホッブズの立言に同意する。
これが 《観念論か唯物論かの二元的な問題の立て方を超える》われわれのやり方なのであるが ちなみに――ひとこと引き合いに出しておくべきだと思われるように―― アウグスティヌスは次のような文章の中に これを明らかにしようとしている。

私たち以外の他の人が生きていることを私たちに知らしめる《身体の運動》を私たちは自分たちとの類似に基づいて知るのである。そのわけは 私たちはあの《身体》

  • 身体は 質料・感覚である。

が動かされていることを注目するように 私たち自身 自分たちの身体を生かしつつ動かすからである。つまり《生きている身体》が動かされるとき 私たちの眼に 眼で見られ得ないもの 言い換えると《心》を見るための或る道があらわれるのではなく むしろ私たちが自分の《身体》という集塊を動かし得るために 私たちのうちにと同じような或るものが あの身体の集塊に内在していることを認めるのである。それが生命であり魂である。

  • 以上で 足りていると思うが つけたして引用しておこう。

それは人間の思慮や理性に特有なもののようなものではない。獣もたしかに自分たちだけではなく 他の獣たちも相互に生きており 私たちも生きていることを意識している。かれらは 私たちの魂を見ないが 身体の運動から 直ちにいともたやすく本性の或る直覚によって 私たち人間が生きていることを意識するのである。したがって 私たちは私たち自身の《心》に基づいて他人の心を知り 私たちが知らないものを私たちの心に基づいて信ずるのである。私たちは心の存在を意識するのみではなく 自分自身を考察することによって 心とは何かを知り得るのである。それは 私たちが心を持っているからである。
アウグスティヌス三位一体論 8:6〔9〕)

アウグスティヌスがここで 《生命であり魂である》というものが 《心的世界・その場その心的現象》であり 主観夢・共同主観夢であることは言うまでもないだろう。
これが われわれの側の基本的な理論であるが 吉本は きめ細かく論証しようとしている。この議論に入ると まず

そのために必要な原則は ただ《自然過程》

がとうてい結果的解釈としかかんがえられない心的現象のありうることをとりあげればよいようにおもわれる。
(心的現象論序説 p.9)

《身体の運動》とかいった人間の行為の《自然過程(あるいは 自然史過程)》が 《とうてい結果的解釈としかかんがえられない》というとき それは この身体の運動を われわれ人間の《心》をとおして把握しようとしていることを意味する。とやや別の角度から 同じ趣旨を述べることができる。少なくとも そのような動きが あるであろう。

  • それをも 心身相関説のごとくに そして基体は《身体・自然》のほうにあるのだろうから 身体もしくは質料もしくは物質に すべて全面的に 還元しうるという異見について 追い追い検討することが 具体的な論点の一つとなる。

《身体的な もしくは動物的・本能的な 運動から成る自然の行為過程》にも その原因(推進力)には 《心》の世界(意志・愛)が――むろん まず相対的な推進力としてであろうが―― はたらいているであろうと言うのである。このような意味での《心的現象のありうることを取り上げればよい》と言うようである。このはじめの《原則》は――あらかじめながら――成功しているように思われる。

もうひとつ〔必要な原則〕は 個体のうちに 《異常》または《病的》とかんがえられる心的な現象があらわれることを 外からみて疑いえない点にある。
(心的現象論序説 p.10)

これは 第一の《原則》を補強しようとするものであるが その言うところは――そして吉本の論証の作業は むしろ《異常ないし病的な心的状態》の認識のほうにこそ向けられているとも言えるものだが―― かんたんに言って これら《異常ないし病的状態》は その《身体の運動の 異常ないし病い》に 一義的に対応しているというのではなく むしろ《正常ないし健康状態》という心的現象が――そのとき それはこの場合 身体の《正常状態》と一義的に対応するとさえ仮定してもよいと言うようにして―― 人間にはつねに およそ独立して存在するであろうことを 宣言するのである。これは はじめの原則の補強である。

  • 異常の状態が 身体のしかるべき状態に 一義的に対応するのかについては こう考える。
  • そのような心身相関が 仮りに正しい認識とされた事態であったとしても この相関が 医学ないし精神医学によって ほんとうには絶対真理としては 把捉されるに到っていないだろうし 医学の進歩がこれを明らかにするかどうか分からないという部分は措くとしても この心身の対応という仮定的な全体を認めた上でも なおかつ この対応を仮定したり この仮定を見つめ直して検討したりする心的現象は 人間の・相対的に独立したひとつの世界を構成しつづけるであろうと思われる。この認識がむしろ普遍的だと考えられる限りで 上のふたつの原則を受け入れて 話をすすめる。

またかれは 《どのような〈病的〉なあるいは〈異常〉な心的現象も それがあらわれるかぎりは かならず個体を拉しさるといいかえることができる》(p.11)と言いかえるが それは 《身体の運動(自然行為過程)》そのもの以外に 何ものかによって 《拉しさられる》べき《心的現象》が 個体には そのかぎりで独立して存在することを物語ると言うのである。

