caguirofie

哲学いろいろ

               第一部 第三の種類の誤謬について

もくじ→2005-05-13 - caguirofie050513

続考

16 古き人の解体

吉本隆明書物の解体学 (中公文庫 よ 15-1)》第六章は 〈ヘンリー・ミラー〉を扱い 〈初期 / 虚無 / 社会 / 論理〉の四項目からなっている。われわれは これの批評をつづけたい。
まず全体について 次のように受け取った。
ここでは 吉本隆明は ひじょうにまともである。もったいぶった言い方をすれば お利口さんである。どうやら 前章のミシェル・レリス論だけではなく 前々章のロートレアモン論の最後に あれほど言うとすればキリスト史観に立った自己の神学を披露したあとでは かれは 非常に自重気味である。

  • たとえば聖書について マタイ伝を日本語によってではなく ただちに読み解けないかたちを採るようにフランス語訳によって 引用し掲げるほど 自己の内なる精神に触れたものを感じ取ったということがあるのだと思われる。
  • 《あまりにも倫理的であったので ロートレアモンは いまでも人間のふしだらさを予言しつづけている。》などと そのマタイ伝の一節を掲げる際に 紹介の労を取っている。
  • わたしの内では 予言については 極力避ける考えがある。そんな議論で説得する気にはなれないから。そんなわたしにとって この吉本の打ち出しは 見方によれば 驚異である。その内容・影響についてどう捉えるか これは わたしの中で まだ 決定的な結論には到っていないものがある。

物書きとしての自己の《いと高きところ》を あの天使たちの《中間状態》に置いた――天使もどきだとしても 天使の座と捉え得る場所に置いた――そしてさらには この地点からあらゆる物事を裁判にかけてゆきかねない勢いを見せていた吉本隆明は ここでは見られない。かれは まともであり 新生したように見える。

  • このあと 三人の文学者・思想家についての論考を残しており これがどう推移・変化していくか 見ものとなってきた。

このヘンリーミラー論では かれは ミラーの文学とともに 自己の解体 およびその同義としての世界の解体 これを取り上げている。つまりこれを言いかえると これまでたどってきた概念を用いるすれば 《関係の絶対性・その社会的な総体》《鉄格子の世界》《倫理(善悪 / 罪の共同自治)の世界》《共同観念にかかわる古き人の古き館》 これらの解体・変貌を 真摯にじっくり考え 論じている。

おそらく あとは ここでは やはりいちど 一節だけ引用されている新約聖書の文句を確認すれば いまの批評は済みとなるほどである。これも同じくフランス語訳そのままの引用となっている。この確認が 総括的な批評になると同時に 具体的にもすべて終わると言ってもいいくらいである。
吉本がフランス語訳文のまま引用する聖書の言葉は かれの精神〔の秘所〕のありかをよく伝えていると思う。重ねていえば かれは 出典・箇所を明かさず 日本語訳なしに 次の文章を引用した。

Jérusalem, Jérusalem, qui tues les prophites et qui lapides ceux qui te sont envoyés, combien de fois ai-je voulu rassembler tes enfants, comme une poule rassemble ses poussins sous ses ailes; et vous ne l'avez pas voulu !

  • 動詞rassemblerが 第一箇所のみ ressemblerと誤植あり。

(和訳)ああエルサレム エルサレム 預言者たちを殺し 自分に遣わされた人びとを石で打ち殺す者 めん鳥が雛を羽の下に集めるように わたしはお前たちの住民を何度 集めようとしたことか。だが お前たちは応じようとしなかった。
日本語対訳 ギリシア語新約聖書〈1〉 マタイによる福音書 23:37 / 日本語対訳ギリシア語新約聖書〈3〉 ルカによる福音書 13:34−35)

《〔自己の解体・世界の解体を見ている〕ミラーの心には 〔上記のような〕新約書の言葉が蘇えり 涙腺をゆるめてしまうのだ》(書物の解体学 (中公文庫 よ 15-1) p.202)というのが その引用箇所である。
このような涙を誘いかねない文章の叙述によって わたしは初めに ここで吉本は まともであると述べたのではないことは〔これからも〕含みおいてもらわねばならないが(――そのような誤解は どうか勘弁してください――) 吉本は明らかにこのように あのロートレアモンの章でたどりついたたとえば《本来の倫理の世界 / 生者から類別された生者(死者というより)の世界》を 大きな前提とし始めていると思われ このことには注目すべきであろう。そしてこのことは わたしのキリスト理解がたとえ正しいか正しくないかの議論を別にしても まともな議論だとまず言わなければならない。

  • 吉本隆明は 《ヘンリー・ミラーの心が 聖書の一節に接して 涙腺をゆるめてしまう》と言っているのであって それは吉本自身の心ではないというのは正しい。わたしはこれを承知しつつ ――ここからなおも天使の領域へ天翔りつつ去っていくかに見える――吉本を 上のような理解へと一度ただ引きずり出したのである。そうしたほうがよいと思った。勝算はない。もしわたしの曲解であるとした場合 以下の議論は ゆえのないものである。これを承知で すすめたい。

