caguirofie

哲学いろいろ

第一部 第三の種類の誤謬について

もくじ→2005-05-13 - caguirofie050513

付録二 夢と無意識を見直そう

24 あたらしい無意識の概念へ

吉本隆明の登場。――《夢》に触れて 《無意識》を理論的に検討する。夢は みづからの体験を語り 自己の主観形成を明かしている文章。――

心的現象論序説 改訂新版

心的現象論序説 改訂新版

そのうちの《心的現象論序説》――以下の引用はこちらからである。

ゆっくりと議論をすすめていきたい。長く引用することになる。

《わたし》が子供の時にみた夢で 現在も鮮やかにパターンを覚えている夢がある。フロイドのいう《子供の時分に見た夢で 何十年も経って猶 まざまざと記憶に残っているような夢》にあたっている。

子供の《わたし》はいつも遊んでいる横丁の露地で近所の遊び仲間の子供と集まっている。なにかとりかえしのつかぬことをみなでしてしまったらしい。仲間の子供たちはつぎつぎに仕方がないからみなで腹を切ろうと叫んでいる。だんだんと仲間の雰囲気は腹を切るという点に集中し高まってきて もう腹を切ることが当然のような熱気が支配している。ところで《わたし》だけは腹を切るのは嫌だとおもっている。すると仲間はそんならお前は勝手にしろ卑怯だと口々に罵って 皆 短刀を出して抜き身をきらめかせる。そこでわたしは嫌々ながら仕方なしに刀を抜いて皆にならった。では腹を切って死のうとたれかが云って刃を腹の方へ向ける。わたしは思い切って腹を突きさした。ところが仲間をみわたすとどうしたことか仲間のたれも刃を腹に刺したものはいない。《わたし》はもう刃で腹をつきさしてしまっている。《わたし》は黙って妙な顔をしている仲間の子供にむかって《おまえたちは卑怯だぞ》と叫びながら息がだんだん苦しくなってゆく。仲間は《わたし》を嘲笑するのでもなくただ奇妙な沈黙のまま刀をもっているだけで腹に突き刺そうとしない。

《わたし》は この少年時の夢を 細部の不確実さはべつとして 基本的なパターンとしてはよく覚えている。その理由は《わたし》とこの世界との関係についてなにか切実なものがこの夢にあるとかんがえてきたからである。
吉本隆明全著作集 10 思想論 1《心的現象論序説》pp.230−232)

すでに述べたように 吉本はまず フロイト理論を説明しようとしているのではない。ここでは 自分の主観(記憶‐知解‐愛)が 問題(考察の対象)である。

  • 夢の内容の異様さ あるいは日本社会の特殊さは この際 直接の問題ではない。

先にわたしは 種明かしをすることになるが このくだりからは やはり聖書の次のようなイエスの言葉を思い出すことができる。(むろん《記憶》からである。)《〈二人の息子〉のたとえ話》と題されたマタイによる福音の次の箇所である。

――ところで きみたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが 長男のところへ行き 《今日 ぶどう園へ行ってはたらいてくれ》と言った。長男は《いやです》と答えたが あとで考え直して出かけた。次男のところへも行って 同じことを言うと 次男は《お父さん 承知しました》と答えたが 出かけて行かなかった。この二人のうち どちらが父親の望みどおりにしたか。
かれらが《長男のほうです》と答えると イエスは言った。
――はっきり言っておくが 税金取りや娼婦たちのほうが きみたちよりも先に神の国に入るだろう。なぜなら ヨハネが来て神への道を示したのに きみたちはかれを信じなかったが 税金取りや娼婦たちはかれを信じたからだ。きみたちは このことを見ても あとで考え直して信じようとしなかった。
日本語対訳 ギリシア語新約聖書〈1〉 マタイによる福音書 21:28−32)

そこで ただちに 吉本のつづけて言うところに耳を傾けるならば――つまり上の聖書の話は ただ漠然と 類型的に共通した部分がうかがわれるというに過ぎないが―― かれはつづけて次のように言う。

《わたし》は ごく通俗的に ここには《わたし》の倫理性の基盤が象徴されていると長い間おもいつづけてきたらしい。そしてそれにはそれ相当の理由がないわけではなかった。
吉本隆明全著作集 10 思想論 1 《心的現象論序説》p.232)

