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哲学いろいろ

              第一部 第三の種類の誤謬について

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付録一 共同主観者にとっての夢

20   夢は自由である

《夢が本質的になんであるかからはいらずに 夢がどんな条件であらわれるかという問題からはいってゆく》(吉本隆明全著作集 10 思想論 1《心的現象論序説》 p.210)吉本隆明は まずこう答える。 

夢は《眠り》に条件づけられてあらわれることは確かだとおもわれる。
(同上p.210)

心的現象論序説 改訂新版

心的現象論序説 改訂新版

  • (雑誌《試行》№15〔1965〕−№28〔1969〕初出)

  • 引用は こちらからである。

かれは 《この〈眠り〉の状態が 心的現象を制約する条件をまずさがすことになる》(同p.211)が 

《眠り》は・・・まず対象にたいする感覚的な受容を閉ざすことは確からしい。
(同p.211)

とさらに答える。《心的現象》とは 単純に 魂の問題 または 主観のことだととらえて差し支えないであろう。つづけて
《つぎに正常な覚醒時にやってくる対象にたいする心的な了解の構造は〈変容〉をこうむるとかんがえることができる》(同p.211)ゆえ

つまり 心的にみられた《眠り》とは感覚的な受容を閉ざし 了解を変容させた状態を意味している。
(同p.211)

とした。
もっとも これは ある《形像(たとえば 樹木)》が見られるという対象の場合を言っているのであって そのあと ただちに 次のような一条件が付されることになる。すなわち《形像でない対象》が見られる場合 言いかえると 覚醒時と同じような《思念》が眠りの中でも つづけて 見られる場合がそれである。

覚醒時におけるあの《事象》にたいする自己判断 否定 肯定 経過 了解などの流れが ほとんどそのまま眠りの状態に移行したとおなじように どんな形像もあらわれないかわりに 意識はさかんにその《事象》を検討したり 抗ったり 納得したりしているという《非形像的な夢》がありうる。
吉本隆明全著作集 10 思想論 1 《心的現象論序説》p.212)

さてここまでの吉本隆明の設定する《夢》にかんする了解の装置から 何が言えるか。この前提内容を確認しつつ そこからわれわれの観点として 次のようなことが捉えられるであろう。

  1. 夢は 眠りに条件づけられて現われるであろうことは確かである。
  2. 眠りは 必ずしも その夢の中で見る対象に対して その感覚的な受容を閉ざすものではないであろう。人はおのが恋人を夢見たときのことをおもうべきである。
  3. 眠りが 対象に対する感覚的な受容を閉ざすか閉ざさないか 必ずしも断定して規定する必要がないとなれば その夢の中で見る対象が 形像であるか非形像かは 基本的に言って どうでもよいものであるように思われる。
    • 形像は 主に人物のことをいうとしたほうがよいのではないだろうか。非形像とは その人物との関係あるいはそれにまつわるさまざまな思念となる。
    • 一般に或る人物を夢見るとき 形像と非形像との両方を 同時に その対象としうる。このとき 非形像の思念が 欠けていても かまわないだろうし 逆に 思念だけの夢だとしても おそらく意味を持ちわれわれの考察の対象とすべきは われわれに関係する人物にかかわったそのもろもろの思いであるとして 構わないのではないか。
  4. 〔単純化したかも知れないが〕それでは 眠りと覚醒時とにおいて 心的な了解の構造(魂・主観の方向性とでもいったもの)は 《変容》させられるか。
  5. これにかんしては 吉本とちがった推理によって ちがった結論を持ち かつ同じ結論に到達する。すなわち《変容する場合もあれば しない場合もあるだろう》と答える。
  6. 吉本とちがった推理によってとは (2)および(3)項にもとづくということである。見る対象が 形像であれば 変容し 非形像であれば 変容しないと説くのではないということである。
  7. 前項の内容は こうである。それは 吉本も《体験的にわかっていることから云えば 夢はほとんどあらわれる状態ごとにまったくちがったさまざまな形状でやってくる》(p.212)と言うごとく たとえば人が その恋人を夢に見たとき 一方で かれ(かのじょ)の感覚的な受容を閉ざすものではないとしても 他方で その夢ないし眠りの中ではそのとき 覚醒時におけると同じ心的な了解の構造のもとに そうするとは限らないということ。すなわち 起きて醒めているとき かれがその恋人に対して持つ感覚的な受容と心的な了解〔の構造〕が 眠って夢に見るときも同じように 現われているとは限らない。
  8. 繰り返そう。夢の中で見る対象は うつつの時に見るそれと 受容と了解の点で 変容をこうむっている場合もあるだろうし また こうむっていない場合もあるだろう。そしてそれは一概に規定できないと考えられる。
    • 夢の中の恋人は もはやかれの意に反してか あるいはむしろほんとうの意に則してか いづれか定かではないが 恋する意中の人でない場合もあるから。それは 逆の場合 すなわち 恋人でない人が 意中の人であるという夢を見る場合があるだろうことと同じように。
    • 純化した点は 自分にとって意味がない内容の夢は捨てるということである。意味がわからないような場合 わかるようになったところで 受容と了解とが変容していたりいなかったりするであろう。