自己の解体――その《古き人》の解体―― 世界の解体――古き共同観念の倫理館の新生―― これを論じて あのわれわれの最初の議論・つまり この《鉄格子の世界》が関係の絶対性の中にも それじたい動き出しうる・変化しうるということを 捉えようとしている。好意的に曲解しているかも知れないが これじたいは正しい歴史観だと考える。吉本隆明が この視点へと動いたのである。想定上。ヘンリー・ミラーは かれにとって そのような思想的な営為を提供したものと考えられる。

  • 非思想的な文学だと見る場合には それでも・それゆえにでも 思想的な営為を導きだしたと。
  • 聖書の一節は とうぜん 古き共同観念に執拗にこだわる人びとと これに抵抗する共同主観を明らかにする人びととの 戦いというよりは その違いを 伝えようとしている。

ヘンリー・ミラー論にかんしてわれわれが述べることは 以上である。おそらく続けて次の論考に移ることができるであろう。

17 唯物論なる神学

ガストン・バシュラール》論において 吉本隆明は バシュラールに異を唱えている。その具体的な紹介はここで割愛する。
ここでは《物質》という概念の定義を明らかにしておけばよいと思われる。吉本隆明 かの吉本隆明も ここではこの定義が欠けているので バシュラールに異を唱えることにもなろうし また 一つの象徴的な事例として 次のような文章(認識)を述べなければならなくなっているとわたしには思われた。

かつて上古には この《物質》への働きかけは 《昼は人が造り 夜は神が造る》憑依状態であった。現在 わたしたちが おなじことに従事すれば 《昼は労苦が造り 夜も労苦が造る》ことになる。現代では 《物質》 それへの手触りから余りにもへだてられているから 対象としうる《物質》は 手で触れるにせよ 眼で識知するにせよ 働きかけるにせよ 《物質》そのものではなく 《物質》の結果にしかすぎないからである。
書物の解体学 (中公文庫 よ 15-1) p.256)

わたしには この上古と現代との比較の問題や そのいづれの時代における《物質》へのかかわり方にも 正しい認識がなされているとは思えない。かれはここで――前章で まともな一面を見せたあと そのあたかも帰郷の道を かれの青年期・幼年期への回顧に見出すがごとく―― しんみりとしてしまっている。ただそれだけである。
ここでは まだ何も言っていないに等しく はっきりいうと 愚痴を並べているにすぎない。(未読者には 不案内であろうが こう断言したままとする。)
われわれが目で見ている物体は 形式をともなったその内容である。内容をともなった形式である。物体の形式(たとえば 《円い》)は 形相(一般に《円い》)と捉えられ 物体の内容(《色が黒い》)は 質料として捉えられる。質料は 一般に《黒い色〔としての 物体の中の要素〕》)である。形式と内容は ひとつの物体として 互いに不可分であるが またそのように相即的にして可変的であるが 形相と質料とは 互いに切り離して 形相のみとして あるいは 質料のみとして 認識しうる。これらの認識は 物体の把握に際して獲得した人間の有(もの)である。
さて 神は 永遠・無限であると想定するしかなく 数・幅・大きさ等を持つ有限なる物体ではない。ゆえに 霊と言ったりする。光ともいのちとも 代理の言葉で表現する。その代理表現にかんする限りで 形相において捉えられる存在である。

  • 神は愛であると言われるとき 愛は 形相であり この形相に固着することによって――しかし無論そのとき 身体の運動としてもそうしているであろう それらのことによって―― われわれは 愛を愛し 神を・そしてそのとき 自己および他者をも 愛することができると言われる。自己の持ち前の力に応じて 愛するであろう。形相をとおしてわれわれは このように自己の存在の根拠を知りうる。
  • 想定の問題だといわなければならないが むしろ先に信仰がある。先に信仰が むしろ与えられている。与えられたところから始まる。この非経験の霊に対する非思考としての信仰 これを もし与えられたとするなら その内容を 人間のことばで あたかもたとえとして 自らが自らに説明することを始める。そのような過程としての信仰がある。
  • この信仰過程について 人はさまざまに説明表現をおこなう。それらの主観は 一定の核心となることがらについて 普遍性を持つ内容として共同主観を形作っていくであろう。
  • この想定の問題・また表現の問題という前提は この議論では 詳しい説明を省こうというところから出発している。

