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哲学いろいろ

              第一部 第三の種類の誤謬について

もくじ→2005-05-13 - caguirofie050513

深追い記

15 共同観念を見極めよう

書物の解体学 (中公文庫 よ 15-1)》第五章は ミシェル・レリスを扱って 〈性・母・資質〉と〈《聖》の概念〉のテーマで論じている。
ここには 取り上げるべき・注意すべき問題はなかった。それは 総じて《未開》を論じたからであろうか。
最後のあたりで 《昼と夜》の概念に触れている。未開社会における時間の概念という主題にもかかわって 一日がどのように夜と昼――夜から一日が始まるという見方もある――に分かれると捉えているのか。この区分は 《巫女》の主題から抽き出されると言い 神託が問題であるなら 《聖》の概念にもつながるかに言われる。
ただ この第五章では まとまった議論ではなく われわれも ミシェル・レリスを扱うことが ここでの目的ではないので すべて 控えることとする。

この15節では まったく別個に 

パパラギ―はじめて文明を見た南海の酋長ツイアビの演説集

パパラギ―はじめて文明を見た南海の酋長ツイアビの演説集

なる書物をとりあげることとした。《未開》つながりである。吉本隆明と直接の関係はない。
初めから いくつかの主張をつづけて引用したい。信仰と宗教 共同主観と共同観念の問題――その互いのあいだの緊張と対立の関係など――に注目しうる。

(1) パパラギは いつもからだをきちんと包むように心がけている。あるひとりの とても偉くかしこい白い人が 《からだは罪深い肉である。首から上にあるものだけが本当の人間である》と私に言った。
・・・
しかしながら 肉は罪 アイツウ(悪霊・悪魔)からの贈り物――これより愚かな考えがあるだろうか わが兄弟たちよ。
パパラギ―はじめて文明を見た南海の酋長ツイアビの演説集 p.18)

(2) かしこい兄弟たちよ・・・おまえたちも あの宣教師の言葉をはっきりと覚えているだろう。《神は愛である。ひとりの真の救世主(キリスト)が常に愛そのものであるという善をなしたもうた。だからこそ白人の崇拝は 大いなる神にのみ向けられる》と。
宣教師たちは私たちに嘘をつき 私たちをあざむいた。パパラギが宣教師を買収し 大いなる心の言葉を借りて私たちをだましたのだ。丸い金属と重たい紙 彼らがお金と呼んでいる これが白人たちの本当の神さまだ。
(p.38)

(3) それからパパラギは 私たちのことについてこうも言っている。
《きみたちは貧しく不幸だ。きみたちには 多くの援助と同情が必要だ。きみたちは何と物を持っていないではないか。》
たくさんの島々の愛する兄弟たちよ。物とは何か。おまえたちに告げよう。――たとえばヤシの実はひとつの物である。ハエたたきも 腕輪も 食事の皿も 髪飾りも すべてこれらは物である。
しかし 物にはふたつの種類がある。ひとつはヤシの実や 貝や バナナのように 私たち人間が何の苦労も労働もせず あの大いなる心が造り出す物である。いまひとつは 指環や 食事の皿や ハエたたきのように たくさんの人間が苦労し 労働をして作り出す物である。・・・
(p.50)

(4) パパラギは本当に空を打ち破ってきた人 神の使者のように見える。なぜなら彼は 自分の喜びのために天と地を支配する。彼は魚となり 鳥となり 虫となり そして同時に馬となる。大地に穴をあけ 大地をつらぬき通す。もっとも広い真水の河の下も通り抜け 山も岩もすり抜ける。足に鉄の車輪をつけ もっとも速い馬よりも速く突き進む。彼は空に昇る。飛ぶことができるのだ。私は彼がカモメのように空を飛ぶのを見たことがある。彼は巨大なカヌーをもって海を走る。大洋の下を走るカヌーを持っている。彼は雲から雲へカヌーを走らせる。
(p.78)

(5) どのパパラギも 職業というものを持っている。職業というのが何か 説明するのはむずかしい。喜び勇んでしなくちゃいけないが たいていちっともやりたくない何か それが職業というもののようである。
職業を持つとは いつでもひとつのこと 同じことをくり返すという意味である。・・・たとえば私が自分で小屋を作るとか むしろを編むほか 何にも仕事をしないとする。――すると私の職業は小屋作り あるいは むしろ編みということになる。
(p.86)

