第一部 第三の種類の誤謬について
もくじ→2005-05-13 - caguirofie050513
むすび
18 共同主観としての愛の滞留
《書物の解体学 (中公文庫 よ 15-1)》の最終の二章は 〈フリードリッヒ・ヘルダーリン〉と〈カール・グスタフ・ユング〉とである。
思えば 著者・吉本隆明は 最初の三章(バタイユ / ブランショ / ジュネ)において 人間が《生きる》ではなく 《生きていない》と《死》との中間状態をすでに大前提として その物書きとしての天使の領域に沈潜するがごとく いや そこへと上昇して天翔けるがごとく 時に徘徊するがごとく 端的に怪しい光の天使性を発揮しようとしていた。
つづく諸章では 方向が変わった。方向が変わったと受け取りうる一面が出た。天使性の中間状態の問題を別にしてのように 一種の悪魔性に対する糾弾の姿勢が現われている。《すべて罪に陥らせる者と悪を行なう者とを 自分の国から集めさせ 燃え盛る炉の中に投げ込ませる》うんぬんという聖書の文句が掲げられる。
こののち 議論はきわめて まともである。
第五章(ミシェル・レリス)では 《未開》が論じられていた。第六章(ヘンリー・ミラー)では 《自己の 古き人の解体 / 倫理の古き館の世界の解体 もしくはさらに歴史的な移行につながることがら》を取り上げた。第七章(ガストン・バシュラール)では 《物質》もしくはこれの把握にからむ《想像力》(この点は省略した)を扱っている。
これらの三章において いくつかの主題を扱って ただし 思索の発展ということではないように思われる。ロートレアモン論の中で措定した《自己》を――その位置はあやうい中間状態にあるとは思われるが あたかもこの視座をも対象化することだけはしてのように――じっくりと見つめるがごとく まともである。
そしてまた この《自己》の歩む過程・その時間的な変容あるいは到達の度合いを 必ずしも発展的に述べるというのではない。かれはまだ――われわれの立ち場そのままに述べるなら―― キリスト史観の手前にあるとも言うべきである。われわれは むしろあからさまに あの木の船に乗りなさいと あたかも脅迫のごとく 助言すべきかと捉えられる。
さて最終の二章でも やはり吉本は おとなしく まともである。あるいは前三章と少しちがって 《自己》を見つめ続けるものの それは 一口で言って 懐古的である。
二章まとめて論じるなら 《フリードリッヒ・ヘルダーリン》論では キリスト教以前の ヘレニズムの人間の自然との階調が ひとつの憧れのごとく 提示され論議される。《カール・グスタフ・ユング》論では いわずと知れた《夢》と《神話》のテーマのもとに 幼児期の体験が いくらか論議されている。幼児期の体験として人間にあるもの それは 現実の人間にとって 自然とのあるいは社会との階調が破壊されるという体験の そのまた原体験のようなものであるとか・・・。ヘレニズムの世界は 人類の幼児期だそうで その意味での・世界との《階調》や《英雄神話》をとおして 自己をみつめなおす。 人間の幼児期におけるすでに《階調》の破壊が 《神話》において物語の中で いくつかの事例として扱われるのをとおして 同じく自己をみつめつつ ともに懐古的である。
言いかえれば キリスト史観にのぼって来ないまま 書物の解体学は閉じられる。いくらか思い入れをして捉えれば 自己を見つめつつまともであるその文章は 後半の部分の進むにつれ 古き書物の解体と同時に 新しき書物の建築へと 芽を吹き出させようと問い求めつつ終えられている。
総括として以上のように読んだ。
この批評を 最後まで果たしたい。いささか煙たく感じられるようないわゆる個人攻撃のような批評を 最後までつとめたい。
愛も共同主観として寄留している。
第八章〈ヘルダーリン〉においては 次の文章(認識)に注目しておけば じゅうぶんであろう。
