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哲学いろいろ

                     第一部 第三の種類の誤謬について

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ヤシロロジ(市民社会学)と時間

28 現代社会は 時間が 直線的であるか

ここに挿入する小論は 次の書物の批評である。

時間の比較社会学

時間の比較社会学

  • 初出は 《思想》誌 sept.1980〜mars1981。引用は 1981年11月刊の単行本による。

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いったいに 《時間》とは 永遠(無限)の従属概念である。
仮にもし 永遠がけっきょく 単なる幻想にしかすぎないとすれば 時間(有限)とは 有限と有限との相対・比較の概念である。それでも 幻想としての永遠(あるいは空間として宇宙の大いさ)の下位概念であろう。
ひるがえって 時間とは 初めあるものである。多分 終わりあるものである。
永遠とは おそらく――幻想であったとしても―― 人間にとって 孤独もしくは非孤独だと思われる。おそらくつねに反対概念があるということが ひとつである。もうひとつは 初めあり 終わりある時間的な存在なのだから 独り在るというところであろう。
あるいは 永遠を孤独として 人間にとっての時間は 互いの孤独関係である。永遠の内容によっては 非孤独の信頼の関係である。むろん ひろく社会関係である。また これを われわれは ヤシロとよぼうと思う。
永遠とは したがって要するに 時間とは 孤独であり孤独関係であるというとき これは 愛である。もしくは崇高な愛をも 人の欲望としてとらえれば 愛欲であり 愛欲にたいする姿勢のことである。
やしろに生を享けてこれを生きるとき 一般に人の時間は――その有限性という第一特徴に着目するなら―― 愛欲もしくはそれからの出立に始まるものなのだ。孤独・非孤独といっても 同じであろう。
時間の比較社会学――われわれの概念で ヤシロロジ Yasirology と呼ぶもの――とは この愛欲関係から始めているか もしくは これを基軸として広く社会と人間を考究することを目的とする。

時間観を取り上げる

著者・真木悠介は 愛欲関係におけるにせよ また 広く社会関係におけるにせよ その中から 人間の《時間意識》ないし《時間観》を取り出して その角度から考察を開始している。

  • なぜ 時間意識ないし時間観が 一つの視座として選ばれたのか あるいは これを選ぶときの初めのヤシロロジストとしての方法 これらは必ずしも明らかにされていない。われわれも いま問わないが 行論の途中で触れうるかもしれない。
時間意識の四つの形態

まず初めに 真木は 時間意識の基本的な形態を把握する。すでに 整理した結果を提示している。四つの形態として 次のようである。

(図1)
                [不可逆性としての時間]

           線分的な時間    ↑  直線的な時間
           [ヘブライイズム]  |  [近代社会]                                                
[質としての時間] ←―――――――|―――――――→[量としての時間]               
           [原始共同体]    |  [ヘレニズム]
           反復的な時間    ↓  円環的な時間                                  
                [可逆性としての時間]
(第3章一 p.153)

この図示によって かなりの程度に把握しうると思われる。現代社会における時間意識は 行為が一たん行なわれるなら その結果について 修復・改善がなされるとしても おこなわれた行為は もはや元に戻らない。この不可逆性としての時間は ユダヤ教も共有しているが そこでは まだ 質としての内容が より多く意識されている。原始社会では 今日は昨日の 明年は今年の それぞれ繰り返しだと意識されているという。

現実の古代ユダヤ人や原始キリスト教徒および古代ギリシャ人の精神史は ――現実の原始共同体や近代社会の精神史がそうであることとおなじに ――さまざまなヴァリエーションをふくむけれども 理念型 Idealtypus としての四つの時間形態をこのように純化して設定しておくことが 方法として有効であるように思う。
時間の比較社会学 p.153。太字の部分は 原文で傍点を付されているところ。)

というようにである。

  • われわれは これを《方法》とは捉えていない。そうではなく《これら四つの基本的な時間形態を 理論的にたがいに定位する》(p.153)それ以前の考え方が 方法だと考える。
  • なぜこのように時間意識の形態を 《理念型として》とりあげ これが理論的な定位をはかるか そこにあると思われる。
  • 人間の時間としての孤独関係ないし愛欲関係あるいは 互いの協働関係や共同自治等々の社会関係――つまりこれは 孤独・愛欲(所有欲などを含む)を基体とするから――について見ようとするとき それが なぜ・どのように《時間意識の形態の理論的定位とそれをとおしての考察の展開》として現われるものなのか これを明らかにするのが 方法である。