(6) ひまなんて とてもあったためしがないと言い張るパパラギたちがいる。この連中は まるでアイツウにとり憑かれた人のように 首のないまま走り回り 行く先々どこにでも 災いと大混乱を起こす。
(p.62)

(7) パパラギは一種特別な そして最高にこんがらがった考え方をする。彼はいつでも どうしたらあるものが自分の権利になるかと考える。それもたいてい ただひとりのためであり みんなのためではない。このひとりというのは 自分自身のことである。
(p.68)

西サモア ウポル島ティアヴェアに住んだ酋長トイアヴィのこの言説は 第一次世界大戦前夜にヨーロッパでのことだというから すでに百年ちかく昔のものである。
(2)の言説は ほかの事項とつながっている。つまりたとえば アイツウにとり憑かれたごとく時間に追いかけられて労働して作り出す物は トイアヴィたちは持っていないが 《しかし大いなる心が造り出す物について アリイ(紳士。=パパラギ)はひとことも言えるはずはない。そう いったいだれが私たちより豊かであり だれが大いなる心の造り出した物を 私たちよりたくさん持っているだろう》という主張につづく。かれは やせ我慢を張ったわけではないだろうが われわれは ふつうの勤勉で 物を作り それを持ってもよいであろう。

(8) 《精神》という言葉がパパラギの口にのぼるとき 彼らの目は大きく見開かれて すわってしまう。彼らは胸をはり 背を伸ばして重々しく呼吸する。敵を倒した戦士のように。なぜなら彼らはこの《精神》というものを とりわけ誇りに思っているからだ。精神といっても ここでは宣教師が《神》と呼び 私たちみんなはその貧しい似せ絵にすぎぬ あの強く大いなる心のことではない。そうではなくて 人間が持ち 人間にものを考えさせる小さな心のことである。
(p.106)

とまず おさえて トイアヴィはその大いなる心への信仰を中心とする共同主観に立ちつつ ただし この精神の思考行為にそれほど重きを置くというのでもない。

(8a) たしかに私たちは 知ることの練習 パパラギの言葉を借りれば 《考える denken》をたいしてしているわけではない。しかし あまり考えないのが馬鹿なのか それとも 考えすぎる人間が馬鹿なのか それは疑問である。
・・・
おまえたち 考えることをしない愛する兄弟たちよ。私がおまえたちにありのままの真実を残らず告げた今もなお 私たちは本当にパパラギのようになりたいと努力し 彼らのように考えることをおぼえねばならぬだろうか。
(承前)

すなわち 《私は言おう そうではない!》ということなのだが――こういう議論は すでに 考えることをとおして 行なっているのも 然ることながら――それは 《私たちの頭と心をたたかわせてしまうすべてのものから 自分を守らねばならない》 すなわち《考えることが重い病気であり 人の値打ちをますます低くしてしまうものであることを パパラギは身をもって私たちに教えてくれた》(事項の(1)(2)など)という意味でのことである。
トイアヴィは 精神を 排斥も放棄もしていない。大いなる心へ向かう小さな心 その主観の共同倫理でよいと言っている。次のように締めくくる。

(9) 愛する兄弟たちよ もし 私たちが神さまと同様にあがめ 尊び 最愛のものとして胸に抱くものを偶像というなら パパラギは今 むかし私たちが持っていたように ずっとたくさんの偶像を持っている。・・・だからこそ彼らは 神さまのご意志ではなく アイツウの意志で動く。
パパラギ―はじめて文明を見た南海の酋長ツイアビの演説集 p.122)
           *
愛する兄弟たちよ。だれひとり きらめく福音の光りを知らず 暗闇の中にみんながじっとすわっている そういう時代が私たちにはあった。自分の小屋を見つけられない子どものように そのころ私たちはさまよっていた。心は大きな愛を知らず 耳は神の言葉を聞くことができすにいた。
パパラギが私たちに光りを運んでくれた。彼らは私たちのところへ来て 私たちを暗闇から救い出してくれた。・・・パパラギの宣教師は 私たちにはじめて神とは何かを教えてくれた。そして 宣教師が誤れる偶像と呼んだ私たちの古い神々から 私たちを遠ざけてくれた。偶像の中に本当の神はなかったのだ。
( p.118)

