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哲学いろいろ

 第一部       第三の種類の誤謬について

もくじ→2005-05-13 - caguirofie050513

ヤシロロジ(市民社会学)と時間

30 スサノヲの帰郷の旅としての原点

一体に 時間とは 《永遠》の問題である。時間の省察にあたっては その果てに 永遠が顔を出すものである。

  • 永遠は 把握しえないゆえに 一たん顔を出しても まったく幻想でしかないと考えるのは いたし方がない。その人は 一たんはこの永遠を通過したのだと考えるべきである。
  • 《はじめに》の章で取り上げた吉本隆明の言う《遠隔対象》の問題であるが 人が認識しうる《対象》の問題ではない。無限が対象であったら 無限ではない。

永遠とは 表現の問題としてでも 神である。著者にならって《神話の時間》のことである。

《第一章 原始共同体の時間意識》の第一節には 《〈聖と俗〉――意味としての過去》がその主題であるが これで言うならば 永遠とは 《聖と俗》とを超えたものである。一般には 時間的な存在としての《俗》なる人間にとっては 《聖》が永遠である。あるいは 《第三章》の節題でいうならば 《三 世間の時間と実存の時間》とあるとき 端的に言ってしまうなら――誤解はさけられよ――永遠とはこの《実存の時間》と言ってよい。
神もしくは神話の時間に触れるがごとくそこにおいて 聖に対して または 実存の時間として 人の孤独ないし愛欲関係さらにあるいは所有関係のからむ協働〔の場での支配関係〕は 単なる知によるのではない生きた現実の時間となる。つまりまず そのように方向づけられる。
そこでは 人はもはや抽象的・数量的のかたちにおいて普遍的なアマテラス語の世界で 悠長としておられないと知る。その時間が不可逆になってしまったと見られる直線的なアマテラス語の世界のなかで そのように精神(アマテラス概念)において ある種 定量的の普遍的な認識を獲得したのだが この普遍のゆえにも そこでは矛盾や不条理を見ることにもなる。スサノヲ市民は それぞれの試練を受け 葛藤せずにはいないようになった。

  • 葛藤じたいが あるいは思惟にしてもが 生きること自体のそうであるようには 持続的ではないのも たしかだと付け加えねばならないが。

人は だから 確かにこのアマテラス語を通して 或る永遠を通過してのように おのれが 悩み考えある種の栄光を獲得しつつも あやまつ存在としての生きた一人のスサノヲ者であることを見出すであろう。抽象ないし仮象的なアマテラス圏つまり第二階スーパーヤシロにおける栄光のまつりごとから それを保存しつつも自らを引き離し確かに人は あたかもその故国を問い求めるが如く スサノヲ圏・ヤシロのまつりを見出そうとし これに連なることを欲するものと思われる。
《時間・自我・関係》は この過程にある。スサノヲの帰郷の旅なる過程にある。抽象普遍的にして直線的に 知によって《われ考う 故にわれあり》としておしまいにするわけにいかず むしろ《あやまつならば われあり》としてのように 生きて堂々と あらためてその旅に発つものと思われる。一たんは 近代市民として アマテラス語の徒となったのち その抽象・仮象的な時間への参入はそれだけではこれを一つのあやまちと認めざるを得ず 《欺かれるならばわれあり》と言ってのように あらたな出発を始める。
スサノヲ市民として 人の晴れ姿は 過程的にしてここにあるように考えられる。孤独の克服と愛欲関係からの自立 その晴れ姿だと思う。ヤシロロジは この姿の探究にあろう。

  • 吉本隆明については まず このスサノヲの帰郷の旅としてのヤシロロジにかんして 百も承知だと思われる。しかも その言説には あいまいさがつきまとう。
  • かれは 自分じしんの姿を現わさないとともに ヤシロロジの中でそのスサノヲの晴れ姿がどうだこうだとは語らないかもしれない。しかもむしろ その晴れ姿のあると思われるような場所に自らを置いてのように つまり天使のごとき中間状態に位置して 表現を繰り出してきているとも考えられる。これでは 動けない。そのように表現された文章を受け取って読むぶんには 一種の光の天使のごとく見えるところがある。