一般的にいって《愛》(性愛)は ヘルダーリンの描いているように 出遭うときの歓喜からはじまって 喪失感におわるわけではない。はじまるのは歓喜からであるかもしれないが やがて習慣化 あるいは日常化によって持続する。この習慣化 あるいは日常化を《愛》の喪失とみなすとすれば あらたな《愛》への上昇とそれをおしとどめようとする日常的制約とのあいだの矛盾や対立が 《愛》なるものの課題となりうるだろう。また 日常化 習慣化を ひとつの深化された体験とみなすならば ひとつの根拠ある諦念 たぶんだれもが耐えている諦念に到達するだろう。
- 括弧書きの(性愛)は 原文のものである。
(書物の解体学 (中公文庫 よ 15-1) p.279)
これは たとえば《〈ヒューぺリオン〉では 〈英雄神話〉になぞらえられたフィクションであるため この〈愛〉の衰えを ヒューぺリオンがギリシャ的なものを救済するため 戦士となって出立してゆくところに根拠づけている》(p.279)と捉えられるようなヘルダーリンの世界から 出立している。つまり自立している。吉本隆明は 自律している。
わたしは ギリシャ古典を扱って 懐古的という批評を与えたが 必ずしもそうではなく 古きよき時代の有り方とは関係なく まともな倫理の議論であると訂正しなければならない。
共同主観としての倫理は 共同観念なる倫理の世界の中で 弱く無力で 自己を保持しつつ 寄留しており 滞留せざるを得ない。精神が滞留し 愛も滞留せざるを得ない。しかも この 死は死であり 死のとげなる罪は罪であり その善悪の基準に従って罪の共同自治をおこなうという共同観念の世界にあって 共同主観の寄留は・そして愛の滞留は しかしながら その形式において 人が 日から日へ 変えられてゆくと考えられる。
性愛ということであれば 有り体に言って その性愛のためのコミュニケーションが 共同主観の問題である。始まりにおいて 必ずしも《歓喜》ではなく 互いの同意が つまりそのような主観の意思表示が 共同主観かつ愛の前進の問題である。
諦念と言っても――すなわちこの場合 《習慣化・日常化として ひとつの深化された体験・ひとつの根拠ある諦念》と言っても――よいわけであるが この諦念には 共同主観の有り方として それは 日から日へ変えられてゆく*1という過程が伴なっていると蛇足として付け加えたいと考える。
次のユング論が 最後である。
19 共同主観にとっての《夢》
《カール・グスタフ・ユング》論にて 積極的な主張への発展を見るということではなかった。この《書物の解体学 (中公文庫 よ 15-1)》では 変な言い方だが 決着がつくというわけでもないという情況ではある。
ここで吉本隆明は いまひとつ別の懐古を扱っている。懐古は むしろそのことによって 旧い倫理の世界からの出自を取り上げている。これも かれの・あるいはわれわれの通るべき道というのでもなく むしろ障害になりうることのほうに内容がある。その限りで この障害性をかれは摘発している。
ここで その具体的な論旨を しかし たどろうとは思わない。その必要はないと思うからであり 精神分析学という独自の分野は すでに取り払うべき・乗り越えるべきと 基本的に考えるからである。
- フロイトにしろ このユングにしろ その心理学・精神分析は 精神とか愛が滞留するというとき この固定化というような意味での諦念につながるというのであれば そこに・その独自の分野の内側に とどまろうとは思わない。共同観念の倫理・心理・考え方に従うかたちで 滞留・諦念をあつかうというのであれば 共同主観の息吹を抜きにするのであれば あまり魅力がない。深入りする必要がないと考えられる。
ここでは 夢〔判断〕が 共同主観(その人の愛)にとって どんな意味を持つかといった主題として論じることがよいと思う。
ここで吉本隆明は ユングやフロイトを その精神分析学を むしろ全面的に否定する立ち場である。吉本の言うところは 鉄格子の世界からの飛翔 われわれの言う帰郷の道にとって 精神分析学〔への固定的な滞留〕は 障害にこそなれ 有効な思想的営為はそこに見出されないということである。このような心的現象の領域は 吉本の固有の得意の分野であって これへの批判は その意味で 徹底的であるのをわれわれは見出す。この方向はわれわれの共有するところであるのだが しかしまた 吉本のそのポジティヴな《心的現象論》にも ついて行けないところがあって その意味でこのテーマについては論議すべき内容が豊富だとも考えられる。