だから 《アイツウ(悪霊・悪魔)の意志で動く》というのは 自分の意志でということと同じ行為に属する。アイツウなどは これですと言って見せるわけにいかないものだから 自由意志の問題である。非経験の領域をも含めて議論するときに 説明のために用いることばである。
したがって トイアヴィにとっても 共同主観と共同観念との識別が問題であり 前者の保持が重要だと言っていると考えられる。宣教師の言葉の中に その両方があり これらを見究めたということである。ここでは 天使もどきの中間状態の問題は 起こっていないのかも知れない。
むろん サモアにとっての昔からの共同観念( Das Samoatum )があって これと一人ひとり自分の主観とのあいだの葛藤が繰り広げられているはずだ。共同観念の《伝統》に付く人びとと そうではなく自らの個人としての主観を大事にしたいという人びととの間に 思想・倫理の上で 対立もあるだろう。両者は 互いの相手の考えこそが アイツウにとり憑かれているのだと言うかもしれない。話し合いをどこまでも進めていけばよいはずだ。

付録(1) アイツウaituuについて

《アイツウ(悪霊)の意志で動く》というアニミズムの原始心性は 現代では 《アイツウの意志で動くことを 自己の意志とした》という精神と主観の問題になっている。
ちなみに このサモア語の《aituu》は 日本語のおに(鬼)と比べられたことがある。

Samoan:      aituu
Indonesian:   hantu
Tagalog:      anito
Palau:      'alid
Satawal:      yaliu
Yap:        anyi
Hawaii:        uhane
Japanese:     oni

ただし わが日本語のおには 漢語《隠》から出たと言われる。

付録(2) R.L.スティーヴンスン断片

十九世紀の終わり頃に スティーヴンスンはサモアの人たちに次のようなことを語っていた。

酋長たちよ。・・・私の申上げたいのは 外敵に対する勇敢な戦士としての諸君の時代は既に終ったといふことです。今や サモアを守る途はただ一つ。それは 道路を作り 果樹園を作り 植林し 其等の売捌を自らの手で巧くやること。一口でいへば 自分の国土の富源を自分の手で開発することです。之をもし諸君が行はないならば 皮膚の色の違った他の人間共がやって了ふでせう。
・・・即ち 此の島の酋長といふ酋長 島民といふ島民が残らず 道路の開拓に 農場の経営に 子弟の教育に 資源の開発に 全力を注いだら ――それも一ツシタラ(スティーヴンスンのこと)への愛の為でなく 諸君の同胞 子弟 更に未だ生れざる後代の為に さうした努力を傾けたら どんなに良かろうと思ふのです。
中島敦《光と風と夢》1942――光と風と夢・わが西遊記 (講談社文芸文庫)

要領をえない単なる抜書きであるが サモアにとってトイアヴィより前に既に パパラギの文明との 抜き差しならない交わりが始まっていたようである。

付録(3)アマゾンのアボリジニー

宇沢弘文によると アマゾンの熱帯雨林に居住する少数民族の人びとは 医療技術を伝承的に受け継いで来ていて 《熱帯雨林に生息する動植物 微生物や土壌 鉱物などについて どのような症候 疾病 傷害の治療にどのように使ったらよいか》に詳しいという。
日本経済新聞2005・01・08《やさしい経済学》から引用する。

長老たちのなかには 一人で五千種類におよぶ治療法を知っている人もいるという。〔米国の製薬会社の〕専門家たちは これらのサンプルを本国に持ち帰り 化学分析をし合成して 新薬として売り出すというのである。米製薬会社の多くは巨大な利潤を得ているが そのかなりの部分が このような形でおこなわれる新薬開発によるといわれる。
・・・・
そこで ブラジル政府は米製薬会社がアマゾンの長老たちに特許料を支払う制度を新しくつくった。ところが 長老たちはこぞって米製薬会社から特許料を受け取ることを拒否したのである。
・・・
自分の持っている知識が 人類の幸福のために使われることほどうれしいことはない。その喜びをお金にかえるというさもしいことはしたくないという ヴェブレン的な理由からであった。