神話の時間に合わせて きわめて神秘的に非合理的に表現すれば 永遠の観想とともに起こる孤独からの自立と 愛欲関係からの超越とは そのように征服していた悪魔を人が征服することだと考えられる。ヤシロのまつりは これを目指している。
この晴れ姿のスサノヲは 所有欲の織りなす支配関係のからみ合う協働の場へ 現実のヤシロの場へ ふたたび・やたび 帰り立つであろう。解放というなら この方向であると思われる。ヤシロロジの原点とする。
われわれは 時間の比較社会学に戻らねばならない。

31 永遠は今であるという原点

まず 不可逆性としての時間であるヘブライズムを取り上げるべきであろう。永遠は 他の諸民族のそれぞれの神話における神学・永遠観にもまさって ただしく この旧約聖書の民から出たと言わなければならない。

  • なお 永遠観じたいについては 旧約・新約の違いを問わないものと考えられる。著者によって明言されていないようだが クリスチアニズムの永遠と同じだと確認しておかねばならなり。クリスチアニズムは 旧約のヘブライズムが ヘレニズムを通過したといったように受け止められているわけだが 永遠について 差異があるわけではなかろう。

ヘブライズム / 不可逆性としての時間について いわく――

そこでは たんに現在が否定されているのみではなく 幸福のつぎに不幸がくりかえしおとずれてきたような反復としての過去が まさしくそのような時間のあり方そのものにおいて否定されている。現実にたいする否定の精神はここにはじめて徹底化される。
時間の比較社会学 (同時代ライブラリー (325)) p.174)
聖書ダニエル書―原文校訂による口語訳》には 未来にはじめて来るものが永遠に逆転しないこと すなわち 現在のような世が二度とふたたび回帰しないこと・・・存在するものにたいする否定の側面がいっそう強調される。
(同上 p.176)
このようにみると 不可逆性としての終末論の形成の画期をつげるこれらの文章(=旧約聖書)の成立の時期はいずれも 不幸の多かったユダヤ民族の歴史のうちでも とりわけ徹底的な受難と絶望の時期に書かれていることがわかる。この絶望のかなたになお希望を見出そうとする意志としてこれらの《預言》は叫ばれた。パンドラの神話のようにただ希望だけが――すなわち眼前にないものへの信仰だけが――人生に耐える力を与えた。それは最も反・現実的であることによってはじめて現実的たりえたのである。
(同上p.178)

われわれはなおも引用をつづけてよいと思うが 最後のパラグラフは次のようである。

・・・旧約における《砂漠》のシンボリズムにみるように 存在の地の部分としての《自然》をよろこびとしてではなく呪いとしてはじめから感じつづけてきた民族 神と人間の業(わざ doing)のうちにのみ価値を見出しつづけてきた民族であればこそ どのような絶望の時をも耐えぬく信仰として 決して回帰することのない終末の結審に向う時間の不可逆性という観念を結実しえたはずである。

わが主よ これらの事の結末はどんなでしょうか。
聖書ダニエル書―原文校訂による口語訳 12:8)

それはユダヤ民族が 幾十もの世代をつうじて問いつづけたきたかなしい問いである。存在とは逆立するはずの《未来》のうちにのみ 生きることの意味を見出す精神。
時間の比較社会学 (同時代ライブラリー (325)) pp.180−181)

このようである。ところが このような著者の展開過程は 意識的にしろ無意識のうちにしろ 歴史的な順序を逆にしてさえ 新約聖書つまりクリスチアニズムの時間観にむしろ裏打ちされていることを物語ると言わなければならない。たとえば使徒パウロはつぎのように述べて 《〈未来>のうちにのみ 生きることの意味を見出す精神》を すでに裏打ちしている。