これは《通俗的な見方》なのだと断わって 論議をつづける箇所である。

中学生のころ《わたし》は ある体験からこの夢のことをおもいだした。その体験というのは 学校で野外演習にいったとき ある日 演習がおわり宿舎にかえる途中で 四列縦隊に並んでいたクラス全員が たれからともなく《隣組の歌》という流行歌謡を合唱しはじめた。軍事教官は後方にいたが 《止まれ》の号令をかけると 《わたし》たち全員を撲りつけた。宿舎についてから クラスの指揮官が全員をあつめて教官のところへ詫びに行こうと提案した。《わたし》は反対した。詫びに行くくらいならば はじめから流行歌謡など唱わなければよいのだ もともと行軍のとき軍歌以外のものは唱えないことは わかっているのに唱ったのだから 叱責され撲られたからといってあやまるのはおかしい というのが《わたし》の理屈であった。しかし 皆におしきられて週番にあたっていた《わたし》も代表としてあやまりにいった。教官は素直でよろしい というので機嫌がよかった。なぜかこの現実的な出来事のとき 《わたし》はさきの少年時の夢を思い浮かべた。
その後 現在までの体験のなかで 幾度か この少年時の夢を同じパターンだなとおもって思い浮かべたことがある。
(同上 p.232)

漱石の《坊っちゃん 上 (新潮カセットブック N- 1-3)》を 裏返して想起させるような今度は〔夢ではなく〕経験上のエピソードの披瀝である。ここでもちろん フロイトの・そして一般に精神分析学を許容するところの共同観念の現実の中の 《無意識》概念 これを うたがい その概念転換をはかろうとする初めからの姿勢は 基調として流れているのを 人は見るであろう。そしてそのまま 次に吉本の語るところを聞きたいのであるが 一言 この箇所に対して注意を向けておきたいことがあるとすれば それはこうである。精神分析学の無意識という概念の点検ともからんで われわれが思うには この《体験》と 最初に提示された《夢》とは 《おなじパターン》だとは思えないこと これである。
最初の《夢》は その内容の異様さ・特殊さを問わず 類型的に言って いまわれわれが問い求めている視点にのっとって 有効である。《無意識》が 実は信仰・共同主観という意識とからんで この夢に 有効である。しかし このあと提示された《体験》は むろんそれが夢ではないという理由からではなく この有効性にまで達していないと思う。なにが 類型的に ちがうか。
《夢》のほうの《みんなで とり返しのつかない事をしでかしてしまったことに対して 腹を切って 詫びよう》ということと 《体験》のほうの《みんなで さらに(なぐられたという罰をくらったあとさらに) 教官に詫びる気持ちを伝えようとする》こととは 互いに異質である。もしくは その詫びるという行為の段階がちがう。《腹を切るか切らないかを別として 〈夢〉のほうの詫びる気持ち》は第一次的なものである。後者では この第一次的な段階をすでに過ぎてしまっている。すでに みんなであらためて詫びるかどうかを 問題にしており これは 実はどうでもよい事柄に属す。つまり 単なる眠り・休息としての《ふつうの夢》の部類である。
言いかえれば これが共同観念の世界のなかで どうでもよい事として放っておけないのだともしするならば しかしそれは《ただそうすれば(詫びるなら詫びるということをするならば)済む》ことだ。吉本少年が 《理屈》を持ったことが 問題なのではない。自己に固有の理屈を持たなかったなら みんなと一緒に行けば済むことだし あるいは逆に この理屈をもし持ったなら みんなにそれを披瀝するしないを別として――これを別として―― それに固着して 行かなければよいのだ。