これが前置きであるが テーマの取り上げ方については 従って ユングを逆に擁護するがごとく 共同主観にとっての夢にかんして 見てみたいと考える。
- 吉本隆明の別の著書《心的現象論序説 改訂新版》は 別の《共同幻想論》からの――時間的な成立の前後をとわないかたちで――それへの移行は 後退したすがたに映る。一口でいえば 愛(共同主観)の建築学ではなくて 個々の建築資材の分析・点検に走ってしまっていると思われる。このことで むしろ批判の意を尽くしていると思うのだが かれはそこでは 一個の〔共同〕主観としてではなく かれ自身である主観・その《自己》をも まるで寄木細工のように 精密検査するごとく 細部分析的である。われわれは これを摂らない。というより 摂れない。この《心的現象論序説》の中の〈夢〉にかんする議論はこれを われわれは この第一部の付録の議論として取り上げることとした。
さて《夢》がわれわれ人間にとってどんな意味を持っているか・持っていないかを 検討することが 吉本の《ユング論》の批評である。
結論は 《夢》が――あるいはその限りで 夢判断が―― 何か意味を持ったものではないということ まずこれである。フロイトが《夢》を取り上げたこと そしてまたユングが強引に 夢は現実とそのまま つながっているのだとさえ論じたことには しかし 一理あると思われる。それは 次のような脈絡においてである。
昼から昼へ 夜から朝へ 日から日へ新たにされる
神は 人間に天使たちを遣わし その思索の行き詰まりを打開せしめ これを導くと考えられる。むろん神を立てることなくても いい。つまり この世のさまざまな現象をつうじて それが 自然という対象であれ ある日出遭う人であれ 社会のいろんな出来事であれ これらをつうじて(これを 神によって遣わされた天使たち〔の契機〕だというが) われわれ人間は 自己を導くのである。すなわち同じことで 現実の倫理の世界と自己の現実との矛盾対立やその葛藤からの出立を 自己の意志や力によってにしろ 単なる情況(相手)の変化によってにしろ 獲得しつつ 日から日へと 新たにされる。
- 《日のもとに新しきもの無し》だが それらへの視点が変わるのである。
このとき いまのテーマにかんして 夢が その判断の一材料にならないとは言えない。天使たちがそのようなかたちででも現われないとは言えない。世界に流通する倫理や判断(それはパタン化された共同の観念)と 自己の現実の判断との葛藤 そのような《つまづきの石》が この夢からももたらされないとは言うことが出来ない これである。
だから 《目覚めて眠れ》ということにはならない。《夢判断やいわゆる夢占いが 何の意味も持たない》ことと 《夢によっても 神に知られる・すなわちキリスト〔の判断 としての自己〕を知ることもある》こととは 別である。
だから 目を覚ましていなさい。いつの日 自分の主が帰って来られるのか お前たちにはわからないからである。次のことをわきまえていなさい。家の主人は 泥棒が夜のいつ頃やって来るのかを知っていれば 目を覚ましていて みすみす自分の家に押し入られはしないだろう。だから お前たちも用心していなさい。《人の子》は思いがけない時に来るからである。
(日本語対訳 ギリシア語新約聖書〈1〉 マタイによる福音書 24:42−44)
これは 一回きりの《かの日》について言われた言葉である。しかしそうであるがゆえに その道を歩むこの日・その日の日常的なことに属さないとは言えない。だからと言って 夜に夢の中で 絶対的に このつまづきの石が置かれるというものでもない。しかしそれは 《夢》にそれをつうじて天使が派遣されないということを 立証しない。
もっとも
俗受けすることからいって 《夢》理解のうち いちばん興味をそそるのは ある《夢》が これから起るであろう時間的に未来の出来ごとを予言しているようにみえ しかも《夢》のとおりに じっさいに その出来ごとが起ったという場合・・・のことである。