見よ 《今》は恵みの時 見よ 《今》は救いの日である。私たちの奉仕が批難されないように いかなることにも人に躓きを与えないようにし かえってあらゆることにおいて神の奉仕者として私たち自身を勧める。すなわち多くの忍耐にも 艱難においても 困窮にも 行詰まりにも 鞭打ちにも 獄中にも 騒乱にも 労働にも 徹宵にも 飢餓にも 純潔をもって 知識をもって 寛容をもって 慈愛をもって 聖霊において 偽りのない愛をもって 真理の言葉をもって 神の力をもって 両手に持つ義の武器により 光栄と恥辱によっても 悪評と好評によっても 神の奉仕者として自分たち自身を勧める。誘惑(いざな)う者のようで しかも真実であり 人に知られざるがごとくして しかも知られ 死ぬばかりでありつつ しかも見よ 生きている。懲罰を受けているようであるが 殺されず 悲しんでいるようであるが 常に喜んでいる。貧しいようであるが 多くの人を富ませ 無一物のようであるが すべてを所有している。
コリント人への第二の手紙 (聖書の使信 私訳・注釈・説教) 6:2−10)

ここでは 《存在とは逆立するはずの〈未来〉のうちにのみ 生きることの意味を見出す精神》は それ(《未来のうちにのみ》という点)があたかも否定されるがごとく いわゆるアウフヘーベンされようとしている。《未来》ではなく 《いま》がそれだと。つまり これは 幻想でもあるのだろう つまりそれは 《存在とは逆立するはずの〈神〉》にのみ属することであろう つまり従って そのような永遠を通過したのであろう つまりパウロその人は この永遠に裏打ちされた時間を生きたとは 形相を通じて=アマテラス語をとおしては 見られるのであろう。
このような時間観の揚棄は ちなみに 別の形態へと変えられたというのではなく カール・マルクスその人において 内容が――その時代に応じて――表現・展開された・コミュニズムが 主観共同が 《存在とは逆立するはずの〈未来〉》の中に 理解されるべきでないことを 述べた。

コミュニズムは経験的にはただ《一挙に auf "einmal" 》または同時になされる支配的な諸民族の行為としてのみ可能であるが このことは生産力の普遍的な発展およびこれにつながる世界交通を前提している。
コミュニズムはわれわれにとっては つくりださるべき一つの状態 現実が基準としなければならない一つの理想ではない。われわれがコミュニズムとよぶのは いまの状態を廃棄するのところの現実的な運動である。・・・
ドイツ・イデオロギー 新編輯版 (岩波文庫)

このような共同主観もしくは 現実的な運動としての主観共同化(たとえば 時間観にかんするである)が 原理的に言って パウロにお路線と異質なものではない むしろ両者は ただしく互いに 強度ゥ主観たりえていることを誰が見ないであろう。

  • この時間観にかんするかぎり コミュニズムの《現実的な運動》はこれを 具象的な実態としては すでに述べたように 孤独・愛欲・所有・協働の社会関係に相い対するがごとく そしてまた 各時代に応じて 個別・具体的に見出し つねに過程的に ふたたび・やたびヤシロに帰り立つようにして これを執り行なう。つまりまた その意味では マルクス自身の政策・運動は旧いとも言って 付け加えておかねばならない。

いま唐突に言うが このような原理(はじめ)としての共同主観は ヘブライズムの時間観を 現代の視点に立って 裏打ちするであろうこと そしてそれのみではなく この《線分的な時間》のほかにも 《反復的 / 円環的 / 直線的》なそれぞれの時間をも包み込んで・もしくはそれらの根底として われわれに有効なのであって この有効性は いまパウロが伝えキリスト・イエスが指し示したというからには 時間的な存在が あの永遠におのおの《自由に隷属する》という意味で かれ(永遠)から与えられたと言わざるをえないというとき 《ニヒリズムからの解放》も すでに述べたように 書斎における抽象概念による未来への展望から ここへと戻ってくるものと考えられる。
この展望をさらにゆたかなものにするためには この小論の範囲を超えて 共同主観はあくまで主観であるからには 一人ひとりの時間的存在であるわれわれの現実のうちにのみ 具体的に問い求められずにはならない。
いえることは そこでさらに唐突にも――われわれの時間を裏打ちするクリスチアニズムの確認だけではなく その内容にも立ち入って――いえることは この生きた時間という《かくも多いなる神の賜物も またそれについて今問い求め論議することは私たちにとって長すぎる別の事柄も もし御言が 肉に成らなかったなら存在しないであろう》(アウグスティヌスアウグスティヌス三位一体論 13:18)ということ。このことは 正当にも 有限なる時間的存在・われわれ人間によって 人間の言葉として 言い出されうるといわねばならない。そうでなかったなら あの裏打ちは むなしい。
ここで すでにわれわれは この問い求めをすでに見出した者のごとく言うとすれば 《じゃ どうしろと言うのだ》との声にわれわれが正当にも沈黙しないためには やはり使徒とともに 《きみの持っているもので 受け取らなかったものがあるか。受け取ったなら なぜ受け取らないように誇るのか》(コリント人への第一の手紙 (聖書の使信 私訳・注釈・説教) 4:7)と答えなければならない。書斎における展望としての《ニヒリズムからの解放》に終わらないとすれば それは この裏打ちされた有限(時間)の自己のもとにおける生きた受け取りにあって そこにしかない。ところが 《もっとくれ》という叫びは 《すでにほんとうは もらった》という人間の側の領収証を発行しているのでないなら 何であろうか。この後者は すぐれてわれわれ日本人のものである。