図示の引用のみによってある程度 著者の理論的な展開が理解されると思うのだが 先の構図は あらためて 次のように詳細に説明される。これを見たあとで 個々の概念を捉えていくことにしよう。
図1から図2への展開は そこにおける東西南北の大外枠のそれぞれの説明語句が やはりていねいに明かしていると思われるが たとえばこうである。

(図2−1:図1での北の大外枠)
              《人間性》の自立=疎外   
               (《自然性》からの超越)  
                   ↓↓
               [不可逆性としての時間]

(図2−2:図1での西の大外枠)                 
《共同性》への内在―→[具象的な質としての時間] 

(図2−3:図1での南の大外枠)

                [可逆性としての時間]   
                  ↑↑
               《自然性》への内在

(図2−4:図1での東の大外枠)

  [抽象的な量としての時間]←―《個体性》の自立=疎外(《共同性》からの超越)

(図2−5:図1での中央の座標)

      ―――――――→[ヘブライイズム]―――――→
      ↑           線分的な時間           ↓
   [原始共同体]                     [近代社会]
   反復的な時間                     直線的な時間
      ↓                               ↑
      ―――――――→[ヘレニズム]―――――――→
                  円環的な時間

  • 矢印は その方向での影響関係または移行経路を示す。

(第3章三 p.183)

原始共同体

  • 原始共同体とは われわれの言葉で ヤシロ(社会)が 第一次ヤシロ(スサノヲ圏)と第二次ヤシロ(アマテラス圏)との二階建てとして国家という社会形態を採る以前の状態にある場合を言う。

では 愛欲関係が 《〈自然性〉への内在》と《〈共同性〉への内在》とともに 単純に《反復的》なものであった。これに対して 一般に近代社会では 一つの《直線的》なものとなったという。たとえば具体的に 一夫一婦のかたちの家族形態が 結婚への両性の合意などの或る一時点より始めて直線的につづく。それは 一個の個体が 所有権者として直線的につづく基本的な主体であることを伴なっている。 
また 図2−5においては 原始共同体から 他の二つの時間形態の分野を経過しながら(あるいは それらを取り込みながら) 近代社会のそれへと移行したと見る。ヘレニズムに代表される時間観である《円環的な時間》は 愛欲関係が 一個の独立した社会形態つまり国家をいう枠組みをあたかも それが所属する円環とするかのごとくであるということ 早くいえば国家があって初めて愛欲関係も 社会的な意味あいで 成り立つといった考え方である。近代社会の時間観は これを通過していると見る。
ちなみにヘブライズムに代表される時間意識である《線分的な時間》とは 愛欲関係の基盤であるヤシロが 必ずしも《第一次ヤシロ‐第二次スーパーヤシロ》の二階建てなる国家という形態を採らずとも(それに還元されることなく) 人間の一生・この世の有限なる生涯という一つの各自の線分によって区切られるかのごとく捉えられており そのような・時間にかんする人びとの共同の観念が その社会に支配的に色濃くある(《共同性への内在》)ということを言っている。
このような前提において著者は この間の事情を次のように明らかにする

これらのことを踏まえてわれわれは 一五三頁の図(図1)において交叉する二つの基軸を 一方は《自然性》にたいする《人間性》の内在と超越にかかわる次元として 他方は《共同性》にたいする《個体性》の内在と超越にかかわる次元としてみることができる。
すなわち あるがままに存在するものとしての《自然性》にたいして 自立的に超越するものとしての《人間性》を対置する文化こそが 不可逆性としての時間の観念を切実にレアルなものとする。また同様に 《共同態(ゲマインシャフト)》の生きられる共時性の外部に自立する《個体性》相互のあいだの集合態(ゲゼルシャフト)的な連関――客観化された相互依存の体系を展開する世界こそが 数量性としての時間の観念を実体化する。
時間の比較社会学 (岩波現代文庫) 第3章三 pp.182−183)

著者の踏まえるべき理論的な展開の中味をまだ省略したかたちの引用であるのだが ここでも たとえば愛欲(愛)関係を基体として 《自然性 / 人間性》 《共同性 / 個体性》 あるいは《可逆性 / 不可逆性》 《質 / もしくは量 としての時間》などの概念が捉えられると言うべきである。著者の設定する理論の枠組みをこのように了解しうると思われる。