  • その際 教官の機嫌が悪かろうがよかろうが 教官にとっても 第一次的には 罰に処したことで かれ自身の主観の問題はすでに済んでしまっている。

そのときたとえ《週番にあたっていて 皆の代表として 行かなければならなかった》というのと 行かないということとは そう変わらない。だから どっちにしても 理屈の有無は 問題にならない。
吉本は 理屈の時点で あるいは理屈にからめた点で 先の《夢》と同じパタンだと言っているように思われる。しかしこれは 有効性に達していないと思われる。《行軍》の途中で その事件の際の第一次的なその違反行為と罰とで 入眠言語(倫理)は成立してしまっている。入眠言語という言葉が悪いとすれば 覚醒言語の関係的な世界は 事がひととおり済んでしまっている。そのあと 少年の主観形成が 理屈を持っても もうそこでは みんなの共同観念に従うか あるいは理屈からの自己の〔少数意見としての〕共同観念を押し通すかの問題に移っている。これは たとえ多数決に従うことになったとしても 相対的などうでもよいことだ。どうでもよいというのは むろん その論議と議決を無視するということではなく 繰り返すなら 禁じられた流行歌を歌って罰を受けたという時点ですでに終えられたのであるから ここでの主題にもとづいて 主観形成への類型的な異同を見るために 取り上げるべきではなく その必要もないということである。
ただむろん これをも 《おなじパターンだなとおもって思い浮かべた》のだとすれば これは 吉本じしんの主観形成の問題である。われわれはこれを 必ずしも有効であるとは思わないが 言うなれば その基調が 二重もしくは二段階の構成になった構造的な主観であるとは言うべきかも知れない。つまり正しく言うと 《主観と観念》との錯綜する主観だということになる。さらに夢にかんして言えば《異和とそして同和(異和のなだめ)》とのむしろ同居する夢の形態であるということになる。

  • 初めの夢の事例は そうではあるまい。きちんと 異和の側 共同主観の側に 自身は位置している。

われわれの考え方では 共同主観は そう言うときすでにそれ自体の中に その主観が共同観念に寄留しているという言わば構造的な動態だ言われていると考えていたのであり だからこれを 構造的ではあっても 二重ないし二段階構成だとは思っていない。われわれの考え方では 人が生きるというとき 主観として生きるのであって 観念それ自体が 歩いてのように生きるのではない。だから 共同観念の時点での議論に対しては どうでもよい視点に立っている。つまり人間の倫理的な世界なのだとそれを捉えつつ 生きると言っていることになる。
異和の補償力は 異和をアウフヘーベンする・つまりそれを保存するのであって 言わばそれが寝かしつけられたかたちでの〔第二次的な〕観念をも 二段階構成のかたちで 自己の主観とせよとは 言っていない。言いかえると 《無意識》という概念は 第二次的な異和の世界つまり共同観念のなかで 意識(あとでもう一度詫びようという多数意見)と無意識(少年の理屈)との一対となった場合のそれを指すか もしくは この両者をひっくるめて全体として意識ととらえる《主観》にもとづいて この主観の倫理的な領域(つまり多数意見と理屈と)をある種の仕方で超えたところを それ・つまり無意識ととらえるか 両様の見方が われわれの前にはあるということになるだろう。前者は おおむね 精神分析学のものである。吉本は上に見たように これに捉えられつつだが この無意識概念の検討をはかる。
つづけて

《わたし》は この少年時の夢を 《わたし》の倫理的な面での発生点とかんがえてきた。いつもこういうような矛盾を 他の人間とのあいだ 他の事件とのあいだに感ずるので その典型的なパターンを この子供のときの夢が保存しているとかんがえてきたらしい。しかし《わたし》のこの夢の解釈はもっと疑ってみたほうがよいようにおもわれる。
吉本隆明全著作集 10 思想論 1 《心的現象論序説》p.233)

この《疑い》は はじめの基調(《体験》例のではなく 《夢》の事例の)が否定される方向には進まない。正当にも〔とわれわれにはおもわれるが〕かれはまず フロイトの理論によって この《解釈》をさらに試み 次にそれを《捨てて》 自己の解釈をそうして展開するように進む。

フロイトの方法によって この 《わたし》の幼時の夢を解釈すれば まず《わたし》の《父親》にたいするリビドー的な関係の異変として了解されるとおもう。《なにかとりかえしのつかぬこと》というのは《わたし》の《リビドー》的固着の仕方の表現である。

  • これまで幾つもの例があったが 自称のわたしに ここでなぜ括弧をつけるのか よく分からない。
  • むろんいま《無意識》の問題が論じられているのである。――以下同じように引用者註を施したい。