永遠の現在

もし 《存在とは逆立するはずの〈未来〉》という時間を言おうとするなら――著者にならってそう言うとするなら―― それは 次のように言うとき もっともふさわしい。

今は私たちは 〔あの永遠の像を〕鏡をとおして謎において見ている。しかし かの時には顔と顔を合わせて見るであろう。今 私は部分から知る。しかし かの時には 私が知られているように知るであろう。
コリント人への第一の手紙 (聖書の使信 私訳・注釈・説教) 13:12)

《鏡をとおして》とは 現実・ヤシロもしくは 二階建てのアマテラス圏と連関する社会形態 これをとおしてということであり 《謎において》とは 《象徴(similitudo)において》(アウグスティヌス三位一体論 1:8)つまり 普遍抽象アマテラス概念などの鏡をとおしての謎においてということだ。民族・国民・社会階級・コスモポリタンあるいは象徴そのものとしてアマテラシティ( Amaterasity)などをとおしてである。鏡そのものを見るのではなく 鏡をとおしてということが 《謎》である。
《かの時》とは われわれ人間の復活のときであり それは 《未来》として措定したように 将来することとして臨むのが正しい。したがって

誰も 私たちがこの生(それは時間である)において許されているあの見方 つまり〈鏡をとおして謎において〉何とか見ようと労苦しているのを不思議がってはならない。なぜなら もし〔この永遠の〕直視が容易であるとするなら ここで謎という名称を用いないであろうから。私たちが見ざるをえないことを見ないということはもっと大きな謎である。
だれが自分の思念を見ないであろうか。しかし だれが肉の眼によってではなく 内なる眼そのものによって自分の思念を見ないであろうか。だれが 自分の思念を見るであろうか。まただれがそれを見るだろうか。思念とは精神のある視観である。したがって肉の眼でも見られるもの または他の感覚によって知覚されるものが現在しようがしまいが それらのものの類似が思念によって見られるのである。あるいはそれらの類似ではなく 徳とか悪徳のように さらに思念そのものが思念(おも)われるように 物体的なものではなく また物体の類似ではないものが思惟(おも)われる。あるいは学問や自由学芸によって伝達される知識や あるいは これらすべてのものより高い原因や根拠が不可変的な本性(永遠)において思惟われる。あるいは 私たちは同意しない感覚によってであれ 誤れる同意によってであれ 悪しきもの 空虚なもの 虚偽なるものをも思念うのである。
アウグスティヌス三位一体論 15:9)

だから 時間は 裏打ちされているのでなくてはならないのである。もしくは 裏打ちされたものをとおして 裏打ちするその永遠をある種 予感によってであれ すでに見たと言わねばならないのである。ここから出発は 開始されねばならない。あの《ニヒリズムからの解放》は 展望として帰結されるべき問題意識ではなく はじめの問題意識(《汝じしんを知れ》)でありかつこの意識のうちにその解決が――《精神は全体としてすでに自己を知っていたと知る》という解決が――隠されているのならば これを出発点とすでにしているというのは 事の必然であり 無知ではあってもスサノヲイストのすでに現実であるのでなければならない。この現実が 自由である。ヘブライズムの時間観への観想は このことを帰結(=出発点)として持つであろう。

  • ほとんど 結論内容のみ つづった。

(つづく)