差し当たって夢にかんして前提として以上のようなことが考えられる。
われわれはここで もはや必要以上に 吉本の《夢>の理論には深入りはしないであろう。かれは 端的に言って 《心的現象としての夢》を 分析論理的に また確かに実証を伴ないつつだが 論じているにであって このとき すでに注解してように この《心的現象》という概念を用いて 《魂 ないし 主観》と言いかえて読むことは出来ても それは 《主観〔の現象〕としての夢〕を 分析・実証することはあっても われわれの《主観にとっての夢――夢をとおして見る主観》を 直接には扱わないからである。主観(自己)形成にとって 夢がいかなる役割を持つか これを主題としてわれわれは論議したいから。
《主観にとっての夢》ではなく 《主観〔の現象〕としての夢》を論じることは 一見 いわゆる価値自由的であって いわゆる科学にはふさわしい理論方法であるように見える。そのようにして いわゆる〔価値〕判断の材料・前提ないしいくつかの方向性を 科学者として 提供することになると考えられている。
しかしこれは たとえ近代市民の思惟・内省=生産・行為の形式 つまりここでは科学の方式を忠実に継ぐことではあっても これを出ないことは明瞭であり そのことは 次のことを――ひとつの欠陥として――指摘することになるであろうから。それは すでに上にいくらか論証したことである。なぜなら その価値判断から一見 自由に見える方法には はじめに一定の前提が設定されるということ すなわち かれつまり科学者の何らかの価値判断によって 一定の概念の定義と考察の仕方を前もって設定することにおいて かれ自身の主観の枠組みが のちの議論のすべてを制約することになりうるということからである。
一方で はじめに 主観の枠組み(何々学という)を設定して 学問することと 他方で 〔諸〕学問の対象と 学問する主観との関係を 学問することとは 別のことであるから。前者は 《主観の現象としての夢》が その主題である。後者は 《主観にとっての夢》が その主題である。
言いかえると ここでは吉本の《心的現象論》・その中の〈心的現象としての夢〉を 考察の対象ともするわけであるが その前提領域の議論――つまり 対象のほうではなく 考察の主体のほうについての議論――こそ重要であると見ることになり 前提領域からのちの種々の展開も 前提領域(主観)のもとでのみ省みられるべきと帰結されよう。当然のことのようであるが 一般に必ずしも明確ではない。

夢は 偶有的であって 必然的な関係(意味)を持ちうる

それでは 共同主観者にとっての夢とは 何か。
本文《むすび》の章を承けて考えてみたい。覚醒時から 夕方のやって来るとともに やがて身を横たえ 眠りに入り もしそのとき夢を見たとするなら またこれを覚えていたとするなら それは共同主観にとって何であって 何でないか。

  1. 基本的に言えることは こうであろう。もしいま 眠りにおいて人は その覚醒時における心的な了解の構造が 変容をこうむるものとするならば この眠りにおける自己 その自己が見る夢は どんなものであれ 基本的に どうでもよい(gleichgültig)もの・可変的なものであるということだ。
  2. ただし こうは言える。醒めているときの人間の存在 その心すら――そもそも人間が 時間的な存在であるからには――偶有的・可変的なものではなかったか。関係の絶対性という社会(やしろ)的にして原則的な大前提はこれをそのまま想定しても 個々の人間は そしてかれの具体的な誰それ・事ごとへの関係は その人間じたい 初めあって終わりある存在であるからには その主観もそれは偶有的に形成される契機を持ち 可変的である。
  3. つづきであるが 逆に言って これを論証するなら 偶有的なさまざまな出遭いのもとに 自己が形成され その自己と出遭った相手との関係が 個々には 可変的なものであるがゆえに 恋人が恋人であるかないか また結婚して家族として互いを形成してゆくか否かが 互いに主観的に 価値判断されてゆく。偶有的・可変的なるがゆえに この個々の関係に対する互いの主観的な価値判断は たとい絶対的と言わずとも 必然的なものとなり ともあれ人間にとって生きたものとなる。
    • 客観的な理論を問い求めることをその使命とする科学でさえ その科学者その人の・この人生における価値判断から免れていないことはおろか 基本的にそれによって制約されることは 現実である。また むしろそうでなければ 生きた科学とは言えまい。そうでないと強弁するのは 近代市民的な科学のやり方の一面であり われわれは今 このことをも間接的に問題としている。
    • そして むしろ社会科学において このことは 生きていない・または中間状態の価値観(主観)の問題として 顕著であるように思われる。
  4. したがって前三項目の綜合の結果 言いかえると 眠りにおける夢の中の事象も また うつつにおける現実の関係事象も それぞれ基本的に どうでもよい事柄から出発しているのであって――だから必然の関係が形作られ 問われるのであって―― この前提のもとに人は 価値判断の試行と巡礼とを旅するというのなら その結果は そこでかれの心的な了解の構造が変容させられる場合もある夢の中でも かれは 総合的に(主観の全体として)または一般的に 現実の問題に遭遇しないとも限らない これである。
    • つまりは 後から 現実の問題と関係していたと気づく場合も ある。
  5. だからといって 共同主観の原理のおしえるところは 《夢》すなわちイコール《現実》もしくは その逆 であるということにはならない。ただ 夢の中においても 現実の価値判断への或るヒントが示唆されないとは言えない。これが さしあたっての結論ということになる。
  6. いま夢とは むろん眠りに条件づけられて現われるそれを言っているのだが さらに広げてもよいと考えている。付けたしとしてだが 書物や芸術なども夢に近いとした点では 夢のあとで それから離れてしまったあとで 書物等をとおして夢が 主観形成にとって 意味を持ってくることに気づく場合がある。あるいはまた 見た夢そのものでなくとも 他者から聞く夢あるいは夢を論じた書物との出会いから 共同主観にとっての夢ということがらが ひとつの主題となってくることがありうるということ。

以下 この前提に対していくらかの肉付けをおこなうことが 課題でありその内容である。
(つづく)