(書物の解体学 (中公文庫 よ 15-1) p.300)
といったかたちでの つまづきの石(自己の現実の判断)のことではない。ここで吉本は 《俗受けのすることからいって いちばん興味をそそるのは》と言って そしてまた 実際にはあとで このような例における夢判断をも 否定することになるのだが――だから かれは こんなもったいぶった論旨の展開を初めからやめるべきなのだが―― これにもかかわらず 吉本を悩ませる(そのような一種の 懐古へ誘われることもあると自省するがごとく悩む)所以は その否定のための自己の理論をほんとうはつかみかねていることにあって 結局この《俗受けのする夢占い》を始末しかねているのだ。
- だから 《心的現象論》などという茶の木畑の議論へと進むように見られる。
だから このような《夢の予言性》に――それがたとえ実証されるようなことがあっても―― 天使のもたらす自己の判断 ないし キリスト・イエスその人である《つまづきの石》は 見出されえない。それは まったく無縁であるとまず はっきりさせなくてはいけない。
夢は 天使の遣わされる手段の一つとして(ほんの一つとして) 現実に葛藤する人間 言いかえると 鉄格子の世界にあってそこからなおも 神の国の門をたたく人間 かれに現実で有効であることが起こりうるというのみである。《予言》は 判断・その人の主観を示さないだろう。また 稀に 予言がその人の主観でもあるというとき すでに預言者たちの中の最大の預言者が現われたのであるからには そのかれ(キリスト)の預言のうちの《予言》として 誰か人に伝えられるということはないと言うべきであろう。
- 仮りに一種の予言 つまり 《これから起こることを示す》それが 現われるとしたなら それは いづれか一人の主観から出たものであったとしても 共同主観つまり 言いかえると 主観共同化の実際の過程こそが 問題であり 取り上げられねばならないということとなる。
夜に夢の中で盗人のように来たとしたら それは自己のかかえていた判断の問題に対してであって――もっと言いかえると 《〈わたしはアブラハムの神 イサクの神 ヤコブの神である〉(具体的にだれだれの神である)と書いてある。神は死んだ者の神ではなく 生きている者の神である》(日本語対訳 ギリシア語新約聖書〈1〉 マタイによる福音書 22:32)であって 自己とは無縁な第三者(その意味で死んだ者)のことがらに関して 天使が遣わされるとは思えない であって―― この意味においてではない《予言》とは無縁である。
- 自己とは無縁な第三者が 死んだ者であるというのは 互いの関係として死んだ者という意味であって 第三者じしんが その人の神とともに 生きた人間であることは 言うまでもない。しかし 占いとは 夢占いに限らず この《死んだ関係》の上に立っている。(商業的に行なわれているそれらが どうのこうのと言う前に その占いじたいは そうである。)だから 共同主観とは無縁である。ある人とその第三者とが 或るきっかけで互いに隣人となるなら この生きた関係において 夢の中にも その関係の進展にかんする判断が示されることはありうると言うのである。フィクションに限らず 書物も芸術も実は この夢に近い。
人が日から日へ 変えられ 共同主観がこれに参画している時 夢もその一つの変革とその判断を提供する場合がある。そしてこれは 占いや巫とは かつまた精神分析学上の夢判断観とは 別個の現実である。《予言 / 予知 / あるいは 夢告》といったことがらとは 別である。予知や夢告が 共同主観としての自己形成そのものに参与する場合が可能性として考えられないでもないが そのときでも 初めの認識の立て方がちがうのであって この場合の予知や夢告は主観〔形成〕に有効でありまたそれに包まれてしまう性質のものである。しかし すべての夢による予知や予言が 生きた主観(その共同化 したがって生きた関係)に関与するというものではない。