それは《恐怖》であるのか《無羞恥》であるのかわからないが そういうことに関係している。 《わたし》は リビドー的な《父親殺し》をどうしてもやりたくないとおもっている。しかしそれをしなければ成長することができない。そのためらいを跳びこしたとき 《わたし》はもっとべつのなにかをも 相伴してとびこしてしまった。この《べつのなにか》は すくなくとも《わたし》とこの世界の関係にとって重要ななにかである。

  • この点の《告白》は あいまいである。

仲間の子供たちは 《わたし》とちがってスムースに《父親殺し》をやり だから同時に《べつのなにか》をも跳びこしてしまうことはない。

  • 《あいまい》であるが 重要な論点である。

《わたし》が この幼時の夢を何十年も経た現在もまざまざと保存しているとすれば 《わたし》のこの世界にたいする異和は 《父親》にたいする《リビドー》的な関係の異和に発祥していることを示している。

  • 夢を《保存》と言っている。
  • いまは フロイト理論の問題である。フロイトにもとづいて吉本は理論しているのである。だから ひととおりの終わりまで もう少しつづく。

なぜならば この夢のなかの異和がその後 いく度もおなじパターンで繰返されたために 《わたし》は何十年もたった現在も まざまざとその夢を記憶している。
ところで 《わたし》がフロイドの方法を捨てて《わたし》自身の解釈によってこの幼時の夢を分析するとすれば どんな問題が提起されるだろうか。

  • ここからが 本論である。

第一にこの夢は《わたし》の《わたし》自身にたいする関係づけの失敗を語っている。そしてこの関係づけの失敗は《わたし》の《身体》にたいする《わたし》の観念の関係づけの失敗に根源をおいている。だから《わたし》は《わたし》の《身体》についてある部分にたいしてはほとんど無関心である。

  • 《身体》を部分ごとに分けるのではなく 《身体》全体とそしてそれを超えるかのような領域とに分けたほうが いいであろう。

そこで《わたし》は 《他者(あるいは他の事象)》にたいしても ある部分については無関心で ある部分については過剰に執着している。

  • 三行為能力を持ったわれわれ人間が その似像の根源である聖三位一体すなわち《自由》に対して 《無意識》のうちにも あるいは《過剰に》さえ 執着するのは むしろ自然である。
  • むしろこの問い求め・執着は 節制されるべきではない。ただ理性的な知解をとおしておこなうべきである。

《わたし》にとって《わたし》は どこまでも了解可能な底無し沼のようにおもわれるために 《他者(あるいは他の事象)》にたいしても どこまでも了解可能なものとおもっている。

  • だから あるいはその逆の方向から 神は 《全知》と表現された。しかし人間は その似像であり 有限である。

しかし じじつは《他者(他の事象)》なるものは 《わたし》と関係づけられている丁度その度合でしか了解可能性をあらわさない。

  • 表現は悪いが 《全知》が《底無し沼》であるとしたなら この関係づけられている度合いを超えても 人間にも 了解可能となるばあいが 時として 実現するであろう。しかしこの《底無し沼》は 人間・その身体に 宿ると信じられてきた。神の子キリストは 処女マリアから聖霊によって生まれた人間であったとの言葉をわれわれは受け取っている。

この《わたし》の《わたし》にたいする了解可能性を 《わたし》に関係づけられている《他者(あるいは他の事象)》にたいする了解可能性の異和が《わたし》の幼時の夢の基本的なパターンである。

  • われわれは 《わたし及び他者の了解可能性(倫理の世界)》とそれを超えた世界とのあいだの異和と言う。臆面もなくそう言う。

いいかえればこの夢は 自己にたいする過剰な執着と自己にたいする過少な関心との両価性を語っている夢である。

  • この《両価性》が ほんとうには 両価として有効ではなく ただ 主観の二段階構造の謂いであることは すでに述べた。すなわち吉本には このような《両価性》がある。

ところで フロイドは幼時《記憶》というように 《記憶》という言葉を便宜的に無造作につかっている。しかし 《記憶》というものは 幼年のときにじっさいにあったことを 何十年もあとで覚えているといった意味ではもともと存在しない。

  • そのとおりだと思う。つまり 記憶とは 人間の三つの行為能力の一つで 存在の秩序・実存の核といったものが もともとの意味だと考えられた。

一般に《記憶》とよばれているものは 心的なパターンということにほかならない。

  • われわれは 従って この《心的な》という語を 《存在》または《主観》という意味で 《パターン》という語をその基体または場所(精神の秘所)という意味でとらえたいと言おうとしている。