  • 身体の運動そのもの以外にと言ったが そのとき ただし 身体をその主観夢なり心なりの基体としていることに変わりない。

それは 《身体の運動》または所謂悪しき唯物論の言うように《物質ないし質料の運動》にのみ そのとき 還元されてしまうというのではなく またそう言うべきではなく 個体の心的現象や《共同主観夢》は それじたいの世界で――むろんあの異和をともなって―― 暗中模索の状態ではあっても 内的な思惟を開始し 敢行していると言うのである。逆に言えば 《物質ないし質料の運動》にのみ 身体(および心)の運動が 還元され またその還元の認識作業において 身体および精神と 身体を構成する物質との 一義的な対応をすべて見出し規定することは なされえていないことはおろか 今後もほんとうには為しうると立言するなら この立言を可能にする人間の身体の運動だとか心の認識作業じたいが 心を通じて行なわれるものなのであるし この・《いま》の心は 信仰(主観夢)に属するという以外 考えられない。だから要は 《いま》の主観夢に この・《ただ今》 《正常な・健康状態》が 心身相関のかたちでにしろ 設定されるか否かにある。もし 今後において 心身相関説ないしは物質一元論に立って いまの《異常な病的状態》の一義的な心身対応の実態が 人間によって解明されるであろうと言うのであれば この見解も実は このただ今の《正常・健康状態》の主観夢という原則を かれらは 共有していることにならざるを得ない。これをただ 不問に付しているにすぎないことになる。
これを言いかえると 身体および心的現象の《異常・病い》が 物質の運動に還元されて捉えられなければならないと宣言するときには 共同主観夢の一つの実践の方向を示すものではあっても だから その宣言の将来におけるあるいは成功を 信じて 語っているというよりは ただ この今における人間の存在の・将来に向けての《時間的な過程――そして時間的な間隔をともなった肉的存在の行為は そのようにつねにゆきちがいを伴なっている――》を そのありのままに 語っているにすぎないものである。だから もっと言いかえると いわゆる《唯物論》的な実践の方向は ただ この現在の《共同主観夢》という前提(《道》)を 置き去りにした(見えないようにした)議論にすぎないのである。
また もしこの共同主観夢としての信仰(時間的存在の異和)に立つのではなく この時間的過程じたい・すなわちその《実践行為》に信仰の場を置くということになれば おそらく 人間がその三つの行為能力によって 時間的・社会的な行為をおこなうというのではなく 何ものか別の実体が 主体となって そしてそれは 《物質》という神であろうと思われるが われわれは身体の運動を行なうということにならざるを得ない。この神学は 端的に言って あやまりである。なぜなら やはり端的に言って 人間が聖霊(根源的な《物質》のちからでもよい)を受けよと言われるのであって それは聖霊が 人間の存在を受けよと言われるのではないからである。もし 人間が物質の力を受けよと言われるというときには それは 誰が そう言ったのか。カール・マルクスその人は そのような人間(ないし神)であったのか。たとえもしそうであったとしても そのように命じたとその場合考えられるマルクスその人は これを 根源的な物質の化身などとして言ったのであろうか。かれは そのようなむしろ共同主観夢(端的に《心》)において 言ったのである。われわれは マルクスが 根源的な物質の化身であったとしても マルクスその人(なんならその神格)の奴隷になるのではなく かれ自身も根源的に観想したこの共同主観夢の原理に対して 奴隷となるべきである。《自由》は ここにあって それ以外のところにはない。マルクス聖霊は その言葉(文字)にはなく マルクス聖霊にこそあって かれのこの聖霊ないしその神殿(やしろ)としての身体は 同じ人間であるわれわれの身体が 一般的に言って共通に所有するものであるにほかならないからである。
もしこの共同主観夢が マルクスその人の言葉や文字による理論それじたいへの信仰と崇拝に導かれるとしたならば それは あの《異和》のなだめられたマルクスと心中でもするような観念共同和である。社会的には共同観念夢へと転化したものだと言わざるを得ない。だから キリスト・イエスは 肉と造られた人間イエス・キリストなのであって 共同観念夢の中に寄留しこの中にあってこれを主導するものこそが 共同主観夢という人間のいのちなのであることを示したのである。

神の国が来ますように。
みこころ(共同主観夢の原理)が天に行なわれるとおり
地にも行なわれますように。
日本語対訳 ギリシア語新約聖書〈1〉 マタイによる福音書 6:10)

と言ってわれわれは祈るのであって その逆ではない。祈りにおいて われわれは異和の持続を見つめこれを思う。マルクスの旅立った国が天の国であるとして その天上の国に 地上の人間の国の生活が行なわれますように と祈るのでは断じてない。われわれの共同主観夢は その異和(地上への寄留)が このようになだめられるべきではないのである。そのためには 心的現象の独立的な存在の論証が 一方では 急務の課題なのである。
われわれは つづけて 吉本とともに この課題に取り組もう。
(つづく)