  • この枠組みとしての理論については 議論の進み具合いに応じて あらためてとり上げる恰好としたい。

さらにもう少し 用語についての概念的な了解を確かめ合おうと思う。
まず 時間が《可逆的》であるということは 原始共同体においてしろヘレニズムにおいてにしろ 言いかえると 反復的な時間にしろ円環的なそれにしろ つまりだから国家以前にしろ以後にしろ そこで愛欲関係がいわゆる《自然性へ内在》したものであるなら その限りで 時間は 復元可能なのだと考えられていることを意味する。たとえば 離縁は その縁組を清算するというよりは 縁組の始まる前の状態へと戻ることになるのだろうか(?)。
これは 実は 不可逆性としての時間形態を類型的に代表するヘブライズムおよび近代社会においても そのそれぞれの現実的な《やしろ》の情況においては 当てはまらないものではなく むしろ現実的(たとえば 離婚)でもある。

  • これは 理念型が理念型であることを言っているにすぎないかもしれないが。

あるいはまた 時間が《具象的な質として》あるということは 原始共同体においてにしろヘブライズムにおいてにしろ 反復的なものであるにしろあるいは反復・非反復を問わずむしろその特徴は線分的であることに見出されるものであるにしろ 《やしろ》の特に第一次形態(領域)である《ヤシロ(スサノヲ圏)》のその共同性(つまりムライズム)へと内在している限り 時間は 量的によりもいっそう質的に そして抽象的であること少なくより具象的だと考えられることを意味する。

  • ムライズムという時間意識は その律法(慣習的な掟)という形態でもある。
  • 第二次スーパーヤシロ(アマテラス圏)の法律は 形式的で抽象的である。反復的な・また線分的な時間においては おきては より一層 質的で具象的だと見られる。

もっとも このように類型的に整理しつつ 時間意識を捉えてきて 取りあえず言えることは 大雑把な感じなのではあるが わが日本社会は けっきょくのところ これら四つの形態のすべてを混在させているようではないだろうかということである。
原始共同体の《可逆的》にして《具象・質的》という時間意識が 近代社会では まったく正反対の不可逆性および抽象・量的なる性質のものへと変容したというのであるが おそらく必ずしも たとえば脱皮したというようなことではないように思われる。
そしてむしろ 結論の問題としては これら四つの類型のそれぞれの要素を 結局 さらにどんな方法(世界観)がまとめ上げていくかに焦点があたっていくもののように考えられる。

29 直線的な時間は ニヒリズム

このもう一節を設けて 全般的な紹介・前提の確認をしておこう。
四つの時間意識の形態を基本的に措定した著者は これらの類型にならって この書物の構成を次のように作成した。

反復的な時間   
   第一章 原始共同体の時間意識
円環的な時間 
   第三章 時間意識の四つの形態
     二 ヘレニズム――数量性としての時間
線分的な時間     
     三 ヘブライズム――不可逆性としての時間
直線的な時間
   第四章 近代社会の時間意識――(Ⅰ) 時間の疎外
   第五章 近代社会の時間意識――(Ⅱ) 時間の物象化

また

   序章 時間意識と社会構造
     二 《現在する過去》と《過去する現在》
     三 具象の時間と抽象の時間

などの論点が導入として扱われている。
最終章は

   結章 ニヒリズムからの解放

として その表題のテーマが 上の四つの時間形態を 現代の視点に立って 綜合しつつ述べられ これが解決を新しい前進として 展望するというかたちである。さらにまた

   第二章 古代日本の時間意識
      一 神格の時間と歴史の時間
      二 氏族の時間と国家の時間
      三 世間の時間と実存の時間

は――以上で 章別構成は全部である―― 直接に現代日本の社会を論じる視点を扱っていないが 前に触れた《現在する過去》の視点をもって 《結章》とともに 一つの展望を供しているものである。
このような大づかみの構成である。
ここで われわれは必ずしも著者の提出する結論的な展望に安易にくみすることもできないと前以っていわなければならない。それは 結論の可否・当否を論じて言うのではなく もし断定して言ってしまうなら その展望に必ずしも新鮮味がないと思われるし そう言うほどの意味なのであるが そこでわれわれが この書評を一歩前進すべき生産的なものにしようと努めるとするならば それは 先に保留した議論の中味・その展開過程のほうに これを見出してゆくべきであろう。方法の問題である。