そしてわたしたちが心的なパターンをもっているのは それが世界にたいする《関係の結節》を意味しているからである。

  • そのとおりだと思う。神との関係 および他者ないし自然との関係の 結節であると考えられる。

つまり わたしたちはなんらかの意味で世界にたいする関係づけのキイ・ポイントとしてしか《記憶》を保持しないし 逆の云い方をすれば《記憶》されるものは それが夢であれ 言葉であれ 出来事であれ すべて世界にたいする人間の関係づけの結節だけである。

  • そのとおりだと思う。

《わたし》の子供のときの夢で いまも覚えている《夢》は しばしば現実体験のなかでおなじパターンとして繰返されたとかんがえてきた。そうだとすれば この《夢》は いわゆる《正夢》に相当している。

  • 必ずしも 同じパターンではないと思われることは すでに論じた。しかし その通りのように思われる。すなわち 共同主観者にとっての夢は 身近な言葉でこのように《正夢》に相当していると思われる。――以下は説明がつづく。

なぜなら この《夢》は その後で《わたし》がぶつかる《他者(あるいは他の事象)》との関係を《予言》していたことになるからである。ふつう《正夢》というときは 夢のなかの情景や出来事が やがてそのように実現されるというふうになっている。《わたし》の夢では情景の細部の形像が実現されるのではなく その夢の基本的なパターンが実現される。しかし《正夢》としての本質的な性格はかわりないのである。ただ形像を主とする夢であるか 非形像が優勢である夢かというちがいにすぎない。
ここで もしひらき直れば いくつかの困難な問題が入ってくる。《夢》が《記憶される(心的なパターンとして現存する)》ためには 《正夢》でなければならぬ。いいかえれば覚醒時の心的な体験によってなんらかの意味で現実的に裏づけられなければならない。そうでなければ《夢》は何十年も保存されるはずがないのである。だが ふつう《夢》が後になってじっさいに現実体験と符合するときに その夢を《正夢》と呼んでいる。これは循環反復であって このような場合 ふつう用いられている《正夢》という概念に誤謬があるとかんがえるほかない。

  • またこの《誤謬》は 精神分析学的な《無意識》概念のそれであろうと結論づけていた。同じくこの誤謬をともなったふつうの夢は 正夢であろうと逆夢であろうと どうでもよい夢であるとして 区別した。
  • 以上が ひとつの《困難な問題》である。その理性の明るさが薄暮であるわれわれ人間にとっての《もうひとつ別の困難》が 次のごとく述べられ 吉本は この思索で この第五節の全体を締めくくっている。

また もうひとつべつの困難は ある《夢》が 後になってじっさいに実現したようにみえることは まったく主観的なことにすぎないのではないかという問題である。

  • ここの《主観的》というのは 倫理的にただいま流通するだけの主観的という意味であろう。
  • むろんだから 共同主観には この問題はつきまとわない。だから《自分で正しいと思う確信に従って神の前で行動しなさい》(ローマ書 14:22)とパウロは 肉の人に対するように述べているとわれわれには思われた。

つまりあらゆる現実上の体験の仕方は もしそうかんがえるならばどんな主観的なパターンが含まれているとかんがえてもよいのではないかということである。

  • だから同じ使徒パウロは 《〈わたしには すべてのことが許されている。〉しかし すべてのことが益になるわけではありません。〈わたしには すべてのことが許されている。〉しかし わたしは何事にも支配されはしません。》(コリント前書 6:13)とも 他の箇所でおしえたのだと思われた。

そうだとすれば ある《夢》が後でその通りに実現されたというのは ただそうかんがえるからそうおもえるのだという問題にすぎないことになる。ここにはほんとうの意味で《夢》の性格づけの困難さがあらわれている。
吉本隆明全著作集 10 思想論 1《心的現象論序説》pp.233−236)

われわれは このような二つの《困難》については もう一度《開き直れば》――ひらきなおるとするなら――解消するであろうと言うであろうか。ここでは 吉本隆明の理論の批判をつうじて 無意識という概念の再検討をおこなった。この項をひとまず閉じよう。
(つづく)