吉本は この夢の予知の問題(それをユングが扱っている それも真剣に)から 《死後の生命はあるか?》(p.336)などと問いかけるまでに この精神分析学者とお付き合いをつづけている。結局かれは これを一笑に付すわけであるが このようなお付き合いは 無意味だとわれわれは言うのである。
わたしが読みえたかぎりでは ユングの《神話》理解の方法は ただ《英雄神話》と《月昇天説話(カグヤヒメ)》とから 辛うじて覗うことができるだけである。そして ユングの《神話》理解の方法を知るには それだけで充分だといってもよい。
(書物の解体学 (中公文庫 よ 15-1)p.355)
- 《神話》理解の方法について:夢の予知は生死にかんするものとなり それは 死後の生命はあるかと問うまでになり 死についての神話を用意し 《神話》はこれを
個体の あるいは個体とひとりの個体のあいだの 生誕から死までの心的な形成と 展開の各時期に対応させることから成立っている。
(p.351)とする。
と結論づける。特に《それだけで充分だといってもよい》という総合的な批評の仕方に 吉本のユング評の中味をわれわれは見るのであるが この結論の導かれる論理とその否定の仕方には すっきりしないものがある。上の引用節にすぐつづけて書かれたユング論の・そして書物全体の最終句は すでに――《はじめに》の章で――われわれの引用した部分を含み まずこれを掲げて検討してゆきたい。
現代では 《神》や《神話》は 《地上》からさらに ひきずり落とされて《地下》へ落ちてしまっている。いいかえれば 個々の人間の心的な奥にしまいこまれている。たれも ことさらそれをとりだそうとする者などいない。強いてとり出せばユングのいうように 《神》のかわりに不安神経症があらわれ 《神への怖れ》のかわりに強迫神経症があらわれることを 無意識のうちに心得ているからである。なぜならば《神》とは自己意識の上限にしかすぎないし 《神への怖れ》とは《天上》へまで延びた自己意識にたいする 自己への怖れ以外のものではありえないから。
(書物の解体学 (中公文庫 よ 15-1) p.355)
わたしにはここで 吉本は ユングの長い吟味を終え その理論の取捨選択をした結果 なおかつ ユングに押さえつけられているとしか思えない。ユングの夢告あるいは神話理解の方法にである。しかし 《神》や〔古代人にとっての〕《神話》とは そもそも《個々の人間の心的な奥に》――《しまいこまれている》かどうかを別としても―― 存在したことではないのか。過去に存在したということなのではないか。わざとニーチェにならって言えば(倣ってということになると思うのだが) 旧い倫理たる共同観念の《神は死んだ》のではないのか。
《現代では 〈地上>からさらに ひきずり落とされて〈地下〉へと落ちてしまっている》というのは いったい何を意味表示させようとしているのか。その理由を説明するこれにつづく文章(《いいかえれば 個々の人間の心的な奥にしまいこまれている》)も 実は 鉄格子の世界・そこに流通する倫理判断の通俗的な形式〈パターン)をそのまま 写生しているにすぎない。吉本の・自身の 神との関係は いったいどうなのか。夢のお告げにユングが立って かれは このように 時におとなしく 時にまともで ただ倫理的な・しかし生きていない関係の中の死んだ判断形式として だから主観でもなく何でもないものとして 文章をつづったにすぎないのではなかろうか。本来の倫理の世界へと飛翔したはずでは かれは なかったか。
《神》が 《自己意識(倫理の世界)の上限にしかすぎない》という倫理的に善悪を判断する古き人の古き館を あのロートレアモン論の最後に 捨てたはずではなかったのか。
《神への怖れ》とは 《〈天上〉へまで延びた自己意識にたいする 自己の怖れ以外のものではありえない》と言うのなら むしろ《神は存在する》と言おうとしているのか。つまり みづから引いた聖書(マタイ伝)の二つの節 その夢告に示された怖れであると言おうとしているのか。
- つまり単純に 自己意識の内で怖れがともかく起こっているというのなら それは あたかも予言された人間のふしだらさであるとか あるいは 燃え盛る炉の中へ投げ込まれはしないかという恐れとかかわりがあるのではないか。まったくない上に それとは別に 神経症や恐怖が起こっていると言っているのか。