  • 結論に新鮮味がないと言うのは 次のようである。
  • 《われわれが 〈時間のニヒリズム〉とよんだこの死の恐怖とそれにともなう生の虚無とは 一見 理性にとっては不可避の論理的帰結のようにみえるけれども それが 特定の時間意識の型を前提にしているということ そしてこのような時間意識の型が 特定の文化の様式と社会の構造を基盤としていることを・・・序章においてみてきた》(結章 p.294)著者は 最終的に次のようにしめくくる。

知でなく生による解放とは・・・われわれが現実にとりむすぶ関係の質を解き放ってゆくことだ。・・・
現在が未来によって豊饒化されることはあっても 手段化されることのない時間 開かれた未来についての明晰な認識はあっても そのことによって人生と歴史をむなしいと感ずることのない時間の感覚と それを支える現実の生のかたちを追求しなければならない。われわれがもはやたちかえることのできない過ぎ去った共同態とはべつの仕方で 人生が完結して充足しうる時間の構造をとりもどしえたときにはじめて われわれの時代のタブー 近代の自我の根柢を吹きぬけるあの不吉な影から われわれは最終的に自由となるだろう。
時間の比較社会学 pp.300−301)

  • これはおそらく そのことが 大筋において共感を得られると思われる反面で そのこととは別に それは 実はむしろ 出発点にあるべき問題意識そのものであって そのものにすぎないという意味においてである。
  • またこのことは すでに触れた方法の問題として 著者がたしかに上に引用した文章にあるごとく 《なぜ時間意識の型を取り上げて論じるか》に明確な回答を与えているようでありながら まわりまわって 全体的な観点からは 《〈時間のニヒリズム〉が 特定の時間意識の型を前提しているということ》が そしてこれを取り上げこの角度から論じるということが なぜ問題意識に対する問題解決へと導かれのかを 実は回避しながらの展開であるといわねばならないからである。
  • 細かく言っても 《時間のニヒリズム》と呼ばれるものが なぜ マイナス概念であるのか ほんとうにそうであるのかが 論じられていないように思われる。
  • われわれは 言葉あるいは理論の揚げ足取りを行なっているのではない。なぜなら 俯瞰図を提示したことは 《生でなく知による解放》もしくは なお現代人の《抽象的な〔知による〕見取り図による書斎(書物)における解放》でしかないからである。
  • これは 近代科学としてその社会学として固有に持つ必然的な制約によるものであるかもしれない。ただ ここでヤシロロジとしては これを突き抜けていきたい。抽象的なアマテラス語による幻想共同的な秩序による解放ではなく 現実のスサノヲ語による生きたマツリ(新しい祭りへのその再生)へと導かれるべく 《人生と歴史をむなしいと感ずることのない時間の感覚と それを支える現実の生のかたちを追求》することへ 学的な一篇の主観をこそ 提示しなければならない。学的なとは アマテラス語をとおしたスサノヲ語によるものである。
  • だからわたしは言うが 時間の比較社会学の著者が《あとがき》で 《時間論についでとりあげられるべき主題は 自我論 および関係論である》として 《これら三つの主題を含む 比較社会学の全体的なイメージ》を 次のように十項目挙げているとき このような学問の拡張の方向だけでは満足できない。
  • ここで願わくば原点に立ち返るべきであるとわれわれが言うのは 《スサノヲ語》もしくは《汝自身を知れ》と言うとき その《スサノヲ(わたくし) もしくは 汝自身》と言ったそのとき われわれはすでに 全体として〔その精神は〕自己を知ったことにほかならないということである。精神は それまでに自己を知らなかったわけではないということ これを指し示すにほかならないからである。時間もしくは永遠が 孤独ないし愛欲(所有欲 だから 生産・協働)関係であるとするなら 《時間論》は すでに 《自我論》《関係論》であり あるいは《身体論 / 人生論 / 教育論 / 支配論 / 解放論などなど》でありえないということがあるだろうか。

著者が はじめの(おわりの?)問題意識とおわりの(はじめの?)結論的な展望とのあいだに展開する理論やその省察の過程に われわれは 一つの生産的な書評をつづる理由を見出している。

(つづく)