自己の根拠を知りうるといっても 人間は時間的な存在であるのだから 過程的であって 無時間的に・倫理の世界を超えて 知りうるというのは それがあるとするなら 予感によってである。(つまり その証明の根拠は乏しい。)
われわれは まだ 顔と顔と合わせて 形相をとおして 神を知りうることはない。神の知恵がどんな形相であるか だれもその神の貌を見ることはできない。
《物質》というものは 純粋なる質料である。と想定される。質料はまだ この世のもの(肉眼などでとらえられる範囲のもの)であるとすれば 物質は 質料を超えた質料の源とでも呼ぶべき概念である。その限り形相である。この物質ないし質料じたい そのあたかも自己運動を為すかのような存在じたいは おそらく神にとっても 手に負えないものとして想定上捉えられるものと思われる。
人間にしても 物語の想定上で 神は自己に似せて造ったのであるが 自由意志を与えたことにおいて 神に逆らうことも自由である。一定期間を区切って見た場合 この自由意志を持った人間にしても それは 神の手に負えない存在である。意志ないし精神がそのようであって 片や身体は質料から成っている。この質料も手に負えないように見える。この限りで 物質は 神にとっても手に負えるものとしてあるとは 思えない。
神は永遠であるが 神は永遠に主であるのではない。もし そうでなければ われわれは 主に対しても(永遠の主に対して) 永遠の被造物を想定しなければならなくなる。そのままで永遠の被造物としての存在があるかということに成る。アブラハムの・そして何にも増してキリスト・イエスの 共同主観は 歴史を貫いて 人の一生涯という有限なる時間を超えて あたかも永遠を観想しうるが この共同主観じたいも永遠なるものではない。

  • 逆に つまり経験にかかわる共同主観というよりは 非経験にかかわる信仰を持ち出した場合 この信仰にしたところで それは 永遠なものではない。もし神を顔と顔を合わせて見たときには そのときまでこの顔を信じていたという記憶のみを残して 信仰は消えてしまっている。信仰は やがて消えて無くなるものである。

しかも 共同主観がわれわれの存在の根拠ではない。それは 信仰をとおして 存在の根拠を観想する史観(また生)である。人間にとって 神が主であるのには――信仰と共同主観が生起するのには―― 時間的な初めがあるのだ。質料(自然といいかえてもよい)に対して このように初めを持つ人間にとって(つまり時間的な存在にとって) その限りで 手に負える範囲と度合いが つまりそのような知恵と力とを 人間は与えられるにすぎない。むろん人間は発見・開発するのだが。
このとき 絶対者(その人格かつ神格)を見たくないと言い しかし 古き倫理の館・その共同観念の世界(だからまた質料としては商品の世界)を超えた世界を見ようとする人びとは 質料の存在にかんして なおもその根源となる領域 これを想定しようとするのである。言うまでもなく これが 唯物論である。むろん目には見えないその根源とは 《物質》という概念である。その究極のすがたにおいては 神と変わりない。或る神学なのである。
もちろん この敢えて言ったときの唯物論という信仰は その形相(≒物質)を 精神としてのように精神において 倫理と為して 押し付けることはしないと思われる。

  • あるいは なんらかのかたちで そういう倫理的な要請・強制もあったかも知れない。

信仰次元の内容を教義と為して宗教とすることは 断乎 回避したものと思われる。キリスト・イエスを絶対に持ち出さない神学なのだと考えられる。

  • カール・マルクスが その死後 一種の救世主とされたかもしれない。物質を指し示したのだから。人びとは ある種の信仰告白をなしたかもしれない。

質料(そこには 商品のあたかも自己運動がかかわる)もしくは それの元となる物質 これらは しかし 悪魔ではない。悪魔とは むしろ 質料に対する人間の部分的な優位性によって 質料にかんするその科学的な共同知によってのみ 人間が 一般に商品世界をめぐる社会的な罪の共同自治(つまりはじめからの倫理の問題の処理)を執り行なっていくこと そこで 古き館の栄光として・共同観念の王者として君臨するよう促す力にかかわるものと考えられる。死の制作者といわれる悪魔だが その悪魔とは 共同主観でさえ永遠ではないのだからというので 昔からの共同観念という饗応の館の中で 限りある生の範囲内で すべては 事足りるとすること このように死をすべての主観の中断と見る見方を固定してしまうこととかかわるのではないだろうか。
要は 質料に対するわれわれ人間の考え方が問われている。
質料から 物質にまで進んで この人間の世界をとらえようとする 言いかえれば そのようにして理性による認識をたずさえ 帰郷の道を進もうとする人びとは すでに 神を予表している。神の愛の歴史の中に包まれていると言わざるをえない。その神学・つまり唯物論には 悪魔的な要素は見られない。もちろん キリスト史観が 宗教つまりアヘンとしての宗教となったごとく 唯物論が いわゆるイデオロギーとして 旧い共同観念の倫理を真似た倫理関係の固定化と強制によって やはり脅迫による罪の共同自治の様式をつづけた場合がある。
依然として 共同観念に対する共同主観のたたかい(その無力)の問題がつづく。たしかにわれわれは 吉本とともに《宗教的な救済やイデオロギー的な救済にかんする 倫理の極限化という錯誤 これを非難する》ことから出発したのであった。
われわれの この世での寄留がつづく。
差し詰め バシュラール論の一篇にかんしては 以上の点を述べて 次の一章に進んでよいと思われる。

  • もし不案内で要領を得ない議論(少なくとも 吉本説の紹介として)であったとすれば はじめに掲げた引用文の中で 《昼は労苦が造り 夜も労苦が造る》という見方 これは 自己をやはり中間状態なる空中へ揚げてしまった見せ掛けの視点であり どこまでも宙遊状態だと考えられる。このような語りかけは もうたくさんだと 一度は言って否定しておかねばならない。われわれは これは 愚痴を並べたものだと すでに言った。 

(つづく)