だから 《心の奥にしまい込まれている》《かれ》を人は ふたたび見出すと言おうとしているのか。かれとは つまづきの石であるが かれを見出すべきだと言おうとしているのか。それとも 次のように同時に言って 神をいわば憎みたいと言おうとしているのか。
〔心の奥にしまい込まれたかれを〕強いて取り出せばユングのいうように 《神》のかわりに不安神経症があらわれ 《神への怖れ》のかわりに強迫神経症があらわれる・・・。
(p.355既掲載)
あるいは 《・・・このことを〔人びとは〕 無意識のうちに心得ている》と論じるのであるから これら現代人の不信・停滞をなじっているのか。
また天の国は次のように喩えられる。人びとは網を湖に投げ降ろして いろいろな魚を寄せ集める。網がいっぱいになると岸に引き上げ 坐って 良いものは器に入れ 悪いものは投げ捨てる。世の終わりにもそうなるのだ。天使たちがやって来て 正しい人びとの中にいる悪い者どもをより分け 燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。
(日本語対訳 ギリシア語新約聖書〈1〉 マタイによる福音書 47:50。吉本による引用節は 13:41−43。同じような内容のものである。わざと変えてみた。)
ああ エルサレム エルサレム 預言者たちを殺し 自分に遣わされた人びとを石で打ち殺す者 めん鳥が雛を羽の下に集めるように わたしはお前たちの住民を何度集めようとしたことか。だが お前たちは応じようとしなかった。今や お前たちの神殿は見捨てられて荒れ果てる。言っておくが 《主の名によって来られる方に 祝福があるように》と言うときまで 今から後 お前たちは決してわたしを見ることがない。
(日本語対訳 ギリシア語新約聖書〈1〉 マタイによる福音書 23:37−39)
いや 吉本はかれ自身 ここに遣わされる天使たちの一人であることを自認していたのではないか。はじめその能力を欲したも のちその存在を 正しく欲したことによって そう自認したのではなかったか。
だから吉本に代わって 議論を継ぐとしたなら こう述べるべきである。人は夜 強盗のようにやって来る《かれ》を見なかっただろうか。夜 ひとり 静かに そしてひそかに しまい込んだ心の奥の・精神の秘所なるかれを 昼の鉄格子の中の《不安神経症や強迫神経症》の代わりに 見なかっただろうかと。しかし たとえ夢告のまだ来なかった人にしても 夜 あの自由なるかれが――もっとも吉本の場合 《昼は労苦が造り 夜も労苦が造る》と述べてはいるが―― ある日ふとやって来るということを 《無意識のうちにも心得ている》からでないなら 人は 《自己意識を〈天上〉へまで伸ばし その自己意識のたとえ上限においてにしろ 〈神〉をとらえる》ことをしないであろう。誰か だから 神を見なかったか。誰が 神を見たか。とは正当にも言いうるように思われる。
言いかえると 倫理の古き館に未練を残すのは 誰であったか。その寄留とともに 古き館(現行の秩序)に尊遵を誓う者が 誰か 神を見なかったであろうか。
昼と夜との 古き館と来たるべき新しきやしろ(社会)との 倒錯は 神のゆるした歴史である。そして ここからの共同主観は 誰かこれを それぞれ明確につかまないほど 愚かであろうか。吉本自身の方向はここにあって もし仮りにわれわれが吉本の方法を乗り越えなければならないという場合には その克服の方向はやはりここにあって それはそのまま 共同主観者の 共同観念世界への寄留の形態が 歴史的な移行を獲得することであると捉えられる。これが謙虚にも――謙虚にも――われわれが このお付き合いをつづけて いわゆる個人攻撃をここまで敢行したただひとつの理由である。
(つづく)
*1:日から日へ変えられる:《文字は殺し 霊は生かす》と言い 脅迫倫理になってはいけないが たとえば《古い人をその行ないと共に脱ぎ捨て 造り主の姿に倣う新しい人を身に着け 日々新たにされて 真の知識に達するのです。》(《コロサイの信徒への手紙》3:9−10)